awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

木屋平の忌部氏と平家(木屋平 三木家、森遠 正八幡宮)

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阿波忌部氏は太古から天皇が即位のときは麻から麁服(あらたえ)を織り、践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)に貢進してきました。麁服の貢進には阿波忌部の直系である三木家が関わり、御衣御殿人(みぞみあらかんど)として朝廷と深い関係を保ってきたのであります。
 
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三木家の人々は御衣御殿人の役割を果たし続け、南北朝動乱期から江戸期まで中断していた麁服の貢進が大正時代に復活。昭和、平成と受け継がれて現在に至り、平成の践祚大嘗祭での貢進では木屋平栽培、調製された麻から山崎忌部神社の織殿で麁服が織られ、周辺市町村の関係者をあげて貢進に当たってきました。
 
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このように南北朝~室町期を通じて三木家の所領は三木山、中村山の一部、河井山の一部であり、一方の小屋平氏は小屋平・河井の大半を占めます。
三木氏・小屋平氏の支配地域は現在の木屋平村とほぼ一致し、つまり木屋平村は三木氏と小屋平氏(のちの松家氏)により統治されていたと考えてよいでしょう。
 
それでは次に木屋平村の地名の興りともなった小屋平氏にスポットを当ててみましょう。
 
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木屋平の地名は小屋平氏が拠った森遠城付近から生まれた地名であり、かつて地元では「安徳天皇の小屋の内裏」が森遠城の位置に存在したこと、平は小屋平氏が平家であり、小屋に続けて平を加えたものであると伝承されてきました。
 
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通説では壇ノ浦の合戦で三種の神器とともに入水したといわれている安徳天皇と平家一門は、実は安徳天皇を奉じて壇ノ浦の前夜に四国に脱出していました。
その後、山深い森遠に落ち延び、その地に行在所を建て「小屋の内裏」と呼んだのであります。
その後も安徳天皇は平國盛等祖谷山平氏に迎えられて、祖谷へ行幸され、平知経は、この「小屋の内裏」を城塞のように築きなおし、名を「森遠城」と改め、自分の姓も平氏の平と小屋の内裏の小屋を合わせて、「小屋平(のちに木屋平)」としました。
 
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のちに木屋平村 森遠に忌部の有力者の一人が入植したのは、小屋平氏が所有した森遠城の近辺。
平安初期に三木山の忌部の長者・三木氏の次男が、5人の者を従えて当地に入り、5人は下名・弓道・森遠・谷口・川上の5ヶ名に住し、三木氏の次男は谷口に居を構えて大浦氏を名乗って開発を行いました。
 
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森遠は緩やかな傾斜地や窪地が広がり、絶好の日照条件と数ヶ所から清水がわき、小谷も流れて入植者なら真っ先に居住する好条件の場所であり、鎌倉時代に小屋平氏はこの地を入手して本拠地として勢力を伸ばし、やがて衰退した大浦氏に代わって大浦名を支配下に置くこととなったのです。
 
森遠城は本丸・外櫓・馬場などを含めると約一町五反の広さがあり、「阿波志」には「八幡祠平村森遠名に在り、俗に言う土御門天皇を祀ると地丘陵にあり、祠中偃月刀及び古冑を蔵す、阿部宗任持つ所」と述べています。
 
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江戸時代の初期に松家氏は本丸の北東に隣接していた北櫓跡へ屋敷を移し、城を廃して跡地を整理。万治2年(1659)12月12日に正八幡宮を建立して、森遠の氏神としました。
八幡宮には同家の祖霊も合祀して霊廟とし、本丸跡約六反歩を森遠在へ解放。現在も境内には空掘・武者走り・古井戸など城内の遺構が完全なままで残っており、堀の内側は森となって広大な境内が広がります。
 
森遠 正八幡宮に赴けば往時の情景を偲ぶことができますよ。
 
木屋平編、さらに続く!かも…

平清盛と宮内八鉾

徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命延喜式内社であります。

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この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されています。
 
その他「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されていますから、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となりますね。
 
個別に紹介しますと、
 
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一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」となります。
 
