タタリ谷の常厳寺跡 堅雄上人の痕跡
加茂名村島田に本願寺あり。寺蔵する所の聖徳太子傳暦巻物は乾元二年二条天皇の御世の作製にして今を去る六百餘年前の逸品なり。元庄村法谷寺(峰の薬師)に存置しありしが、其後儈 賢雄(堅雄)の手によりて本寺の所蔵に歸し、今や國寳に編入せらるるに至れり。
(島田にある本願寺)
創立が江戸時代初期(伝)の本願寺において、なぜ乾元年間に作製されたという「紙本墨書聖徳太子伝暦2巻」が重文として伝わるのか… 明治期に書かれた記録にもあるように僧侶 堅雄による何らかの手引きがあったとされているのです。
(堅雄上人の墓)
堅雄上人は救世山峯薬師: 法谷寺関連記事にも記したように峯薬師奥之院 タタリ谷常厳寺「聖徳太子の廟」を掘り起こし、神紋が彫り込まれた天井石を三宝荒神の碑にしてしまったり、寺宝である救世観音像、百済観音像を売却してしまったという良からぬ内容が伝わっています。
ただ今となっては真偽を確かめ術はなく…
売却された寺宝のひとつが冒頭に記した本願寺に伝わる「聖徳太子傳暦巻物」であります。ただ、売却すればすぐに関係者が知ることになるような目と鼻の先の距離にある本願寺に移動させたことがawa-otokoはすごく引っかかりました。(本当に堅雄上人は私利私欲のために寺宝を売却したのか?)
机上の空論で考えていても結論はでませんので、いろいろ細かいところを現地で確認するべくタタリ谷常厳寺跡に行ってみたのでした。
すでに入り口から入りたくない雰囲気ですわ… (*_*)
(°_°)
参道は行けども行けども墓ばかり…
寺跡までの参道はとても暗い雰囲気。陽が傾いたら入りたくない場所ですなー。(^◇^;)
さて、跡地に到着して目に入ったのが上にも掲載している堅雄上人のお墓。
堅雄上人の新しいお墓は粟飯原氏が建立しているみたいですね… 堅雄上人と粟飯原氏との関係性がとても気になります。
次に堅雄上人墓前の石碑。通夜堂建立者 火(人?)宋 (宊?)…堅雄…とあり、どうやらこちらも堅雄上人の墓っぽいです。
さらに堅雄上人の石碑から階段を登れば大きな石が目に入ってきます。これが聖徳太子廟の天井石であったとされる石です。石の表面にはたしかに神紋?らしき線や記号みたいなもが彫られています。その上から三宝荒神勧請之地と彫られているのも確認できますね。
次に天井石を横から塀沿いに進みますとこちらも古墳に使用されていたと思われる三枚の板石で作られた門?が確認できます。これはこれで立派。くぐるときに落ちてこないかとても心配になりましたが、とてもイイバランスで設置されているようです。
頭上を気にしながら門をくぐれば救世観音像、百済観音像の二体を永代供養したとされる石塔(随求塔)が立ちはだかります。下にあった堅雄の墓に刻まれていた内容では「随求塔 皆成就」とあり、この石塔を建立しての供養が成功したことが記されていました。書かれている内容ではどうも堅雄上人だけが推し進めていたような感じではなく、皆から求められて進めたような雰囲気が伝わってきました。(気のせいかも… )
(随求大菩薩とありますね。(塔)デカいです。)
(ここも粟飯原氏が… )
そして石塔の背後には…
二つの石曼荼羅が残されています。まるで二体の観音像の代わりのようにね…
ということで、調べるところは調べて足早にその場を去りました。すごく雰囲気が… なので。ヾ(;´Д`●)ノぁゎゎ
駆け足で下ります。途中で撮影ー。_| ̄|○ ハァハァ
入り口に下りてきても独特の雰囲気のままで、あぁ…って感じです。(*_*) =3=3=3
入る前は気がつきませんでしたが、入り口にまるで随神のように粟飯原氏のお墓がありました。
口伝では聖徳太子の廟跡であったということですが、雰囲気からして聖人が祀られていた跡地という感じでなかったのがawa-otokoの受けた印象。後から作られたのでしょうが一般の墓が多過ぎます。聖徳太子ほどの人物が眠るのであれば、もう少し配慮されていてもいいのではないかというのが正直な感想です。
という訳で、現地では堅雄上人の功績が石碑として残されており、また、現地にお墓まで建立されています。この状況から当時堅雄上人は私利私欲を尽くした悪(ワル)だったのかを考えるとそうではないような気がしてます。(あくまでも個人的解釈から気がする。だぜ☆)
