awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

為朝の夢告げ

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どうも。awa-otokoは阿波に来た(?)と伝承される源為朝を追い、過去には以下の為朝関連の記事を投稿しております。

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いろいろ調べておりますとこの白人明神は昔からやたらと神降りや夢告げが多いのですよ。

美馬郡穴吹町口山の白人神社は源為朝を祀り、旧麻植郡木屋平村に入る県道の東側にあり阿波藩家老稲田氏の尊信するところであった。

昭和三十年十一月、「宝を埋めてあるから掘れ。」という源為朝の夢告があり、二人の男が妻子まで捨てて神明神社の前を掘り始めた。新聞記事にも掲載されて見物人が沢山押しかけ旅館も満員という話題を振りまいた。

男達が掘った穴の深さは十四メートル、横へ六メートル、さらに二メートル、横穴を四メートルまで掘ったところで美馬東警察署が危険と判断して中止を警告した。名西郡の祈祷師婆さんも反対側から宝を目当てに掘っていたが地下二メートルを掘って諦めたという。

はじめに言うてたら良かったんですが口山の白人神社でっせ。近くに五社三門(神明宮)がある宮内の白人神社ではありませんのでそこんとこヨロシク。

あ、今回大した話ではなかったですが、今日はこれくらいにしておきます。それではまた調べておきますね。(・∀・) バイバイ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なんてな。うそやで。以下続きです。(=゚ω゚)ノ

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穴吹口山に座す御崎大明神は当山惣氏神なり、この傍に白人明神の社あり、往昔は瓦葺の拝殿ありしかど、細川氏没後は朽ちはてて瓦のみ社内に積み置きけるを、慶長の初、稲田主理亮が脇城に衛り居て屋宇の破壊を修補するに瓦足らず、近郷を尋ねさせしに当社にて見当りたるを取用ゐて所々を葺く、雨時馬捕与吉郎と云者に神移らせ給ひ、我は鎮西八郎為朝なり、修理亮我社をも修覆すべきにさはなくて却て瓦を押領し、不浄の所へ用る条無礼至極と塡らせ給ふ、修理亮恐入り深く懺悔し自ら社頭に行至らず、只下郎どもに任せつるは不覚申しばかりなしと詑奉り、右の罪つぐなはんがために本社拝殿等千木高く建立せり、其の時又かの与吉郎に神託ありて宣はく汝非儀を改め、早く宮居を再興し且朝暮尊敬すること満足せり、今より後汝が弓矢を守護すべし、されば十三年を経て天下又乱るべし、其の節汝天が下に名を顕はすほどのことを与へむと宣ひて神上り給ふ、此の年慶長七壬寅のとしなり、其の後修理亮厚く神威に帰依せしに果して慶長十九甲寅年大坂陣の時霊夢の御告ありて白兎に化し給ひて責口を教導し穢多ヶ崎にて高名す、十一月十九日の夜より二十日朝に至れりとそ、又当地にては其の頃当社御屋根葺替成就し、即十一月廿日吉辰にて遷宮ありしも不思議なり。(此の故に当氏子今に兎をは食はすとあり)

白人神社はその他にも神降り人が神宝の鎧と武具を装着して気を失った状態で忌部 種穂山で捕縛されたという記録も残っています。神懸かり的なものが降りやすい神域なのかもしれませんね。

さて、そろそろほんとに疲れてきたので最後のまとめに入ります。

文化九年(1812)の通夜堂再建勧進帳によれば、崇徳天皇を中に、源為朝とその父為義を配祀していた記録が残る。白人明神由来(続微古雑抄)や明治時代の白人神社由緒宝物調査書には以下の伝承が記されている。保元の乱に敗れ伊豆大島に流された源為朝は、同じく讃岐国に流された崇徳上皇を追慕して密かに讃岐国に渡り、導かれて白人明神を祀る当地に至った。仁賢天皇の時代に土地の長人たちが白髪の翁の告げで社殿を建てたのが始まりとの由来を聞いた為朝は、南西丘上の旧地から現在地への遷座を勧めた。村人たちはこれを聞き入れて移し、この時に崇徳上皇も併祀するようになったということである。先の引用にもある徳島藩家老稲田氏は当社に祈願し大坂の陣で戦功を挙げ、江戸時代には同氏が守護神として尊祟、斎田、神馬などを寄せ、社殿の修築も行い現在に至っている。

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ということで、白人明神のほんとうの元地は五社三門(神明宮)に近い宮内の白人神社。こちらを口山の中白人神社として分祀し、崇徳院も祭祀させたのが源為朝ということになりますね。(理解できたかな?)