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この中の「二品家政所 下文」、「附紺紙金泥法華経」については昔の文献に記録がありましたので引用しておきます。
那賀郡竹原野の郷の内にて、宮内村八鉾の神社は延喜式内の社なり、古は大社にて有りけるや、華表の池中に埋たる木太さ一丈五尺廻り其の二本の間は二十間有りと云ふ、二条帝の御宇に一院(則後白河院法王也)の御領分此の竹原野にも有りしに、毎歳貢物を京師迄上さしめ給ひしに、数度海上にて風波難有りて船を覆す、依りて長寛元年九月れ、廿五日に此の八鉾の神官等迄二品政所より下し文有り、又紺紙金泥の法華経一部並開結阿弥陀、般若心経等各一巻を送奉し、且当庄の水田五段を寄給て社領とし、此の貢物風波の難をしづめやを事並に二品家の子息等も此の神の冥助を祈るの文体有り、此の下し文並に諸経巻今に別当八鉾寺の什宝とす、其の比は専ら平清盛なりし時なれば此の二品家は清盛公なるにや、又は他の摂政の御方にや。
現在、発行人については諸説あるようですが、当時は平清盛では?と書かれています。
どうなんですかね。(笑)
 
このように平清盛もそうですが、源義経も阿波上陸の際には多分に阿波の古社を意識しながら移動しています。中世では阿波旧跡伝承がまだ色濃く残っていたのでしょう。
 
これも追って紹介しようと思っています。
 
 
 
さて、、、
 

この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられております。

上の文献にも「華表の池中に埋まりたる木太さ一丈五尺廻り其の二本の間は二十間有りと云ふ…」とあるように古の社としてはかなり規模が大きい社であったようです。
 
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八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味しています。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名です。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けましたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となりました。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシえべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいます。
コトシロヌシは、式内社事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社のタケミナトミ神社として石井町浦庄字諏訪に祀られています。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社やタケミナトミ神社等の神社は、阿波にしかありません。(境内 掲示板より)
 
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今日はここまで。
また新しい情報が見つかれば追記します。
 
 

平康頼の墓(康頼神社)

徳島県吉野川市鴨島町森藤に「康頼神社」鎮座しています。今回は「平康頼」とその血脈について書いてみたいと思います。

治承元年、大納言藤原成親、法勝寺執行俊寛等と平清盛の専恣を憎んで、密かにこれを滅ぼそうと謀って事露れ、成親の子、成経及び俊寛と共に硫黄島に流された。

「平康頼」は翌年赦されて成経と共に歸ったが、後に此地の一町地と共に其時の諸具、悉く麻植郡森山村大字森藤に埋葬せられてあるということである。
 
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「かのやすよりは、もと、阿波の國の住人。人としなさけもなきものなりけり共、諸道にこころえたるものにて、君にもちかく召仕はれまゐらせて、検非違使五位の上までになりけり。末座に候ひけるが、召出されけるも、時にとりて面目とぞみえける。云云。」(長門本平家物語 鹿ノ谷繪合の條)
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平康頼没。その後…  
 
承久の乱で康頼の嫡男・平清基は後鳥羽上皇方に味方して敗れ、麻殖保の保司職を解任されました。
 
平を名乗る2人は百姓となることで辛うじて生存だけは許されたました。しかし、百姓が平姓を名乗って行く事までは許されず、一人は木邑(現・木村)を名乗り、他の一人は田室(現・田村)を名乗ったそうです。

天保の大飢饉大塩平八郎の乱に加わった木村司馬之輔の本家である木邑権右衛門も同じ木邑姓を名乗っており、大塩の檄文は幕府の取り締まりを逃れ全国に広まり、尊皇攘夷派の天狗党として結集させ討幕へと繋げて行きました。

この天狗党に多くの木邑氏が加わっていたようで、その為に木邑氏は幕府方から命を狙われたそうです。大姓であった木村氏を詐称して平である事を隠し幕府方の追跡を逃れたのです。

田室氏もまた大姓であった田村氏を詐称して平である事を隠し幕府方の追跡を逃れました。

幕末には多くの木邑氏が天狗党に加わり凄惨な殺し合いが行われ、幕府方により斬首されたり獄死をするなどして多くの犠牲者を出し義民として靖国神社に合祀をされています。

このように阿波の国でも平の血脈は繋がり、今でも姓を変えて存在しているのです。

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