awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

玉厨子庵の飛鉢仙人と不思議の岩屋

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浅井長政の曾孫にあたる阿波に黄檗宗を開いた鉄崖。(あらあら。ぐーたらおじさまが書いてらっしゃる。リンク☞ぐーたら気延日記(重箱の隅): 仏日山 水明寺 竹林院

久しぶりの投稿です。(*゚▽゚)ノオヒサ!

今回は眉山 竹林院を建立した鉄崖の高弟、鉄龍こと飛鉢仙人のお話。ぜーんぜん阿波古代史のお話ではない番外編。それではちゃっちゃと進めちゃいましょう。ヽ(^o^)

鉄龍は不便な玉厨子山に籠り、時々托鉢していましたが寄る年波で急坂八丁の上り下りが苦しくなって日頃使い慣れた木鉢にマジナイをかけて日和佐沖のイサバ舟を回らせながら托鉢の代理をさせていたそうです。

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空中から木鉢がまわりながら飛行し、空飛ぶ円盤よろしく舟から舟へと飛び、船員が一握りの米を入れて木鉢に入れた米が八分目ほどになれば玉厨子山へ飛び戻って庵室の縁側で差し出している鉄龍の手のひらにぴたりと木鉢が収まったとのこと。

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さて、そんな鉄龍の魔法の木鉢はある時に舟の炊事係をしていた子供に面倒がられて木鉢を破壊され、飛べなくなった木鉢はその後薬王寺の宝物として保存されていましたが、明治三十一年の大火で消失してしまいました。(残念。実見者は八寸ばかりの破損した木鉢だったと証言。)

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河内村山河内玉厨子山の中腹玉厨子庵(泰仙寺)から西へ約100メートル、山の突角に墓碑一基「玉厨子山中興鉄龍道人、宝永七庚寅年八月十一日、円寂八十一歳」とあるのが飛鉢仙人こと鉄龍上人のお墓ですね。

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余談ですが、鉄龍上人の墓碑の近くには玉厨子山十哲の墓があり、大師堂の傍らの谷間には三尺ばかりの平な石に座禅石と刻まれたものがあったそうです。朝夕には谷間に据えられていた座禅石に静坐して求道に精進した高僧たち十哲が眠っているそうです。

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昔は僧一人に一個ずつ座禅石が用意されていたそうですが残念ながら出水のため崩れたり流されたりして、現在ではやっと一個、それも草木に埋もれて残されているらしいです。(この玉厨子山の頂上はイラズの山であり樹木を伐れば祟るという。その伝承を無視した人々が山頂付近を全て刈り払い、雨の度に出水が起こり玉厨子庵周辺を流してしまったらしい。)

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はい。この玉厨子庵(泰仙寺)は薬王寺の奥之院として有名?なのですが、これは文治4年薬王寺の火災が発生した際に本尊が玉厨子山に自ら飛んで焼失を逃れたという伝説があるからなのです。(その後、後醍醐天皇により堂塔が再建。本尊が新たに彫られたが、元の本尊もこの時に飛んで帰り後ろ向きに厨子に入り自ら厨子を閉じたとされ「後向き薬師」と称され、元の本尊は以後秘仏となった。このため本尊が二体ある。wiki引用)

そして、その本尊が夜な夜な光を放ったとされる薬王寺奥之院とはココ。

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んー、圧巻の岩屋。神気が半端なく漂っておりました。(観音と不動を祀っておりましたのでアマテラスとスサノオであろうとawa-otokoは解釈)

また、岩屋周辺には磐座もございました。

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超能力者であった飛鉢仙人 鉄龍はなぜこの玉厨子山を終焉の地として選んだのでしょうか。

ちょっと引っかかってしまった場所だったので番外編として久しぶりに書いてみました。今回は触れませんでしたが阿波の古代史に関連した重要な場所かもしれません。そもそも薬王寺が…なところですからね。またそれについては別の機会で書きたいと思います。(たぶん書きます詐欺になるでしょうが。笑笑笑)

やっぱり阿波は面白い場所が多いです。もっとアピればいいのに。

今、上一宮大粟神社社報が面白い!!!!

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どうも。awa-otokoです。ちょっと思うことがあって久しぶりに上一宮大粟神社に参拝して参りました。

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相変わらず社殿から発散される神氣は強くて畏まってしまいます。さて早速本題なのですが、拝殿の昇降口の机上に「上一宮大粟神社社報」が閲覧できるのはご存知でしょうか。こちらの内容、さらさらっと読み流してしまってはいけません。とても重要な内容が書かれているからです。

気になる方は自ら参拝して内容を確かめれば良いのですが、参拝できない方もいらっしゃいますでしょう。そこで親切なawa-otokoが貼って進ぜましょう。ww (早速社報第1号は冒頭に貼ってあるぜ。とりあえずは第1号から第3号まで発行されてます。)

下記にawa-otokoが内容をざっくり抜粋していますが考察はしていません。ホントに興味がある人はきちんと原文を読んで自らの解釈を導きだす可し!!

