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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

宮倉ノ和耶 (宮倉神社、和耶神社)

阿波の伝説 阿波の神社巡り 那賀郡
日本書紀 推古天皇の御巻捨五年の条に云く
「七月戊申朔庚戌是歳冬於倭国作 高市池藤原池肩岡池菅原池 山背国堀 大溝於栗隈 且河内国作 戸苅池依綱池 亦毎国置 屯倉-云云」

※ 屯倉(みやけ): ヤマト政権の直轄地経営の倉庫などを表した語。それと直接経営の土地も含めて屯倉と呼ぶ。

阿波国は上古、粟国と長国に別たれておりました。その長国の屯倉は那賀郡宮倉邑に敷かれていたのです。
この那賀郡の宮倉は「和耶神社」とも深く関わりがあります。

少しばかり説明を。

「和耶神社」は「宮倉村能路寺山の西の麓」にあり、三尺四面ばかりの小祠でありました。所の者は今熊野権現と称し奉ったと伝わります。

例年正月の七日夕暮れに能路寺住僧並に所の山伏が神前において法楽読経し、法螺貝を吹き終わると群衆の老少一時に「ワア」と声を揚げること両三度、氏子の家々をまわり豆を打って追儺したそうです。これがワヤの神事であります。
那賀郡宮倉村(皇代に屯倉を国々に置給ふ所を宮倉と云)の小山に寄て和耶の神社あり、是又延喜式内の小社なり、土人近来は今熊野権現と称す、今にて氏子は少く其の辺の氏子二十に過ぎず、祭礼等もさびしき事といへり、然れども毎年節分の夜氏子の家毎に追儺の豆を熬て一家より男子一人宛社前に至る、其の内の父老一人進て社内に入り別当能路寺について豆を献じ、余を持て社前に出づれば氏子ども一統に声を揚て和耶々々と三度呼びつ丶退帰るを、家族待うけ今宵の和耶はいかに首尾能済しやと問へば、答て云ふ、こよひ和耶は首尾よく済たりといふて後に家内追儺の豆をはやし祝ふとなり、誠に上代の遺風なるべし。
以前にも記載したので重複しますが…
和耶神社は現在、羽ノ浦神社に合祀されて社は現存していません。

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しかし、、、実は「和耶神社」は残っています。

それは…

那賀郡羽ノ浦町西春日野に鎮座する「宮倉神社」です。

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由緒書きから引用します。
創立年代不詳なれどこの地宮倉は古くより開け中央政権に送る穀物を一時保管するところの倉を設けてあるところから宮倉地名の起こりのようです。
此地の山中腹に鎮座しましたこの社は芝家の奉仕と立江八幡神社により永年お守りしてまいりましたが宅地開発にともない移転せざるを選なくなり社のいく末を大変心配奔走する芝家のお爺ちゃんも志なかばで亡くなるも宅地開発に携わる方々がその意志を受け継ぎ熱きおもい一つとなり元の所在地に近いこの場所を新たに設け宮倉の土地の守り神又住み行く人々の生活をお守りしていただく神様で有るようにとの願いをこめまして 平成十年五月二十一日落成致しました。
ここに由緒と経緯記し新たに住む人々がこの心を受け継ぎふるさとのまちとして幸福に生活されることを祈念致します。
どうですか。
立派に「和耶神社」を継承していると思いませんか。

この「宮倉神社」の周辺は宅地開発が進み、見る影もありませんが昔は田園が広がっていたのでしょう。

「宮倉神社」はひじょうにわかりにくい場所に鎮座していますが、実際にこの社を訪れてみて昔の情景をイメージしてみるのも宜しいかと思います。

その際はぜひ「羽ノ浦神社」にもご参拝下さいませ。
それともう一つだけ。
この屯倉があった場所には「春日…」という地名が関連しています。(憶えておきましょう!)
また別の機会にその他の阿波の屯倉を紹介できればと考えています。