awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

今、上一宮大粟神社社報が面白い!!!!

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どうも。awa-otokoです。ちょっと思うことがあって久しぶりに上一宮大粟神社に参拝して参りました。

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相変わらず社殿から発散される神氣は強くて畏まってしまいます。さて早速本題なのですが、拝殿の昇降口の机上に「上一宮大粟神社社報」が閲覧できるのはご存知でしょうか。こちらの内容、さらさらっと読み流してしまってはいけません。とても重要な内容が書かれているからです。

気になる方は自ら参拝して内容を確かめれば良いのですが、参拝できない方もいらっしゃいますでしょう。そこで親切なawa-otokoが貼って進ぜましょう。ww (早速社報第1号は冒頭に貼ってあるぜ。とりあえずは第1号から第3号まで発行されてます。)

下記にawa-otokoが内容をざっくり抜粋していますが考察はしていません。ホントに興味がある人はきちんと原文を読んで自らの解釈を導きだす可し!!

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社報第2号には境内摂社 粟神社と天石戸別豊玉比賣神の存在、本殿より左手上にある秋葉神社火産霊神(ほむすびのかみ)と大宜都比売命の関係、さらには阿閉御祖神(あへ(べ)のみおやのかみ)が上一宮大粟神社を創始した等々。


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社報第3号は葛倉神社こと腰の宮神社の秘密。祭神は事代主神。しかも大宜都比売命の夫神と書いてます。そして腰の宮は阿波における「元えびす」、恵比寿神社の元社であると!(通町えべっさんの元社つーことですよ。)こちらは過去にリークした内容ですからあまり驚きもなし。但し、神社社報で書いているのは攻めているなぁと思いました。

はい!ここからが重要!!

上一宮大粟神社以前に存在した境内摂社 粟神社の祭神とは「大物主神(おおものぬしのかみ)」、

真名井社こそ大粟山原初の水の神、「天石戸別豊玉比賣神(あめのいわとわけとよたまひめのかみ)」

であると。。。ちょっと衝撃が隠せません!!!!

そのほか文中にはまだまだ伏線が隠されているみたいで… 

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その後、興奮覚めやらぬawa-otokoは天辺ヶ丸から出雲神社を眺めて気持ちを落ち着かせて帰りました。

社報についてはどこから引用したのかソースはともかく、社主(神社)自体がここまで突っ込んだ内容を報じていることに驚きました。たぶん古書にも記されていない内容でしょう。これは社報を読んで勉強させて貰うしかありません。今後の上一宮大粟神社社報の内容に期待ですね。

最近全然研究していないawa-otokoによるリークのリークでした。(^ ^)

謎の神代文字:トホカミエヒタメ・スエキアワカミの幟

さて今回は番外編。

船盡神社に伝承されていた二本の幟(のぼり)を確認する機会がありまして…ちょっと調べてレポート書いてみました。(もちろん結論など出ているはずもなくこの点を考慮して読むなら読んで欲しいと思います。)

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幟は長さ7メートル、幅約60センチ、二本とも木綿の布地を使用している。現状傷がはげしく各所に破損した穴を補修した箇所が見受けられる。幟には謎の神代文字が書かれているが船盡神社には幟に関する資料はほとんど残されていない。

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幟は100年に1度の周期でつくり替えられと仮定。神代の時代からであると数十回は作り替えられているだろう。現状の幟には修復した箇所には一字の抜けがあるという説ある。(後述)作り替える際は神代文字を理解しない氏子が総がかりで取り掛かかったため多少変形した文字として置き替えられたり、文字抜けも発生したのではないか。それが幾度となく繰り返されるうちに当初の文字とは全く違う文字になってしまったことが考えられる。

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過去の新聞記事(上:写真)では日本古代文字研究家は、「スエカアワ(もしくはワ)カミ」、「クマ(ワ)カヤミ(イ)ヘフ」と読めるが意味は通じない。その他「朝鮮文字だが現在使われていない文字があったり、△が◯になったり、全く意味が通じない。音読みにすればカオアタヒ、クアカタイヘフ。何か宗教的な意味があるのでは」と推論している。

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左:スエカアワカミ、右:クマカヤミヘフ

地元では「昔は意味が通じていたのに、何回も書き写すたびに字が変わり、趣が違ってきたのではないか。それにしても不思議だ。」と書かれている。

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しかし、ソースは定かではないが船盡神社に伝わる神代文字の幟は「トホカミエヒタメ」「スエキアワカミ」と判読されると説く内容を見つけた。

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著者 地中 孝 「神山の啓示録」である。

超古代に於いてエビス人と稲飯王が宝船で到着した最終地点を船盡の地とし、当時の神代文字が神社の幟として伝承されてきたもの他ならないとする。「トホカミエヒタメ」は稲飯王を讃える祈祷文、「スエキアワカミ」は事代主命としている。