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社報第2号には境内摂社 粟神社と天石戸別豊玉比賣神の存在、本殿より左手上にある秋葉神社火産霊神(ほむすびのかみ)と大宜都比売命の関係、さらには阿閉御祖神(あへ(べ)のみおやのかみ)が上一宮大粟神社を創始した等々。


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社報第3号は葛倉神社こと腰の宮神社の秘密。祭神は事代主神。しかも大宜都比売命の夫神と書いてます。そして腰の宮は阿波における「元えびす」、恵比寿神社の元社であると!(通町えべっさんの元社つーことですよ。)こちらは過去にリークした内容ですからあまり驚きもなし。但し、神社社報で書いているのは攻めているなぁと思いました。

はい!ここからが重要!!

上一宮大粟神社以前に存在した境内摂社 粟神社の祭神とは「大物主神(おおものぬしのかみ)」、

真名井社こそ大粟山原初の水の神、「天石戸別豊玉比賣神(あめのいわとわけとよたまひめのかみ)」

であると。。。ちょっと衝撃が隠せません!!!!

そのほか文中にはまだまだ伏線が隠されているみたいで… 

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その後、興奮覚めやらぬawa-otokoは天辺ヶ丸から出雲神社を眺めて気持ちを落ち着かせて帰りました。

社報についてはどこから引用したのかソースはともかく、社主(神社)自体がここまで突っ込んだ内容を報じていることに驚きました。たぶん古書にも記されていない内容でしょう。これは社報を読んで勉強させて貰うしかありません。今後の上一宮大粟神社社報の内容に期待ですね。

最近全然研究していないawa-otokoによるリークのリークでした。(^ ^)

謎の神代文字:トホカミエヒタメ・スエキアワカミの幟

さて今回は番外編。

船盡神社に伝承されていた二本の幟(のぼり)を確認する機会がありまして…ちょっと調べてレポート書いてみました。(もちろん結論など出ているはずもなくこの点を考慮して読むなら読んで欲しいと思います。)

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幟は長さ7メートル、幅約60センチ、二本とも木綿の布地を使用している。現状傷がはげしく各所に破損した穴を補修した箇所が見受けられる。幟には謎の神代文字が書かれているが船盡神社には幟に関する資料はほとんど残されていない。

f:id:awa-otoko:20190224205356j:image(船盡比賣神社)
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幟は100年に1度の周期でつくり替えられと仮定。神代の時代からであると数十回は作り替えられているだろう。現状の幟には修復した箇所には一字の抜けがあるという説ある。(後述)作り替える際は神代文字を理解しない氏子が総がかりで取り掛かかったため多少変形した文字として置き替えられたり、文字抜けも発生したのではないか。それが幾度となく繰り返されるうちに当初の文字とは全く違う文字になってしまったことが考えられる。

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過去の新聞記事(上:写真)では日本古代文字研究家は、「スエカアワ(もしくはワ)カミ」、「クマ(ワ)カヤミ(イ)ヘフ」と読めるが意味は通じない。その他「朝鮮文字だが現在使われていない文字があったり、△が◯になったり、全く意味が通じない。音読みにすればカオアタヒ、クアカタイヘフ。何か宗教的な意味があるのでは」と推論している。

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左:スエカアワカミ、右:クマカヤミヘフ

地元では「昔は意味が通じていたのに、何回も書き写すたびに字が変わり、趣が違ってきたのではないか。それにしても不思議だ。」と書かれている。

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しかし、ソースは定かではないが船盡神社に伝わる神代文字の幟は「トホカミエヒタメ」「スエキアワカミ」と判読されると説く内容を見つけた。

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著者 地中 孝 「神山の啓示録」である。

超古代に於いてエビス人と稲飯王が宝船で到着した最終地点を船盡の地とし、当時の神代文字が神社の幟として伝承されてきたもの他ならないとする。「トホカミエヒタメ」は稲飯王を讃える祈祷文、「スエキアワカミ」は事代主命としている。

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確かに鮎喰川は太古の昔には水位が予想外に高く、帆掛け船が入っていたという伝承も聞いたことがある。また船盡比賣神社付近は高天ヶ原との境界線であるとも。

