awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

令和元年霊峰剣山山頂大祭(劔和讃(つるぎわさん)を読め!)

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実は先月に剣山大祭に参加していたawa-otokoです。だらだら記事を書いていたら一か月が経過してしまいましたw(遅っ!!しかも今回は記念すべき400回目投稿という… 何たる怠慢。)ということで、8月に剣山大祭があった訳ではないので当記事をお読みの方はご注意いただきたくお願いします。

それでは本題へ。。。

今年も剣山大祭に参加するべく剣山山頂へ登って参りましたが、、、当日山頂の天候は大荒れに荒れてこの祭りのメインと言っても過言ではない神輿渡御が中止となってしまいました。神事も宝蔵石神社前とヒュッテの中で行われるというawa-otoko的に物足らないもの。(悪天候故に参加者(担ぎ手)も少なく、熊笹が濡れて急坂を神輿が上がれないと判断したのでしょう。無理に敢行して怪我人でも出てしまったら大変。神輿渡御の中止は適切な判断だったと思います。)

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ということで、、、その時はテンションダダ下がりで神事やその他の行事も撮影しませんでした。したがって臨場感溢れる祭りの写真も殆どなく、、、そんな状況であるのになぜか(めずらしく気が向いて☆キラキラ☆)ブログ更新に着手してしまい、苦し紛れに開けたのは「改訂木屋平村史」。その中に丁度いい前振り記事を見つけたので引用させて頂きます。

主祭神:素戔嗚命安徳天皇

元暦二年(1185)平家没落当時、平家の家人田口左衛門尉成直は父の阿波国主紀民部成良と計り、安徳天皇をはじめその余の人々を壇ノ浦から伊予大三島に迎え、平国盛が供奉して大三島から山路伝いに祖谷山に行幸し給い、ついで文治元年(同年改元木屋平村に遷幸し給うたと伝える。その後、祖谷山・木屋平二村の平家遺臣の子孫らが計り、富士ノ池を仮行在所とし、平家の再興を祈って寶蔵石に安徳天皇の佩の剣を納めて祭祀した。これが剣山大権現の呼称の由来とされ、以降この山を剣山と称するようになったという。

なお、剣山は海抜一九五五㍍で石槌山につぐ四国第二の霊山で、太古から人々の信仰の対象とされていた。仏教の伝来とともに修験道霊場となり、南北朝時代阿波山岳武士の本拠地となった龍光寺は、大同三年(808)僧行基の開基とされる。例年七月十四日から夏祭りが執行され、白装束に身を固めた信者たちによって国家安泰、家内安全を祈り大護摩の行事も行われる。十六日の神輿渡御は山伏姿の信者たちが大勢参加し荘厳をきわめる。

以上、目を通してみれば昭和五十七年七月から剣山頂上の寶蔵石神社に合祀された剣山本宮について由緒が記載されているのですが、今ひとつ突っ込みが甘いと感じるのは私だけでしょうか。(なぜ安徳天皇を匿うために頼った麻植氏(忌部)について掘り下げないのか、また空海が四国鎮守総奥之院として富士の池 龍光寺を選んだことにも言及しないのか。他の項目では記載されているのに。)

上記引用の記事だけでは全国各地に残る安徳天皇伝説のひとつとして剣山もスルーされてしまうのも致し方ないことでしょう。残念です。

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剣山大祭は900年前から(一部で細々と)継承されきた忌部と安徳天皇(平家)を中心としたお祭りです。(あと古より祭祀されているスサノオも忘れちゃいけません。)

実は剣山の信仰登山が浸透したのは比較的に新しく、明治期に龍光寺が中心となって活動したものです。その龍光寺が剣山をPRした【劔和讃(つるぎわさん)というものがございまして、これが読んでみるとなかなか唸る内容なのです。せっかくなので全文を紹介してしまいましょう!!(久しぶりに入力するのがしんどかったゼ。。。)