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白人神社として一括りにされてしまっていますが、古より祭祀されていた宮内 白人神社はおそらく神代の時代に天孫降臨してきたニニギノミコ…(おっと、最後まで言いますまい。)を祀ったもの。(そして白髪の翁は猿田さんだね。)そして源為朝により崇徳院を祭祀した中白人神社。それぞれが混ざってしまっているのですね。

要は宮内の白人神社には、源為朝崇徳院は祭祀されていない。源為朝崇徳院を祭祀するのは口山の中白人御崎神社”ということなんです。

口山のある中白人神社は友内山の麓、端山に入る玄関にあたる場所。あとは源為朝を導いた麻植氏の謎を追うことです。(なかなか出てきませんが… )

それではなんやかんやで長くなってしまいました。ほんとにこのへんで終わりにしようと思います。ではまた。

(・∀・)バイバイ

山崎忌部神社はどこから分祀されたのか⁈

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忌部神社は神代に於いて石立山(剣山)に鎮祭して奥宮とし、更に衆庶の参拝の便を思って友内山に中宮を建立せるも、住民が次第に里分に移動するに及び次々と里宮を建立するに至った。従って端山の五所平は大宮司家の麻植氏が之を守護し、山崎なる天日鷲命神社は麻生氏、高越神社は早雲氏が夫々奉仕していたものである。

ちょっと前にFacebook投稿にて投稿した一説ですが実は続きがあったのです。せっかくですからブログの方ではきちんと掲載しておきますね。

忌部大神宮は三里四方の霊地を境内として造られた神社であり、麻植氏(忌部宿禰)が代々大祭主を勤め、オオヒルメ・オシホミミミコト・ニニギミコト・ヒコホホデミノミコトウガヤフキアエズノミコトの五柱の神々を祀っていたものである。

そもそも蜂須賀家が忌部氏系譜である早雲氏の建白により開始された地神塔による地鎮祭も忌部大神宮を隠匿した後ろめたさがあったからかもしれないですね。古より忌部大神宮で祭祀されていた本来の神を隠し、農業神五柱に置き換えて祭祀の浸透を図ったのではないでしょうか。

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麻植郡天日鷲命神社(山崎忌部神社)は三里四方の霊地内にあった両森大神宮から天日鷲命の分霊を勧請して創建された。

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両森大神宮は天日鷲神と津咋見神の二柱祭祀。場所は… (上の写真文を読めば解ります‼︎)まさに三里四方の霊地のど真ん中ではありませんか。

実のところ山崎忌部神社は三里四方の霊地から分祀された分社なのであります。

ということは雀獄遺跡 浮島八幡神社の元社も…(awa-otokoは山崎忌部神社と浮島八幡神社元社は天日鷲神と津咋見神:両森大神宮の二柱が別々に祭祀されたという見解も別の説と併せて考えています。)

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ふむふむ。だんだん剣山からの忌部ルートが見えてきましたね。全然勉強してない人ほど大嘗祭大嘗祭言うている状態ですが、まず今回の内容を踏まえて調査を進めないと忌部氏の本質は見極められませんよね。(特に最近ネット検索だけの知ったかがSNSに投稿するので手に負えないですわ。苦笑)

その他にもまだまだ調査の結果を書きたいことは山積みではありますが、入力にそろそろ飽きてきたのでまた今度します。ではでは。

あ、言うときますけど今回のネタはエイプリルフールネタじゃねぇっすよ。(・∀・)