また途中でも写真を入れましたが、粟飯原氏がとても誠意を尽くして祭祀されていた形跡もあって、まだまだ調査が必要だと感じました。
果たして寺宝はどう扱われたのか?真相は謎のままです。もう少し別の資料が出てくるまで待つものとしたいと思います。あー、疲れた。ではまた。ε-(´∀`; )
陽中の陰、陰中の陽(高越大権現の謎)
どうも。そろそろ何かを投稿しないとね… なんて感じで書いています。(苦笑)
今回はちょっと気になった高越大権現に関する古文書の内容から。中身は宗教絡みの小難しいことを書いているのですが、読んでいるうちにいろいろ引っかかる部分がでてきまして…
(↑ソースはこの古文書な。)
とりあえず普通に読める文ですが現代文に訳してみました。
平城天皇の御宇、大同三年迄は天日鷲命の神社の存在明らかであった。今は明治六年癸酉1618年。これまでは仏法が盛んで弘法大師の如き三世の菩薩が降臨するという伝説があったことで佛の教えに引き込まれること仕方ないことだったのだろう。
(高越大権現)
高越山に祀る二座のうち一座を天日鷲命、もう一座は金剛蔵王権現とされている。(またの名を金剛童子)金剛蔵王権現は金剛界の大日如来の秘密の印にて天にして陽とされ、即ち天は天御中主命の化身にて高皇産霊命。即ち所謂神魯岐命(カムロギ)の御事ことなのである。陰には神魯美尊(カムロミ)の御事である。
陽は天照日大神。陰は月夜見尊(又の御名 健速須佐之男尊)であるが日大神は女躰、月の大神は男躰であることから考えれば日大神は陽中の陰であり、月大神は陰中の陽とされるのである。
(高越大権現)
蔵王権現は大和国葛城山の山上権現と同じとされているが本当は同じではない。葛城山の山上権現とは人王二十八代帝 安閑天皇でなのである。高越の山上に住む僧が言うには金剛蔵王権現と山上権現は同じ神と云うがこれは大きな間違いである。安閑天皇の霊を佛の道に引き込んだのと同じように天日鷲命も佛道の別当社僧に引き込まれたのではなかろうか。よって天日鷲命の御座が存在した地は山崎であって高越山ではないのである。
はい。一見とりとめのないしっくりこない内容なんですがawa-otokoは引っかかる部分がありまして…
まずはカムロギ•カムロミ。こちら金剛蔵王権現とは陽のイザナギ。その陰をイザナミと指しております。
神漏岐命・神漏美命(カムロギ•カムロミ)
伊耶那岐神(伊邪那岐神)・伊耶那美神(伊邪那美神)のこと。神漏は神の世界から降臨(漏)したと言う意味合い。「岐命」「美命」部分が伊耶那岐・伊耶那美を示す。
そして次に陰陽図の意味からアマテラス:陽とツクヨミ(スサノオ):陰を祭祀することによって安定を保っていたことを説明したかったのだと推測します。
(白の中の黒丸が陽中の陰、黒の中の白丸が陰中の陽)
陰陽(特徴)
陰陽互根:
陰があれば陽があり、陽があれば陰があるように、互いが存在することで己が成り立つ考え方。
陰陽制約:
提携律とも言い、陰陽が互いにバランスをとるよう作用する。陰虚すれば陽虚し、陽虚すれば陰虚する。陰実すれば陽実し、陽実すれば陰実する。
陰陽消長:
拮抗律とも言い、リズム変化である。陰陽の量的な変化である。陰虚すれば陽実し、陽虚すれば陰実する。陰実すれば陽虚し、陽実すれば陰虚する。
陰陽転化:
循環律とも言い、陰陽の質的な変化である。陰極まれば、無極を経て陽に転化し、陽極まれば、無極を経て陰に転化する。
陰陽可分:
交錯律とも言い、陰陽それぞれの中に様々な段階の陰陽がある。陰中の陽、陰中の陰、陽中の陰、陽中の陽。
要するに高越山には元来陽である男神 天日鷲命の他にも対である陰の女神も祭祀されていたのではないかということなのです。
上は以前FBで投稿した古文書ですが、役小角がイザナミ神社の側に蔵王権現を勧請したという記録もあります。(イザナミ神社は阿波国にしか存在しませんよ。)
また高越寺は役小角によって開基されましたが、高越の金剛蔵王権現は天日鷲命であって、他国の蔵王権現は安閑天皇であると…
これらを統合すれば、イザナギ = ツクヨミ(スサノオ)= 天日鷲命 ということになります。
さらに陰陽図から天日鷲命を陽とすれば、対の陰が必要。その陰こそがイザナミであり、詳細を書けばイザナミ= アマテラス= 大宜都比売命。(awa-otoko説ではな。)