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確かに鮎喰川は太古の昔には水位が予想外に高く、帆掛け船が入っていたという伝承も聞いたことがある。また船盡比賣神社付近は高天ヶ原との境界線であるとも。

地中氏の説(幟の判読も含めて)についてはソースが定かではないため結論付けは出来ないがひじょうに面白い論ではあると思う。(出典が不明なので肯定してないけど。否定もしてない。)

そもそも神山町神代文字が伝わっていること自体が素晴らしいではないか。是非とも幟を管理している船盡神社氏子間で解読して欲しいものである。(いろいろ解読に協力する研究者は声かけてたら出てくると思いますけど。)

 

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という事で今回このような貴重な機会を企画していただきましたS様と皆様、そしてお誘いしてくれたG様、この場を借りてお礼申し上げます。ではでは。

出自の秘密(木屋平に隠された秘密)

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寿永二年、阿波民部成良の頼りによって麻植内山の奥に丸木の御所を造営して安徳帝を隠匿した…

awa-otoko.hatenablog.com

以前に投稿した阿波民部成良と忌部大宮司 麻植氏が画策した安徳帝隠匿の話には続きがある。

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安徳帝の守護は忌部麻植大領である麻植邦光が受けて帝は平穏な日々を送り成長を遂げた。帝は麻植正高の姫を奉るまでに成長、のちに皇子も誕生した。出生した皇子は麻植正高の末子と流布し両者の出自を隠匿した。

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安徳帝は皇族であり平家、そして忌部大宮司家 麻植氏の血を分けた跡継ぎを出生させたということから隠遁する必要が薄らいだのか、または皇子を麻植氏の人間とすることが密約となっていたかは定かではないが、三十一才の時に義法坊という僧を連れて備前国肥後国に赴かせた伝わっている。これは九州の尾形氏、原田氏に故あって引き合わせるのが理由であったという。

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そして数年後帝は身元を明かすことなく崩御された。

平家一門からは平国盛、小松三位直盛が一寺を建立し安徳帝を神霊として祭祀した。(この時、麻植氏は平家として木屋平と祖谷に分かれたと思われる。)この両御所の子孫が麻山に上り、表は麻植氏の一族と唱え、帝の皇子は猪内氏と改めて北山奥に住したという。


是皆 “麻植氏一族” なり。

 

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この麻植一族は後に小屋平と改め平国盛御子は阿佐氏、直盛の御子は松永氏と改め、麻植氏一族は何障りもなく目出度く栄たのである。

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安徳帝の “皇子の御剣” は、麻植内山の奥石立山神社に奉納され後には御剣ノ宮と称され奉祭し、其の式は内裏古例を用いて退転ナシとされている。

 

最後にawa-otokoの独り言。

安徳帝に関わる平家一門が木屋平や祖谷で安息の日々を送れたのも忌部大宮司家 麻植氏の計らいがあってのこと。

忌部氏とは何をもってして忌部氏と認識するのか。古より阿波忌部直系氏人の御殿人(みあらかんど)は、なにも三木家に固定化されていた訳ではなかったであろう。

表だけをみて判断してはいけない。表があれば裏もある。三木より古い真の忌部直系の裔は木屋平に存在するのである。

・:*+.:+ 2019年 あけおめことよろ・:*+.:+

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・:*+.:+新年明けましておめでとうございます。・:*+..:+

・:*+.:+今年も大粟山 上一宮大粟神社に初詣。大宜都比売命の大神と天辺の頂きに坐す大神の御力を授かって参りました。(祝詞から)・:*+.:(ん!?、、、大宜都比売命と天辺ヶ丸に坐す大神は別の神なの???新年早々収穫★ ((φ(・д・。)ホォホォ)

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・:*+.:+ 次に関わりの深い天石門別八倉比賣神社へ参拝。・:*+.:+ 

そして一旦退却。仮眠を取ってから平成最後の初日の出を気延山より拝んできました。

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・:*+.:+ 改めて天石門別八倉比賣神社に参拝。・:*+.:+

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f:id:awa-otoko:20190101084150j:image(拝殿下)f:id:awa-otoko:20190101082215j:image(奥之院)
f:id:awa-otoko:20190101082228j:image(奥之院 真東の太陽が眩しいぜ★)
f:id:awa-otoko:20190101082219j:image(摂社 猿田彦祠)
f:id:awa-otoko:20190101082222j:image(摂社 クガノミタマ祠)
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f:id:awa-otoko:20190101101306j:image(大泉神社)
f:id:awa-otoko:20190101101309j:image(五角形の井戸)

去年はだらだら投稿であったにもかかわらず400000アクセスを突破!!誠にありがとうございました。

今年もawa-otokoの観点から阿波の面白い場所をご紹介できればと考えております。

今年もどうぞお願い致します。(*´∀`)♪ ・:*+.:+・:*+.:+

山城町岩戸の田尾城趾へ行ってきたぞ!!