大宜都比売命からの御食

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その昔、鳴門の大毛島の海岸一帯には「あしか」が生息していたという。今から三百年以上も前に阿波三代藩主である蜂須賀忠英寛永六年頃に、「あしか」と馬が交尾してこどもが生まれると水陸両用の名馬ができるという迷信から、鳴門 土佐泊浦大毛一円に限定して馬百頭を放し飼いにした。
以来明治四年頃迄馬を放し飼いを続けていたが、「あしか」と馬の恋愛関係は一度も成立せず失敗し、明治四年の廃藩置県と共に水陸両用の名馬を生産する計画は終わりを告げた。
その間にも馬一頭につき大豆何キロかの割合で藩主よりお下げ渡しがあったが上役から下役までの手を経るうちに少しずつ少なくなり、馬の口に入る大豆は僅かとなっていった。
空腹に耐えかねた馬達は食糧を求めて山野に入り込み、草や木の芽を喰い飢えを凌いでいたが、冬場には遠くに足を延ばすことにより柵を破って南の集落の野浦地区まで出没して畑作を食い荒らしはじめた。
困り果てた農民は訴願を重ね、藩もようやくその被害を認めることとなり野浦地区全体に石垣をめぐらして馬の行動範囲を狭めたが長年の月日を経て次々と壊れはじめ、畑を売り出す農民も現れたという。
今も野浦地区には「馬垣」の名残りが山裾の所々に残っている。海の「あしか」は今では近海でみることは出来ないが、明治三十五年ごろ迄は秋から冬にかけて鳴門の海に群居していたという。

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この「あしか」が生息していた大毛島。大毛島の名前の由来は「大毛は大宜都比売命の名のおこれる所なるべし。」と伝承される大宜都比売命の泊であった場所なのです。

さぁ本題に移る前に思い出してみて下さい。板野町鎮座 気比神社の投稿の中での一節を引用しますと…

その「つぬが(板野町鶴ヶ須)に坐す「伊奢沙和気大神之命」は建内宿禰の夢枕に立ち、「わたしの名前をその御子の名前と変えたい。」とおっしゃった。
それを聞いた建内宿禰も「畏れ多いことです。仰せの通りに名前を交換しましょう。」と承諾した。
すると神は「明朝に浜に出よ。名を交換した「しるし」を与える」と伝えた。
そこで翌日、御子が浜に行くと、鼻の傷ついた海豚(あしか?、アザラシ?、イルカ?)が現れた。
それを見た御子が「我に御食(みけ)を下さった」と言い、そのことから神を「御食津大神(みけつおおかみ)と名付けた。

大宜都比売命の名の起これる大毛島より、「御食(みけ)」を賜わることになった。

すなわち大宜都比売命の遣わした御食:「あしか」が現れたということですかね。(これは神代の時代から応神天皇までは海獣を御食としていたということですよね?間違えてないよね?笑)

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大毛海岸のすぐ目と鼻の先 淡路国は御食国とされ、旬料・節料として「雑魚」を贄として納めることが延喜式に記載されています。(雑魚って?何を指しているの?)

御食国 - Wikipedia

はい。当時の水位を再現したフルードマップを確認下さい。

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なんということでしょう。

「あしか」が生息していた大毛島・ウチノウミから現在の吉野川流域に北は板野町、南は石井町まで海水が入り込んでいるではありませんか。

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以上の地理条件から大毛島に生息していた「あしか」が現在の板野町気比神社付近まで入り込むことは多くあったはず⁈ なのですが… 

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今回は大宜都比売命の御名から出た鳴門 大毛島の伝承と異彩を放つ気比神社の伝承を融合させてみましたが、、、ちょっと強引な展開だったかな。でも昔から大毛島に「あしか」が生息していたのは本当のようですよ。(ノ≧ڡ≦)てへぺろ

連れて来られた事代主神、そして謎の鳥たち。

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武布津神が出雲を平定して天照大神に奉告するため事代主神を道づれにして阿波へ来た。一行は讃岐の志度に上陸して日開谷を過ぎて伊笠山麓付近に来た。その時忌部族は、高天原族等の不意の浸入を咎めてこぜりあいがあったが、やがて忌部族長 天日鷲命は武布津神のために休憩所を今の香美に建て、事代主神を自分の妹 阿波(あわめ)の館に迎えた。

f:id:awa-otoko:20180312114511j:image(上喜来 蛭子にあるえべっさんの像)

以前にさらっと流して紹介したのですが、今になってちょっとawa-otokoの中で再燃しているのが上の引用でありまして、、、。場所は市場町周辺。そしてそれに関わる⁈ 新しい情報も入手しましたのでご紹介したいと思います。

冒頭の引用より武布都神が天日鷲神に御目通りが叶うまで留まった場所とされる伊笠山。その後に休憩所が設けられたという香美(かみ:神?)にも武布都神が祭祀されています。

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f:id:awa-otoko:20180311213129j:image(伊笠神社)

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f:id:awa-otoko:20180311214110j:image(香美 武布都神社)