【劔和讃(つるぎわさん)】

帰命頂礼劔山  其濫觴を尋ぬれば

南海道の阿波の国  無二の霊山霊峰ハ

元石立の山なるぞ  昔時行者の御開山

秋は弘仁六年の  六月中の七日なる

空海大師此峯に  登りて秘宝を修し玉ふ

眼を閉て祈りなん  神と仏と御出現

殊に倶利伽羅大聖ハ  大篠劔の御本地と

愛染王ハ古劔乃  御本地仏と仰ぐなり

されハ秘密の其中に  劔すなはち大聖尊

此時空海石立の  山を劔と呼びたまふ

一字一石法華経の  塚ハ大師の古跡なり

山上山下の障難を  除きたまへる事ぞかし

古劔谷の諸行場ハ  役行者の跡そかし

中にも苔の厳窟にハ  大山大聖不動尊

本地倶利伽羅大聖ハ  無二同躰の尊ときく

衆生の願ひある時ハ  童子の姿に身をやつし

又ハ異形にあらハれて  生々世々の御ちかひ

あら尊しや御劔の  神や仏を仰ぎなば

五日も七日も精進し  垢離取川に身漱して

運ぶ案内富士の池  三匝行道する行者

合掌懺悔礼拝し  御山に登る先達ハ

新客行者を誘ひてや  八十五町を歩きつつ

右と左に絵符と数珠  唱る真言経陀羅尼

此の御劔の山なるハ  大聖尊の三昩池ぞ

踏しあさゆる爛漫の  梵字即ち大聖尊

壱度拝山拝堂を  いたす行者の身ハ影の

形ハいつも離るらん  悪事災難病難を

祓ひおさむる御宝劔  六根六色備るを

唯真心のひとつなり  深く仰て信ずべし

この内容やばいっしょ。(分からない人用にヒントを書いておきます。なんて優しいawa-otoko!!但しヒントはawa-otokoの独自の解釈ですから取り扱いに注意ね。)

空海大師此峯に登りて秘宝を修し玉ふ  眼を閉て祈りなん  神と仏と御出現空海が神と仏を混ぜた?

倶利伽羅大聖は大篠が御本地 : 倶利伽羅大聖とは不動明王スサノオ)のこと。大篠は剣山頂上付近を指す。

愛染王ハ古劔乃御本地仏と仰ぐなり: 実は古劔にイザナミを祀っていたという文献がある。愛染王とはイザナミか?

苔の厳窟にハ大山大聖不動尊  本地倶利伽羅大聖ハ  無二同躰の尊ときく: 大山大聖不動尊とは大山積神のことでしょう。これが倶利伽羅大聖と同神であるということは… 

衆生の願ひある時ハ  童子の姿に身をやつし

又ハ異形にあらハれて  生々世々の御ちかひ

あら尊しや御劔の  神や仏を仰ぎなば : その他、別の神としても派生している?剣山に祭祀された神が根源である。

簡単に書けばこんな感じでしょうか。(まだまだ書きたいことはありますが大まかにはこんな感じ。)

ざっくりまとめれば、役行者空海が秘密(神)を隠した御山に安徳天皇忌部氏、親族である平家一門を連れて再興を祈ったのが剣山ということなのでしょう。

ということで、良いように言えばいろいろ裏を取っていたり(悪くいえば怠慢)していて投稿がかなり遅れてしまった今回ですが、残念ながら核心に迫らずここまで。役行者空海が秘密(神)を隠した内容についてはまたの機会にしたいと思います。(お察しの通りたぶん書きませんが。)ではまた。

宮ノ島に天村雲・八神殿の形跡!?