陽中の陰、陰中の陽の一つの解釈として天日鷲命と大宜都比売命が同腹兄妹であることも含められていると考えます。(イザナギ•イザナミの関係、アマテラスとツクヨミの関係も陰陽に当てはまります。)
いろいろ考え方はあるでしょうが、awa-otokoは高越山のイザナミこそ大宜都比売命だと考えています。という訳で、このお話の結論は長くなりそうなのでまたの機会にしたいと思います。
それにしても古文書末文の「天日鷲命の御座が存在した地は山崎であって高越山ではないのである。」が一番の謎なんだよな…。(・・?)
貞光の義人 原太郎左衛門を祀る三王神社
どうも。多忙でなかなか投稿する気にもならないところでアクセス数30万超過しましてありがたいやら申し訳ないやら。ということで急遽番外編 義人シリーズを投稿致します。(手前味噌で誠に申し訳ございませんな。( ´△`) )
国道192号線つるぎ町貞光ゆうゆう館を通過し、西山の脇道から山裾に延びる坂道をぐっと登りますと三王神社がございます。この三王神社は小高い丘の斜面に鎮座し、眼下には悠々と流れる吉野川の流れを眺めることができます。。。が、何故か寂しさを感じる雰囲気を持つ場所なんですね。今回はなぜこの場所に神社が造営されたのか、誰を祭祀しているのか、ほとんど知る人はいないと思いますので awa-otokoが歴史の中に埋もれた断片を掘り起こしてみたいと思います。
古い時代、吉野川の流れは現在とは大きく違っていて、美馬郡貞光村の字西崎から流れは二つに分かれ、一つは山沿いに南を松尾神社の下から丸淵を経て江の脇へ、一は北を鴻淵を流れて江の脇で二つが合流していました。現在の貞光の北半分は水底にあったため、大雨にあうと濁流は物凄い勢いで沿岸を流れて住民は逃げ帰ってみれば土地も家も惨憺たる有り様だったことが多くあったようです。
明暦年間、代官 原太郎左衛門は住民のためこの難儀を救おうと決意し、西崎に関を設け東に堤防を築いたならば被害を食い止めることができる結論を得て藩主に願い出て許しを得ました。まずは西崎の山に登って地形を調査して、東へ底幅八間、天幅三間、高さニ間半、長さ二百八十八間の堤防を築造する工事に取り掛かったのです。
しかし何分にも阿波国始まって以来の大工事。いざ工事に着手してみると予期せぬ困難が次から次へ続出しました。まず最初の問題は、あまりの難工事のため労役に耐えられず、仕事を棄てて逃げる人夫が日増しに多くなったこと。太郎左衛門はこの対策として仕事に従事した者に一文銭を掴み取らせて一日の労費としました。しかし折角の妙案も力仕事ができぬ女や子供がたくさん金を握り、頼りになる男達はそれ程掴めないうえ、費用の点で非常な不足を生じたようです。「太主に嘆願して頂いた費用も工事の完成せぬうちに無くなってしまった。これではわしの男が立たぬ。」と太郎左衛門は苛立ちを隠せませんでした。しかしさらに工費に大きな穴を開け、その金策もつかなくなり、遂に私財の全てを投げ出して進めました…。完成を焦った太郎左衛門は近辺村々に触れを出し莫大な夫役を課してしまい、これに耐えかねた農民は困苦を藩主に訴え、藩からは友伝某が調査に赴き、結果的に太郎左衛門の努力は認められずに役所を追われる身になってしまったのです。
(三王神社)
(三王神社の拝殿内)
自らが招いた結果を悔いた太郎左衛門は、西崎山の平らな青石上に端座し、眼下に流れる吉野川の工事を見下ろしながら、九寸五分の短刀を左の脇腹に突き立て一文字に引いて自らの命を閉じました。(供をしていた二名の家来も追腹)努力を傾けた救民の事業のために敗残の身になりとても無念であったでことでしょう。
(眼下を流れる吉野川)
その後、貞光村の前を通る吉野川を上下する舟は、必ず太郎左衛門が切腹した敷石の上に神酒を供えて祈ったといいます。そうすれば太郎左衛門の霊が守護してくれると信じられていたそうです。そしていつからか敷石を上にあげて祠を建て三王さんと呼び、祭祀を行うようになりました。三王神社は貞光町が太郎左衛門起案の堤防によって洪水から救われた恩恵への感謝のため造営された義人 岡太郎左衛門を祭祀する神社なのであります。
(原太郎左衛門を祀る祠)
(二つの祠は追腹を切った従者かな?)