また、武布都神に連れてこられた事代主神は伊笠山南麓の地である上喜来蛭子の事代主神社。そして伊月(伊着き: 伊笠山から着いたの意味?:本来は斎(いつき))にも事代主神社がございます。

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f:id:awa-otoko:20180311214322j:image(蛭子 事代主神社)

f:id:awa-otoko:20180312061236j:image(いつも怪しいと感じる皇后社)

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f:id:awa-otoko:20180311213859j:image(伊月 事代主神社)

そうなんです。きちんと伝承に応じた場所にそれぞれ武布都神と事代主神が今も祭祀されているのですよ。ちなみに忌部族頭領 天日鷲命は浮島八幡宮、妹の阿波咩(天津羽羽神)は八条神社で祭祀されていたのは皆様ご存知の通りです。f:id:awa-otoko:20180311215041j:image

ちょっと話は逸れますが↑↑↑ こちらの古文書↑↑↑ では、秘羽目という御名の中に積羽八重事代主の「羽」が入っているから秘羽目神は事代主神と同神など結構乱暴な考察で書かれております。(これは無視するとして。笑w)文末には伊月の事代主神、粟嶋の天津羽羽神を挙げて阿波嶋村これ阿波国の名所なれば必ず二神は伊月村、粟嶋村の二村ならん。と締めております。こちらの内容からも冒頭の伝承内容や神々の関係性が現在と同じ内容で考えられていたということがおわかりいただけるのではないでしょうか。(ちなawa-otokoは秘羽目神は天日鷲だと思ってますが… )

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さて、かなりマニアックな伝承と奇妙な一致が確認できる今回の内容なのですが、いろいろ考えてみますと事代主神はどこの出雲から連れて来られたのでしょうか。またこの伝承にある事代主神や、その他の関わりある神々達は(他の阿波国伝承の神話などから考えて)いったい何者であったのかということを後々説明していきたいと思います。今回詳しく書こうと思いましたが、まだまだ調査不足の部分もありーの、久しぶりの投稿で力尽きーの、な感じなのでまたの機会にしたいと思います。(引っ張りーの。笑ww)

 

ちょっと内容的に物足りないので最後に…

少し目新しい情報をリークしましょうかね。

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浮島八幡神社 祭神:天夷鳥命またの御名 天稚彦天若日子: あめのわかひこ)。鴨大御神(あじすきたかひこね)と同神ではないかと云われている神ですね。

カモで考えれば何故か阿波町にカモがあるんですよ。

f:id:awa-otoko:20180312123628j:image阿波町新開鎮座 賀茂神社

f:id:awa-otoko:20180312123648j:image阿波町伊勢鎮座 古賀茂神社

んーーー、阿波町市場町で、カモ繋がりあるかも⁈ あと、浮島八幡宮は川島町二つ森の上にある雀獄遺跡からの移遷ですからこちらも鳥に関連して調査していけば色々出てくるかもしれませんね。しかしほんとに鳥ばっかりですわー。

謎・謎・謎ですね。( ・∇・) ニヤリ

タタリ谷の常厳寺跡 堅雄上人の痕跡

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加茂名村島田に本願寺あり。寺蔵する所の聖徳太子傳暦巻物は乾元二年二条天皇の御世の作製にして今を去る六百餘年前の逸品なり。元庄村法谷寺(峰の薬師)に存置しありしが、其後儈 賢雄(堅雄)の手によりて本寺の所蔵に歸し、今や國寳に編入せらるるに至れり。

f:id:awa-otoko:20180225095256j:image(島田にある本願寺

創立が江戸時代初期(伝)の本願寺において、なぜ乾元年間に作製されたという「紙本墨書聖徳太子伝暦2巻」が重文として伝わるのか… 明治期に書かれた記録にもあるように僧侶 堅雄による何らかの手引きがあったとされているのです。

f:id:awa-otoko:20180225100701j:image(堅雄上人の墓)

堅雄上人は救世山峯薬師: 法谷寺関連記事にも記したように峯薬師奥之院 タタリ谷常厳寺「聖徳太子の廟」を掘り起こし、神紋が彫り込まれた天井石を三宝荒神の碑にしてしまったり、寺宝である救世観音像、百済観音像を売却してしまったという良からぬ内容が伝わっています。

ただ今となっては真偽を確かめ術はなく…

awa-otoko.hatenablog.com

売却された寺宝のひとつが冒頭に記した本願寺に伝わる「聖徳太子傳暦巻物」であります。ただ、売却すればすぐに関係者が知ることになるような目と鼻の先の距離にある本願寺に移動させたことがawa-otokoはすごく引っかかりました。(本当に堅雄上人は私利私欲のために寺宝を売却したのか?)