どうも。今回は事前にFacebookの方で告知風に流していたものですが意外にも「いいね」が多かったので期待に添うべく(調子に乗って)書いてしまいました。

それではawa-otokoの考察にお付き合いいただく前にまず川島神社の情報をご覧下さいませ。

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【川島神社】

創建年は不詳。川島城の二の丸跡に鎮守する。

1915年(大正4年)に行われた吉野川の改修により、善入寺島の浮島八幡宮を中心に神社43社と合祀し、1916年(大正5年)10月20日に新たに川島神社として創建。

祭神: 誉田別天皇天日鷲命菅原道真

awa-otoko.hatenablog.com

awa-otoko.hatenablog.com

以上から本来川島神社は一社ではなく、浮島八幡宮を中心に神社43社が合祀されて現在に至ることがお分かりいただけたでしょうか。浮島八幡宮は別の名称として宮ノ島八幡宮と呼ばれ、八幡宮を崇敬することで鎮座していた宮ノ島村は神の島とも呼ばれていたのです。

f:id:awa-otoko:20190709200238j:image(左端の宮ノ島八幡宮を表示したがいがためにこの頁を掲載しました。)

f:id:awa-otoko:20190709200250j:image(上の頁の続きです。)

そのような宮ノ島に、何と天村雲神社が存在したという古文書を見つけてしまったのです。しかも天村雲命、伊自波屋姫が祭祀されていない天村雲神社という驚きの内容で。その他にも着目する部分として日本一社である天村雲神社が別に存在した(可能性がある)こと。そして祭祀する祭神が八神殿の神ということでしょう。

それでは実際の文書を確認しながら進めてまいりましょう。

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宮の嶋天村雲神社

祭神臍の緒神(ほそのおのかみ)神号聖神と号す。是の社は京都吉田殿にある八神殿の神の教えにして八神は人の躰(からだ)に実する神より生まれ、曰く食となして生長して家業に携わり生涯を全く終る道迄たとえ神と祭りたる也。

第一: 神産日神(是臍の緒の神(うぶの神是也))

第二: 高皇産霊尊(人躰の神)

第三: 玉積産日神(魂魄の神)

第四: 生産日命(寿命を司る神)

第五: 足産日神(如何の不足もなき様に具足さす神)

第六: 大宮賣命是奥津姫命(竃神、宇受賣命)

第七: 御食神(伊勢外宮豊受皇太神、稲荷大明神、五穀の祖神にして宇迦之御魂命と申奉即此阿波の国に主 大宜都比売命も此御事也)

第八: 事代主神大己貴命の御嫡男八重事代主神と云人の◻︎◻︎を司るなり即恵比寿の神也 今人形に代りてもにこにこ笑う姿也福の神也。

下野国河内郡二荒山神是也。類聚國史十六巻曰貞観十一年二月廿八日丙辰干支日正二位の御位と下さるは神人万一生の業と教え導きなる御位なり。此の八座の神等は吉田神楽団の八神殿の祭神なり。

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今此の宮の嶋なる臍の緒大明神とは第一の御神(神産日神)ならん。◻︎◻︎に神号を聖神と祟えられ凢人万の事において通せざる事なき智慧の如きを聖と云う。漢文において魯の国大聖人文宜王名丘氏姓は孔字仲尼と云いたる。人の話にて◻︎日の本にては神◻︎代にては八意思兼命又中昔にては菅原右大臣道真公神去りて後天満自在威徳天神と祟奉り此の人の如きを云うなり。是◻︎に天村雲命、伊自波屋姫の二神を祭神と号せざるは何の拠り所もなきたわ言ならん。と云云

かくあれば此社は◻︎ぶきて何を尋ぬるに◻︎◻︎

八神殿 - Wikipedia

古文書を書き下してみましたが何とも達筆で解読できない箇所は◻︎で埋めています。(ごめんなさいね。)結局読みにくいので要約すると、、、

宮ノ島 天村雲神社の祭神は臍の緒の神であり、聖神である。その神とは八神殿に祀られる第一神、神産日神(かみむすびのかみ)である。

ちなみに第七の神である御食神は伊勢外宮豊受皇太神であり稲荷大明神であり五穀の祖神のウカノミタマ。そして阿波国の主 大宜都比売命でもある。(その他の神の説明は省略。)