立派な青石の上に祠を乗せていますね。この祠の敷石がまさに岡太郎左衛門が切腹した敷石なのでございます。そしてこの場所は堤防工事を監視する上で絶好の場所であったため太郎左衛門が常に思案を巡らせた場所でもありました。(哀しいかな、結果この場所で散ってしまうのも何かの因果か… )
個人的には太郎左衛門の管理能力不足こそ大きな問題だったと考えるのですが(厳しいですが。)、結果神霊に転生され、現世に於いても語り継がれるのは立派な死に様であったからこそでしょう。
近隣の住民の方は是非とも参拝してあげましょう。そしてこれを読んだそこの中間管理職のあなたも。きっと神となった原太郎左衛門が御利益を与えくれますよ。ではでは。(・∀・)
一宇谷に白壁の家が無い理由
名勝一宇峡の奇観、土釜を見下ろして建つ記念碑があるのはご存知でしょうか。碑文の主人公は谷貞之丞。当地の困窮を救済した義人であります。今回も番外編、昔々の哀しい伝承です。
宝永の終わりごろに旱魃が続きで池や沼、井戸の水は枯れ、日毎夜毎集落の民総出で行う雨乞いも神仏に通じることなく、田や畑は裂けて作物は枯れ果てて餓死を待つばかりとなった。親は子に、子は親に食料を与えようと村中血の涙の状態であった。時の代官 貞満某は毎年の宍料として、ツガ、ヒノキの板角、ヒエ、麦などを徴収していたが、一戸当たり白米八升四合に改め、納められない者は相当の銀札を納付せよと百姓達に厳しく通達した。
正徳の初年八月のある夜、一宇川原には松明の火を掲げ、手には槍、竹槍を携えむしろ旗を押し立てて集まった村の衆。「辛抱これまで… 」悪代官に向けた殺気は川原に込めて正に一触触発の状態になっていた。これを聞いた谷貞之丞は直ちに現場へ駆け付けて一同をなだめた。「皆の衆待て。いま乱暴を起こしては理が非に落ちる。一切をこの谷貞之丞に任せてくれ。」村の衆もかねてから信頼し、尊敬している貞之丞に一任して一応引き揚げることとなった。
心中期した貞之丞は訴状をしたためて徳島城下に急行し、徳島橋のたもとで国家老 賀島主水正の登城を待ち、直訴を行なった。訴状は取り上げられたが、国法を犯した罪により町奉行 生田弁左衛門の取り調べを受け、貞之丞はつぶさに百姓の窮状を訴えた。「只今一宇の村には一粒の穀類もなく、塩を買う金もない。子供の寝小便したムシロを干し、微かな塩分を探すという実に散々たる状態にある… 」
徳島藩では評議の結果、願いは聞き届けられ、代官の命令は取消し、宍料は旧に復することになった。ただ、直訴を行なった罪により貞之丞は鮎喰川原で打首が決まり、妻子は沖洲から小舟に乗せて流されて一家は断絶した。
処刑の日、鮎喰川原の矢来の外には数百人の老若男女が集まって号泣の声が絶たなかったという。
貞之丞の首は塩漬けにされ、一宇谷の登り口に晒されたが、この時首とともに伝えられたのは「白壁の家は決して建てるな。分相応の暮らしをして永く生活を守れ。」という遺言であった。首が晒されている間、一宇谷の百姓は一身一家を犠牲にして数千の命に代えた義人のために戸を閉じて念仏を唱え、夜は高火を焚いて冥福を祈った。
集落では未だに「白壁の家を建てると三代続かぬ」という言伝えが残り、彼の遺言を固く守っている。毎年命日の十一月十四日に高火を焚いて供養しているのである。
(鳴滝)
(土釜の滝)
