awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

粟の国と長の国(二柱の神と二つの港)


古代の阿波は粟圀と長圀との二つに分かれていました。

その境界は名東、名西二郡を隔てる山であり、南方に長圀、北方に粟圀が存在していました。粟圀は粟族が、長圀は長族(即ち海人族)が住んでいたのです。

粟族の中心地は名西山分の神領、長族の中心地は名東郡 佐那河内地方でした。
名西郡 神山町の「府殿」という地名は、もともと部族統制の中央政府が置かれていた場所であり、佐那河内の「府能」も本来は「府野」で長族の政府の所在地であったのです。

斯くて粟族は次第にその勢力を西北に延ばし、種族は順調に蔓延していきました。忌部族が渡来してより其の勢力の消長がありましたが、その蔓延の広がりは郡名に「阿波」、村名に「アワシマ」などいう名残りがあるのをみてもこれを想像することができるでしょう。
そして長族については次第に東南に発展していき、郡に「那賀郡」、川に那賀川の名を今に伝えているのです。

粟族は粟を常食とし、長族は米を常食としていました。

粟は畑で生育しますが、陸稲以外の稲は水田で育成しなければならず、そうすると必然的に稲の栽培には多くの水を確保する必要がありました。そして大量の水を確保する手段として用水路が用いられたのです。

用水路は稲を作る者の第一の条件で、新田開墾、耕地整理についても米作には何時も用水路の開発が第一の問題となりました。
そこで佐那河内村「井開」「井貝」という姓が残っているのも、この「井」、即ち用水路造成について尽力した者の功績として贈られた姓であるからなのです。

元来水田は、最初渓水のある山間に耕作されましたが、次第に降下して更に山麓地に進出、最後に河川沿岸の地に開拓されました。今の佐那河内村を山麓から山肌の棚田を確認すれば、その過程が想像できるでしょう。
そして人間は作物を栽培する上で自然や穀物を神として祀り崇拝するようになります。

粟族、粟の神は「大宜都姫命」
長族、稲の神は「観松彦命」


神山町神領に鎮座する「上一宮 大粟神社」は粟の神 「大宜都比賣命」を。

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f:id:awa-otoko:20141111203749j:plain (上一宮 大粟神社)

佐那河内村に鎮座する「御間都比古神社」は稲の神、長の国造の祖神 「観松比古命」を祀っている祠(神社)なのです。

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f:id:awa-otoko:20141111203849j:plain (御間都比古神社)

古代の徳島は今より海水が深く入込んで、陸地が少ない地形でした。

そのため佐那河内には長族が居住し、稲を作る傍らで漁業も営んでいました。
その理由から海人族の祖神である「豊玉比売命」を奉祀していた形跡も残されています。
古代は道路造成が発達しておらず、道が粗悪で通り難かったので交通は船を主として移動していました。そのため「津(ツ)」、即ち港の必然性が大前提でありました。

そして次第に「津 : 港」が発展し、神山の川の下流には「名方津」
源が佐那河内より発する八萬川の下流には「八萬津」が作られました。

名方津は粟圀に、八萬津は長圀に属していましたが、二所の何れも良港で優劣がなかったと伝わり、名方津は今の国府町や僧都の辺りで僧都淵(寒水の意)即ち、神山の川より流れる多量の水を受け、その傍らで海水を浸々と溜めていた場所でした。

近くの「和田」や「海見」は狭湖で山間の深く水を溜めいたところである名残であり、「大浦」もその名のごとく、昔は海辺であり、国府町「和田」には「海神 和多都美神(和多都美豊玉比売神社)」を祀ってあり、石井町尼寺「尼木」は海人城(あまぎ)で海人族が繁栄した場所であったのです。

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f:id:awa-otoko:20141112060733j:plain (和多都美豊玉比賣神社)

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f:id:awa-otoko:20141111204101j:plain (玉子神社(豊玉比賣神社))

「名方」の名(ナ)は蝦夷語では「ネァ」を促音とし、「ネ」とは如しの義であり、「ア」とは銛(もり)、矛、槍などの先端が尖れるものを意味します。
よって「ネァ」とは矛の如き地という意味であると解釈することができ、名方の「方(カタ」は「潟(ガタ)」、よって海水の入る良港であったことを指します。
 
後世、地形が変わり港が次第に浅瀬、陸地の面積が広がるにつれ「名方」の意味を忘れられていったのは時世の推移によるものでとても残念でなりません。
そして名方津の存在から郡を名方郡と呼び、名方津を中心として東西に分けて、名東郡名西郡と呼ばれていました。(以西郡の名も名方津以西の意味より起る)

「名(ナ)」は水を意味する語で、国府町の「中村」は名方津が陸地化して村となった場所であります。海部郡牟岐の中村、板野郡北島の中村、いずれも元はその土地が水中にあった場所なのです。

それでは「八萬津」に話を移しましょう。「八萬」とは今の上八万町のことで、「八萬津」は今の上八万の大木周辺に位置していました。
遥か昔は「大木」まで海水が掃入していたので船舶が往来していました。
海人族の総帥 安曇宿祢がこの「大木」に居住地を構え、祖先である安曇王の城を奉祀したので「王城(オオキ)」と呼び、のちに宛て字で「大木」と書かれるようになりました。周辺に「宅宮神社」がありますが、祭神は「意富門麻比賣(オホトマヒメ)」、「意富(オホ)」は「大(オオ)」、「門麻(トマ)」は「泊(トマリ):港」を意味します。このことから「八萬津」を祀る神であり、「大きな港」を指していることがわかります。

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f:id:awa-otoko:20141112061633j:plain(意富門麻比賣神社)

「八萬津」は古くは海に繋がり、多くの舟の往来がありましたが、次第に上流からの土石や海から流れ込む砂礫に陸地が増していきました。
このように「高津」「中津浦」「下津浦」など、いずれも「八萬津」であった一部が現在では田畑となってしまい、残された地名からしか想像することができなくなってしまいました。

大化元年、粟國、長國を合併し、「粟ノ國(阿波国)」とするにおよび、中央政府である京都との連絡には立地条件が良い大きな港の「名方津」を利用しました。
その流れから名方津に近辺に国府の建設地に選定され、現在の国府町に至るのです。

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f:id:awa-otoko:20141112062108j:plain (国府町観音寺 総社)

そしてもうひとつの主要港である「八萬津」は津田港として現在も徳島県の物流、移動の手段として機能しているのであります。

昔は水位が今より高かったので、徳島公園も陸の孤島国道11号線(バイパス)辺りも海の中でした。(沖浜、西新浜の地名も海であった名残り)

現在の阿波は粟国、長国の繁栄のもとに築かれた国だったのです。