とにかく宮ノ島の臍の緒大明神は八神殿第一神 神産日神なのである。神は時代の流れによって変化することがあり、八意思兼命菅原道真に置き換わり、天満自在天や威徳天神に変化することもある。宮の島天村雲神社がなぜ天村雲命、伊自波屋姫を祭神としていないのは知る由もないのである。

読み下せば大体こんなニュアンスでしょうか。

この古文書だけでは真相を追うことは叶いませんが麻植郡宮の島村に天村雲命、さらには八神殿に祀られる臍の緒の神こと神産日神が祭祀されていた可能性を示唆するものではないでしょうか。

あと誤解していないことを示すものとして同文献から川田村、山崎の天村雲神社の記録も存在することを示しておきます。

f:id:awa-otoko:20190709233908j:image(川田村天村雲神社の記録。こちも内容は要チェックです。)
f:id:awa-otoko:20190709233902j:image(山崎村天村雲神社の記録。)
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という訳で、残念ながら宮の島八幡宮を含めた周辺の遺構については見る影も形なくなり、また当時の住民は殆ど移住させられていますので伝承等は期待できません。唯一可能性が残されるのは43の神社が合祀された川島神社に何らかの記録が存在することでしょうか。また来たるべき時情報が抽出できるまでこの案件については待機したいと思います。それではまた。

下宮神社に合祀された神々の謎

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今回は以前に調査していた内容を投稿します。

awa-otokoは現在、阿波の神社学から綺麗さっぱり離れてしまっているのでわからないZEeeeewww!!!! という状態なのです。この場で出してみたら新しい発見があるかも。な感じ。ただ昨日も投稿しているので手短にとたくらんでます。(当然オチなんか考えてない。)

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さてさて本題へ。

つるぎ町一宇に鎮座する下宮神社。旧村社で創建年代は不詳。往古は忌部神社末社であり大宮神社と称していましたが「大」の字を「下」と誤記して下宮五社大明神と呼ぶようになったとい云われています。祭神は猿田彦神命、稲倉魂命太玉命大己貴命大宮売命。だそうです。

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☝︎鳥居の横にある目立つ縁起の看板にも書いてあるでしょ。でも見つけてしまったものは仕方ない。勿体ぶらずに速やかに出しますよ。はい。これ。⤵︎

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社殿の右側に掲示してある明治期に書かれた當社御祭神の額。読めるかな?読みにくいのですが墨跡を辿れば下宮神社は冒頭に延喜にある通り、猿田彦神命、稲倉魂命太玉命大己貴命大宮売命。で、、、そのあとが面白いんですよ。

f:id:awa-otoko:20190615234932j:image(見やすいように色変えてみた。)

椿尾神社: 猿田彦命、少名彦命、保食神

三寶神社: 火結命(ほむすびのかみ)

阿閉神社: 彦火々出見命(ひこほほでみのみこと)

三所神社: 大山祇命

八坂神社: 神速須佐男命

皇子神社: 国狭槌命(くにさつちのみこと)

明見神社: 天御中主命(あめのみなかぬしのみこと)

野中神社: 抓津姫命(つまつひめのみこと)

山神社: 大山祇命

んー、見る人が見たら唸る内容でしょ。全部書いたら終わらないので抜粋しまーす。

阿閉神社に彦火々出見命

阿閉神社は今も播磨に鎮座していますが祭神は住吉三神です。海を渡った時に祭神が変わってしまったのか?阿波では彦火々出見ですよ。凄くないですか?あとあの阿閉(あべ)ですから。。。

皇子神社に国狭槌命。

国狭槌命は日本書紀天地開闢の段に登場する神代七代の神。皇子で国狭槌命を祭祀しているならこれは驚愕でしょう。(ただ同時に大山祇命の神名もあることから大山祇命の皇子である国狭土ノ神を指している可能性も拭えませんが。)

野中神社に抓津姫命。

一説曰 素戔烏尊之子 號曰 五十猛命 妹 大屋姫命 次 抓津姫命 凡三神 亦能分布八十木種 則奉渡於紀伊國 及此國所祭之神是也(先代旧事本紀より)

抓津姫命はスサノオの娘であり、兄が五十猛。直接紀伊国造に繋がってしまいますよ。やばいっすよ。

大山祇命猿田彦命の重複祭祀。

大山祇命猿田彦命の二柱は重複して合祀されています。これを考えると当集落周辺では特に祭祀されていた神々だと言えるのですが忌部神ではないのが不思議。神名を置き換えていることも考えられるのでは?

