御所神社は土御門上皇を祀るのか?(御所神社)
徳島県阿波市土成の宮川内(みやごうち)には土御門上皇にまつわる伝承が多く残されています。そして宮川内には御所という地名があり、その場所には御所神社が鎮座しています。
土御門上皇の御所があったから地名も「御所」って訳ですね。
今から約800年前に承久の乱の後、土御門上皇は後に阿波国に遷り、嘉禄3年(1227)吉田の御所屋敷に行宮を営まれたと伝わる。
上皇は都や隠岐のことを偲ばれつつ歳月を過ごし、實喜3年(1231)37歳にして、この地で崩御された。
崩御されたと伝わる場所には御所神社が鎮座し、上皇が腹を切った「御腹石」なる岩も残されている。
(※ 御腹石は上皇側近の間野右近と宇野左近が追っ手に斬られた場所という説もあり)
しかし私はこの土御門上皇の御所まつわる伝承について耳にしたとき非常に違和感を感じました。
そして取って付けたような阿波での土御門上皇の足跡が私の中で多分に違和感を増す要因となっていたのでした。
そんな感じで阿波の伝承を調べていますと、、、注目すべき内容を見つけました。
板野郡宮河内村御所山越(大たを越と云)といふ道あり、此の幽谷に奥の御所、口の御所といふ行宮の跡あり(御所大明神の社あり)元暦二年の春 平家都を落とさせ讃岐国八島の浦に仮に内裏を建てられしかども軍兵のみ防ぎたたかひ、天皇は此の山中に御所を建て潜行ならせ給ふ、口の御所は猶ほとちかしとて奥の御所に御座ありけるが、すでに八島の軍やぶれしと聞しめし、猶又麻植郡木屋平山に巡狩し給ひ、つゐに美馬郡祖谷山に皇居ましましてかの地に岩隠れ給ひぬとなん。
平家物語、盛衰記等には長門国壇浦にて入水せさせ給ひぬと見へたれど そは表の説なり、実は門脇中納言 教盛卿等供奉し給ひしにこそ、今の祖谷 阿佐の名主即正しき彼の卿の苗裔なり、その外さるべき殿上人等もば陪従ひおはせしとぞ、此の他名主等に平家の遠孫など多けれ。
(燈下録 巻之一)
この江戸中期に書かれた文献では「安徳天皇の行宮跡」であったと説いております。
源平の合戦において負けた平家が安徳天皇を連れて祖谷に落ちたという伝説の一端ですね。
そして、なぜ祖谷に落ちる必要があったのでしょうか。私は忌部氏の存在が大きいと考えています。
この伝承を現在の立地条件や氏族末裔から考えると無視できない内容です。
もう少し調べ特化すべき内容が見つかれば、ここに追記して行こうと考えています。