地中氏の説(幟の判読も含めて)についてはソースが定かではないため結論付けは出来ないがひじょうに面白い論ではあると思う。(出典が不明なので肯定してないけど。否定もしてない。)

そもそも神山町神代文字が伝わっていること自体が素晴らしいではないか。是非とも幟を管理している船盡神社氏子間で解読して欲しいものである。(いろいろ解読に協力する研究者は声かけてたら出てくると思いますけど。)

 

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という事で今回このような貴重な機会を企画していただきましたS様と皆様、そしてお誘いしてくれたG様、この場を借りてお礼申し上げます。ではでは。

出自の秘密(木屋平に隠された秘密)

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寿永二年、阿波民部成良の頼りによって麻植内山の奥に丸木の御所を造営して安徳帝を隠匿した…

awa-otoko.hatenablog.com

以前に投稿した阿波民部成良と忌部大宮司 麻植氏が画策した安徳帝隠匿の話には続きがある。

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安徳帝の守護は忌部麻植大領である麻植邦光が受けて帝は平穏な日々を送り成長を遂げた。帝は麻植正高の姫を奉るまでに成長、のちに皇子も誕生した。出生した皇子は麻植正高の末子と流布し両者の出自を隠匿した。

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安徳帝は皇族であり平家、そして忌部大宮司家 麻植氏の血を分けた跡継ぎを出生させたということから隠遁する必要が薄らいだのか、または皇子を麻植氏の人間とすることが密約となっていたかは定かではないが、三十一才の時に義法坊という僧を連れて備前国肥後国に赴かせた伝わっている。これは九州の尾形氏、原田氏に故あって引き合わせるのが理由であったという。

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そして数年後帝は身元を明かすことなく崩御された。

平家一門からは平国盛、小松三位直盛が一寺を建立し安徳帝を神霊として祭祀した。(この時、麻植氏は平家として木屋平と祖谷に分かれたと思われる。)この両御所の子孫が麻山に上り、表は麻植氏の一族と唱え、帝の皇子は猪内氏と改めて北山奥に住したという。


是皆 “麻植氏一族” なり。

 

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この麻植一族は後に小屋平と改め平国盛御子は阿佐氏、直盛の御子は松永氏と改め、麻植氏一族は何障りもなく目出度く栄たのである。

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安徳帝の “皇子の御剣” は、麻植内山の奥石立山神社に奉納され後には御剣ノ宮と称され奉祭し、其の式は内裏古例を用いて退転ナシとされている。

 

最後にawa-otokoの独り言。

安徳帝に関わる平家一門が木屋平や祖谷で安息の日々を送れたのも忌部大宮司家 麻植氏の計らいがあってのこと。

忌部氏とは何をもってして忌部氏と認識するのか。古より阿波忌部直系氏人の御殿人(みあらかんど)は、なにも三木家に固定化されていた訳ではなかったであろう。

表だけをみて判断してはいけない。表があれば裏もある。三木より古い真の忌部直系の裔は木屋平に存在するのである。

・:*+.:+ 2019年 あけおめことよろ・:*+.:+

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・:*+.:+新年明けましておめでとうございます。・:*+..:+

・:*+.:+今年も大粟山 上一宮大粟神社に初詣。大宜都比売命の大神と天辺の頂きに坐す大神の御力を授かって参りました。(祝詞から)・:*+.:(ん!?、、、大宜都比売命と天辺ヶ丸に坐す大神は別の神なの???新年早々収穫★ ((φ(・д・。)ホォホォ)

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・:*+.:+ 次に関わりの深い天石門別八倉比賣神社へ参拝。・:*+.:+ 

そして一旦退却。仮眠を取ってから平成最後の初日の出を気延山より拝んできました。

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・:*+.:+ 改めて天石門別八倉比賣神社に参拝。・:*+.:+

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f:id:awa-otoko:20190101084150j:image(拝殿下)f:id:awa-otoko:20190101082215j:image(奥之院)
f:id:awa-otoko:20190101082228j:image(奥之院 真東の太陽が眩しいぜ★)
f:id:awa-otoko:20190101082219j:image(摂社 猿田彦祠)
f:id:awa-otoko:20190101082222j:image(摂社 クガノミタマ祠)
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f:id:awa-otoko:20190101101306j:image(大泉神社)
f:id:awa-otoko:20190101101309j:image(五角形の井戸)

去年はだらだら投稿であったにもかかわらず400000アクセスを突破!!誠にありがとうございました。

今年もawa-otokoの観点から阿波の面白い場所をご紹介できればと考えております。

今年もどうぞお願い致します。(*´∀`)♪ ・:*+.:+・:*+.:+