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上の写真は境内摂社なんですが見たところ五つの祠があります。まさかこれが五社大明神ではないですよね。(汗)

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合祀が多いから地神塔もまとめて置いてます!

ってはい。書けば長くなるので疑問はこれくらいにして。。。そもそも下宮神社は忌部の末社と謳っていますが神名や合祀された社についても忌部神の痕跡が太玉命しか見当たらない。これはどういうことでしょうか。(ガチガチの忌部エリアなのにね。)ともかく、当社の祭神はもとより合祀された神々の謎と当地の関係は調査する必要は大いに有るでしょう。

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ということで、調査中の疑問は今回表に出したので誰かに良い考察出して貰うか、あわよくば解明し貰うことを期待してオチがないawa-otokoは早々にドロンいたします。ではまた。(´・Д・)」=3=3=3

玉厨子庵の飛鉢仙人と不思議の岩屋

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浅井長政の曾孫にあたる阿波に黄檗宗を開いた鉄崖。(あらあら。ぐーたらおじさまが書いてらっしゃる。リンク☞ぐーたら気延日記(重箱の隅): 仏日山 水明寺 竹林院

久しぶりの投稿です。(*゚▽゚)ノオヒサ!

今回は眉山 竹林院を建立した鉄崖の高弟、鉄龍こと飛鉢仙人のお話。ぜーんぜん阿波古代史のお話ではない番外編。それではちゃっちゃと進めちゃいましょう。ヽ(^o^)

鉄龍は不便な玉厨子山に籠り、時々托鉢していましたが寄る年波で急坂八丁の上り下りが苦しくなって日頃使い慣れた木鉢にマジナイをかけて日和佐沖のイサバ舟を回らせながら托鉢の代理をさせていたそうです。

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空中から木鉢がまわりながら飛行し、空飛ぶ円盤よろしく舟から舟へと飛び、船員が一握りの米を入れて木鉢に入れた米が八分目ほどになれば玉厨子山へ飛び戻って庵室の縁側で差し出している鉄龍の手のひらにぴたりと木鉢が収まったとのこと。

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さて、そんな鉄龍の魔法の木鉢はある時に舟の炊事係をしていた子供に面倒がられて木鉢を破壊され、飛べなくなった木鉢はその後薬王寺の宝物として保存されていましたが、明治三十一年の大火で消失してしまいました。(残念。実見者は八寸ばかりの破損した木鉢だったと証言。)

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河内村山河内玉厨子山の中腹玉厨子庵(泰仙寺)から西へ約100メートル、山の突角に墓碑一基「玉厨子山中興鉄龍道人、宝永七庚寅年八月十一日、円寂八十一歳」とあるのが飛鉢仙人こと鉄龍上人のお墓ですね。

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余談ですが、鉄龍上人の墓碑の近くには玉厨子山十哲の墓があり、大師堂の傍らの谷間には三尺ばかりの平な石に座禅石と刻まれたものがあったそうです。朝夕には谷間に据えられていた座禅石に静坐して求道に精進した高僧たち十哲が眠っているそうです。

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昔は僧一人に一個ずつ座禅石が用意されていたそうですが残念ながら出水のため崩れたり流されたりして、現在ではやっと一個、それも草木に埋もれて残されているらしいです。(この玉厨子山の頂上はイラズの山であり樹木を伐れば祟るという。その伝承を無視した人々が山頂付近を全て刈り払い、雨の度に出水が起こり玉厨子庵周辺を流してしまったらしい。)