はい。碑の建立は自らと一族をも犠牲にして村を救済した義人への感謝の念が込められているのは間違いございません。現在は鳴滝と共に景勝地として有名な土釜ですが、もし立ち寄った際にはこのような哀しい出来事があったことを碑と看板を見て思い出して欲しいですね。
(土釜遊歩道入口の祠)
awa-otokoは土釜の迫力よりこちらのインパクトの方が強すぎて(わいは想像力豊かだからな。)、ちょっと気持ち的に参ってしまいました。そして昔から◯◯の名所ということで、いろいろな残留思念⁈ が入ってテンションだだ下がりだったのです…( 人によっては淵を覗くとほんとに飛び込みたくなるので注意‼︎)
ちなみに貞光と一宇ではこのような伝承が多く、地域柄忌部神だけではなく義人たちも神として祭祀されているものが多く残されています。また情報が揃い次第紹介しようと考えています。(。-_-。)
貞光村の罪人六人塚
今回は貞光番外編。以前に投稿した内容では西側の氣の流れが停滞して云々… いうておりましたが、貞光村の伝承から見つけてナルホド、あの陰の雰囲気の理由がわかりました。まぁさらっと流し読みできるように書いた(つもり)なので読んでみて下さいな。
天正年間吉野川は現在の二倍ほどもあり、貞光村はいまの町の北半分がこの流れの底にあった。村は西山、東山の間に挟まれた窪地にあって、貞光駅前通りの鴻淵という地名もその名残りなのである。
蜂須賀氏が阿波に入国して、いつの頃からか貞光村字◯◯の道路脇に「藤の森」という処刑場があった。奉行所で罪の決まった罪人はすべてそこで打首なったという。
藤の森を含めた山一帯は国有林で、関係者以外は何人たりと立ち入りを禁止されていたが、この掟を破って山に入って木を伐採した貞光村に住む六人の男がいた。国有林は立ち入り禁止のため大木がたくさんあり、男たちが目をつけたのは中でも一際目立つトガの巨木だった。六人は毎晩藤の森に出かけては、番人に見つからぬよう巨木にノコギリを入れていた。だがやっとの思いで切り倒し時に山奉行である小野寺七郎右衛門に知られてしまうことになる。物音しない深夜に巨木が倒れたら、いかに深い眠りに入っていても目覚めぬ者はいないであろう。飛び起きた七郎右衛門は直ちに現場に駆けつけて六人の男達を捕まえたという。
(貞光 野口城跡)
この六人の男達はこの藤の森で処刑された。村人たちは馬鹿げたことで命を捨てた六人ではあったが手厚く葬り、墓は思い出の藤の森の地に建ててやった。いまでも罪人六人塚と呼ばれて残っている。
(西浦(野口)観音堂)
また、山奉行の小野寺七郎右衛門もこの罪人達を不憫に思ってか、切り倒されたトガの巨木を領主から貰い受け、荒れ果てた野口の城跡に観音堂を建立して、六人の男達の霊を慰めたという。この巨木一本で作られた観音堂は現在も残っている。その境内は小野寺家の墓地となっている。
罪人六人塚は… その境内の草木に覆われ、今は拝む者もなく、ひっそりと佇んでいるのみということである。(終)
(罪人六人塚は見つけられなかったので謎の塚?をアップしておきます。)
貞光(野口)城跡がまさかの処刑場だったとは驚きでしょう。ちょっと暗い内容でしたが、埋もれた歴史の一端を掘り返し、その情報を持って現地に赴くのもまた一興。(今回の場所はちょっと寂しい場所だけど。)このようなマイナーな郷土ネタもちょくちょく挙げていきたいと思っています。( ´∀`)