awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

白は城!阿波四家大身 大西氏とは!?

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白地城(はくちじょう)は四国の中央部の山間地に立地し、西の境目峠を越えると伊予国・北の猪ノ鼻峠を越えると讃岐国、東の吉野川を下ると徳島平野を中心とする阿波国の中心部、南に吉野川をさかのぼると土佐国と、四国の十字路といえる位置にあった。南北朝時代から戦国時代にかけては白地城を中心とした一帯は大西氏(おおにしし)が支配し、阿波の守護大名である細川氏、戦国時代にはその細川氏から実権を奪った三好氏に服属した。しかし、天正3年(1575年)に土佐を統一し、四国統一を狙う長宗我部元親がその地理的重要性に目をつけ、翌天正4年(1576年)攻略に成功、時の城主大西覚養は落ち延びた。『元親記』には元親の発言として“先づはこの大西さへ手に入り候へば阿讃伊予三ケ国の辻にて何方へ取り出づべくも自由なりと満足し給ひけり”とある。その後は長宗我部氏の四国征伐の拠点として使われ、天正13年(1584年)の豊臣秀吉の四国攻撃の際には逆に防衛拠点となった。戦役の後、廃城となった(地域の拠点としての役割は近くの大西城が持つこととなった)。(Wikipediaより)

f:id:awa-otoko:20160820174809j:image吉野川から白地城址を望む)

はい。今回は白地城址と大西氏についてです。
過去に「白(シロ)」は「城(シロ)」に通じると書きました。

「白」は「神を祀る人(神祇官)」を意味し、地名に「白」が入っている場合は、古に神の祭祀が行われていた土地であった可能性が高い。

古社などが鎮座している場所と同様で、山上や台地(高台)などが多く、大概は天災に影響を受けにくい場所が設定されていました。そして祭祀を行っていた場所であるため祭壇、石段、石垣等の整備が残っていることが多く、神聖な場所であり、安全であり、尚且つ建築物が残っているために建築コストを削減が可能。そのような場所に目を付けた時の権力者達は「白」に「城」を築いたのであります。

 

さてこの白地城址。昔から興味があったのですがなかなか現地に行く用事もなく、祖谷や土佐に出るまでの通過点でしかありませんでした。今回やっと現地に目的を持って赴いたのでした。

 

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f:id:awa-otoko:20160820174755j:image(白地城址には観光施設が建築されております。)

 

まず白地城址はゆっくり確認するとして、麓に近い鳩峰山 八幡寺と白地八幡神社へ向かいました。

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f:id:awa-otoko:20160820205426j:image(白地八幡神社

白地八幡神社の拝殿前には狛犬が設置されていません。(本殿には立派な狛犬ちゃんはいます!)狛犬代わりは大きな器です。また左隣に別社殿の八幡神社が鎮座しています!!(これが最大の謎w 笑)

 

f:id:awa-otoko:20160820174940j:image(鳩峰山 八幡寺境内)

f:id:awa-otoko:20160820174952j:image(八幡寺由緒)

八幡寺の由緒はかなり興味深いものですので引用しておきます。

 当山は人皇五十三代の淳和天皇御宇天長五年(828)弘法大師が開基と伝へ本尊厄除薬師如来を奉安し光明院瑠璃光院八幡坊報思寺と称し、殊に建武の頃(1335)伽藍は瓦にて葺かれ最も興盛を極め且つ亦旧白地城主領地は阿波美馬三好、讃岐豊田郡、伊予宇摩郡土佐長岡郡にして五万石を領す元武功徳明親録金川日記より大西公の菩提寺として名高し、阿波史の中に郷土史家七条文堂拓本帖中に白地郷光明山八幡坊報思寺と記し、其の銘に文明五庚己歳(1473)十一月吉日、報思寺大檀那大西出雲守 藤原之高と隠刻報思寺瓦は今尚史家研究資料として有名なり、偶々天正四年(1576)土佐守元親四国制覇に抗し難く寺運も城主と共に悲運に遭ふ、年だ不詳なるも本名山ん坊の地より城北の現地に移り鳩峰山報思隠八幡寺と改称して今日に到る、雨来法統相伝へ七十有余代仁龍上人鋳造の梵鐘の銘に依る千百余年の久しきに及ぶ然れ共開祖及び大檀越大西公の遺跡を偲ぶに由なく唯城主歴代の過去帳と大西出雲守元高公の尊牌のみが往時を物語る  当山第七十三世 滝下基憲書

白地といわれる当地であるからして、空海が当地で開基したのも頷けます。また、八幡寺の境内にはこんな祠も存在します。

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f:id:awa-otoko:20160820191723j:image(稲荷と高野ですって。)

大宜都比売命繋がりなのか丹繋がりなのかは不明です。(たぶん丹でしょう… )

閑話休題。テーマから外れそうだったので戻します。 さて、文中にあるように大西氏は何故に広い領土を有することができたのでしょうか。

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f:id:awa-otoko:20160820205750j:image(大西神社)

大西郷は四国中央部における大西姓の発祥地である。大西郷を本拠地にしていた有力者(近藤氏、小笠原氏、阿波忌部氏など諸説ある)が大西へと姓を改め、200年程の間に伊予国宇摩郡(現愛媛県四国中央市)、讃岐国豊田郡(現香川県観音寺市)、土佐国長岡郡(現高知県長岡郡)へと勢力を拡大して、勢力下にあった地域では善政を施した。(Wikipediaより)

大西は阿波国四家ノ大身と呼ばれた家柄でありました。

大西は當國四家ノ大身也。大西、有持、海部、一宮ヲ四家大身ト云。三好ハ別格也。

 

f:id:awa-otoko:20160820191140j:image阿波国四家大身の繋がり)

大西氏は鎌倉時代荘官として京都より派遣されていた近藤氏が土着・改姓したものとされていますが、本当のところはわかっておりません。

上の写真、阿波四家大身の繋がりで考えると、、、

阿波大身四家のうち、三家が大宜都比売命に関わりがある氏族です。

 

・三好氏(小笠原氏)、一宮氏は粟国造家に入り、大宜都比売命宮司を司りました。

 

・有持氏は田口氏(櫻間氏)の末裔。田口大明神として大宜都比売命を祭祀していた経緯があります。

 

 ・海部氏は息長田別皇子の末裔。息長田別が国府大宜都比売命を勧請、のち海部郡に移動しました。

 

大西氏(近藤氏)にも、大宜都比売命に何らかの関わりがあったと推測してもいいのではないでしょうか。

かなり四家は血筋を意識しているように見えます。よって私の推測では大西氏は池田の白地にて、古より神を祭祀した氏族であったが故に阿波西部の最大勢力となり得たのではないかと考えています。

 

大西氏が土着した白地は四国にまたがる要所。また、聖なる山である箸蔵山などがあり空海伝承も残されています。既出ですが白地の山上には神が通った道(伝承)があります。こちらは箸蔵寺金比羅宮の奥の院に設定されていることから大己貴神少彦名神道後温泉まで行幸した道とも考えられます。

または大宜都比売命の伊予行幸の道とも考えられ、古代から大西氏は大宜都比売命が伊予に行幸する際に田口氏などと協力していたのかもしれません。

 

大西氏と白地。探せばまだまだ面白い情報が出てきそうです。かたちが固まれば改めてアップしま〜すw