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・:*+..:+ ハッピーメリークリスマス!!・:*+..:+

はい。全然クリスマスには関係がない山城町 田尾城趾でございます。

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田尾城は伊予川の右岸、標高四六二メートルの山頂に築かれた山城で南北朝時代に小笠原頼清が居城したと伝わります。

南北朝時代より後は、戦国時代には白地城城主であった大西一族の大西右京進頼信が拠っていたとされております。天正五年、長曾我部元親は大西上野介に手引きをさせて白地の大西覚養を攻め、この時に田尾城も落城したそうです。その後の経緯は不詳でありますが、遺構からみて長曾我部元親が改修して使用したもの考えられています。

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この時の名残りであるかはわかりませんが、田尾城の入り口の前には長曾我部元親・最前線指揮所が残されています… こんな城の入り口に指揮所を構えることが可能な戦況であったならば既に城は落ちていて、しかも用心深い長曾我部元親がこの場所まで出てきて指揮をとっていたことは考え難く… これはawa-otokoの予想ですが元親軍に城から引きづり降ろされた大西右京進頼信らを捕縛、または打った場所ではないかと。(現在は地神塔を置いていますが、本来台座の上には祠が乗っていたと推測します。)

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田尾城趾は阿波山岳武士の拠点とされていた重要な城跡で現在でもその遺構を確認することができます。前回投稿した一宮城趾よりも白兵戦を想定した城の構造、要するに遺構が確認しやすく、城好きの方には大変おすすめしたい古跡なのです。

f:id:awa-otoko:20181224011620j:image(入り口ですぞ。)

それではさっそく進めてまいりましょう。

田尾城は南北二城で構成されており、南城がやや高く周囲に土塁を巡らして南側に虎口(城門跡)があります。頂上に誘導する山道は傾斜がきついところですが、さまざまな遺構の復元品とその説明板で登る者の疲れを認識させません。(やるな!!)

f:id:awa-otoko:20181224005218j:image(もがり)
f:id:awa-otoko:20181224005228j:image(切り堀)
f:id:awa-otoko:20181224005209j:image(逆茂木)f:id:awa-otoko:20181224005223j:image(狭間)
f:id:awa-otoko:20181224005214j:image(柵w)

やはり入り口の指揮所跡のように一部時代背景にそぐわない復元物がありますがスルーしますね。

10分もあるけば山頂です。

f:id:awa-otoko:20181224010210j:image(南城跡地)

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南城の北側には三条の空堀がありますが、これが長曾我部元親の築城の手法だそうです。この遺構によって長曾我部元親が使用していたと考えられているということですね。

f:id:awa-otoko:20181224010330j:image(山頂の天神社)
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空堀の前には天神社が鎮座されております。(小さいながらも存在感ある祠。)天神ですけど、だいたい城趾にある祠は歴代城主を祭祀した祠ですよね。ここの場合は小笠原源氏関係を祭祀しているのでしょう。

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だいたい入り口から山頂までの写真で雰囲気を掴めましたか?

山頂の南城跡地に行くまではまるで自分が南城を攻めているかのような錯覚にとらわれます。傾斜がきつく狭い道であるため横一列で進むことはまず考えられません。縦に進むことを余儀無くされるため縦一列の蟻の進軍を止めるかのような戦術で防戦するように想定された城造りがわかります。(私なら素直に真正面から侵撃せず、単独で側面から登って白兵戦へ持ち込みます。)

 

今回なぜawa-otokoは田尾城跡地に赴いたのか…

白地城跡地を確認、大西神社も参拝していたので田尾城もみておかないと!というノリ。(悪ノリともいうw)

そして、その他には四国の要害の地である白地城の裏鬼門にあたる、あの犬神落しで有名な賢見神社。さらにその賢見神社の裏鬼門にあたる田尾城の位置に大きな興味が湧いたのが本当の理由なのです。

awa-otoko.hatenablog.com

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それは後々の考察に必要になる(ならんでしょ…)可能性を秘めた場所であったからですね。ご察しの通り収穫はありませんでしたが。。。。

ちなみに三好郡山城町の地名はこの田尾城が存在した故に作られた地名。大歩危小歩危・祖谷に寄られた日本史好きで古城好きなあなた、ぜひ田尾城趾へ足を運んでみては?山深い場所でアクセスも大変ですが一気に南北朝、戦国時代にタイムスリップできる場所ですぞ。おすすめです!!