机上の空論で考えていても結論はでませんので、いろいろ細かいところを現地で確認するべくタタリ谷常厳寺跡に行ってみたのでした。

 

f:id:awa-otoko:20180225182836j:imageすでに入り口から入りたくない雰囲気ですわ… (*_*)

f:id:awa-otoko:20180225105646j:image (°_°)

f:id:awa-otoko:20180225105700j:image参道は行けども行けども墓ばかり…

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寺跡までの参道はとても暗い雰囲気。陽が傾いたら入りたくない場所ですなー。(^◇^;)

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さて、跡地に到着して目に入ったのが上にも掲載している堅雄上人のお墓。

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堅雄上人の新しいお墓は粟飯原氏が建立しているみたいですね… 堅雄上人と粟飯原氏との関係性がとても気になります。

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次に堅雄上人墓前の石碑。通夜堂建立者 火(人?)宋 (宊?)…堅雄…とあり、どうやらこちらも堅雄上人の墓っぽいです。

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さらに堅雄上人の石碑から階段を登れば大きな石が目に入ってきます。これが聖徳太子廟の天井石であったとされる石です。石の表面にはたしかに神紋?らしき線や記号みたいなもが彫られています。その上から三宝荒神勧請之地と彫られているのも確認できますね。

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次に天井石を横から塀沿いに進みますとこちらも古墳に使用されていたと思われる三枚の板石で作られた門?が確認できます。これはこれで立派。くぐるときに落ちてこないかとても心配になりましたが、とてもイイバランスで設置されているようです。

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頭上を気にしながら門をくぐれば救世観音像、百済観音像の二体を永代供養したとされる石塔(随求塔)が立ちはだかります。下にあった堅雄の墓に刻まれていた内容では「随求塔 皆成就」とあり、この石塔を建立しての供養が成功したことが記されていました。書かれている内容ではどうも堅雄上人だけが推し進めていたような感じではなく、皆から求められて進めたような雰囲気が伝わってきました。(気のせいかも… )

f:id:awa-otoko:20180225102951j:image(随求大菩薩とありますね。(塔)デカいです。)

f:id:awa-otoko:20180225112059j:image(ここも粟飯原氏が… )f:id:awa-otoko:20180225103248j:image

そして石塔の背後には… 

f:id:awa-otoko:20180225103326j:image 胎蔵界

f:id:awa-otoko:20180225103343j:image 金剛界

二つの石曼荼羅が残されています。まるで二体の観音像の代わりのようにね…

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ということで、調べるところは調べて足早にその場を去りました。すごく雰囲気が… なので。ヾ(;´Д`●)ノぁゎゎ

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駆け足で下ります。途中で撮影ー。_| ̄|○ ハァハァf:id:awa-otoko:20180225112419j:image

入り口に下りてきても独特の雰囲気のままで、あぁ…って感じです。(*_*) =3=3=3

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入る前は気がつきませんでしたが、入り口にまるで随神のように粟飯原氏のお墓がありました。

口伝では聖徳太子の廟跡であったということですが、雰囲気からして聖人が祀られていた跡地という感じでなかったのがawa-otokoの受けた印象。後から作られたのでしょうが一般の墓が多過ぎます。聖徳太子ほどの人物が眠るのであれば、もう少し配慮されていてもいいのではないかというのが正直な感想です。

という訳で、現地では堅雄上人の功績が石碑として残されており、また、現地にお墓まで建立されています。この状況から当時堅雄上人は私利私欲を尽くした悪(ワル)だったのかを考えるとそうではないような気がしてます。(あくまでも個人的解釈から気がする。だぜ☆)

また途中でも写真を入れましたが、粟飯原氏がとても誠意を尽くして祭祀されていた形跡もあって、まだまだ調査が必要だと感じました。

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果たして寺宝はどう扱われたのか?真相は謎のままです。もう少し別の資料が出てくるまで待つものとしたいと思います。あー、疲れた。ではまた。ε-(´∀`; )