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はい。この玉厨子庵(泰仙寺)は薬王寺の奥之院として有名?なのですが、これは文治4年薬王寺の火災が発生した際に本尊が玉厨子山に自ら飛んで焼失を逃れたという伝説があるからなのです。(その後、後醍醐天皇により堂塔が再建。本尊が新たに彫られたが、元の本尊もこの時に飛んで帰り後ろ向きに厨子に入り自ら厨子を閉じたとされ「後向き薬師」と称され、元の本尊は以後秘仏となった。このため本尊が二体ある。wiki引用)

そして、その本尊が夜な夜な光を放ったとされる薬王寺奥之院とはココ。

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んー、圧巻の岩屋。神気が半端なく漂っておりました。(観音と不動を祀っておりましたのでアマテラスとスサノオであろうとawa-otokoは解釈)

また、岩屋周辺には磐座もございました。

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超能力者であった飛鉢仙人 鉄龍はなぜこの玉厨子山を終焉の地として選んだのでしょうか。

ちょっと引っかかってしまった場所だったので番外編として久しぶりに書いてみました。今回は触れませんでしたが阿波の古代史に関連した重要な場所かもしれません。そもそも薬王寺が…なところですからね。またそれについては別の機会で書きたいと思います。(たぶん書きます詐欺になるでしょうが。笑笑笑)

やっぱり阿波は面白い場所が多いです。もっとアピればいいのに。

今、上一宮大粟神社社報が面白い!!!!

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どうも。awa-otokoです。ちょっと思うことがあって久しぶりに上一宮大粟神社に参拝して参りました。

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相変わらず社殿から発散される神氣は強くて畏まってしまいます。さて早速本題なのですが、拝殿の昇降口の机上に「上一宮大粟神社社報」が閲覧できるのはご存知でしょうか。こちらの内容、さらさらっと読み流してしまってはいけません。とても重要な内容が書かれているからです。

気になる方は自ら参拝して内容を確かめれば良いのですが、参拝できない方もいらっしゃいますでしょう。そこで親切なawa-otokoが貼って進ぜましょう。ww (早速社報第1号は冒頭に貼ってあるぜ。とりあえずは第1号から第3号まで発行されてます。)

下記にawa-otokoが内容をざっくり抜粋していますが考察はしていません。ホントに興味がある人はきちんと原文を読んで自らの解釈を導きだす可し!!

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社報第2号には境内摂社 粟神社と天石戸別豊玉比賣神の存在、本殿より左手上にある秋葉神社火産霊神(ほむすびのかみ)と大宜都比売命の関係、さらには阿閉御祖神(あへ(べ)のみおやのかみ)が上一宮大粟神社を創始した等々。


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社報第3号は葛倉神社こと腰の宮神社の秘密。祭神は事代主神。しかも大宜都比売命の夫神と書いてます。そして腰の宮は阿波における「元えびす」、恵比寿神社の元社であると!(通町えべっさんの元社つーことですよ。)こちらは過去にリークした内容ですからあまり驚きもなし。但し、神社社報で書いているのは攻めているなぁと思いました。

はい!ここからが重要!!

上一宮大粟神社以前に存在した境内摂社 粟神社の祭神とは「大物主神(おおものぬしのかみ)」、

真名井社こそ大粟山原初の水の神、「天石戸別豊玉比賣神(あめのいわとわけとよたまひめのかみ)」

であると。。。ちょっと衝撃が隠せません!!!!

そのほか文中にはまだまだ伏線が隠されているみたいで… 

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その後、興奮覚めやらぬawa-otokoは天辺ヶ丸から出雲神社を眺めて気持ちを落ち着かせて帰りました。

社報についてはどこから引用したのかソースはともかく、社主(神社)自体がここまで突っ込んだ内容を報じていることに驚きました。たぶん古書にも記されていない内容でしょう。これは社報を読んで勉強させて貰うしかありません。今後の上一宮大粟神社社報の内容に期待ですね。

最近全然研究していないawa-otokoによるリークのリークでした。(^ ^)