awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

古代の呪術都市か⁈ 旧貞光町

 f:id:awa-otoko:20171204154621j:plain

お久しぶりawa-otokoです。今までに詳細を投稿した友内神社と御所神社(御所平)を除いた旧貞光町の神社をご紹介したいと思います。

貞光町内は東西に分けた祭祀対象が設けられ、また時間軸が異なる古跡が重なり合っている興味深いエリアです。今回に限って少し趣向を変えて風水・呪術(結界)的な面からawa-otokoの独自解釈でご紹介したいと思います。

 

f:id:awa-otoko:20171203221607j:plain松尾神社
祭神:大己貴命木花咲耶姫命大山咋命酒解神酒解子神
創建年代は不詳。京都松尾神社の分霊を勧請した… とされます。古くから酒造家や杜氏の守護神として崇敬されていました。目抜き通りの入り口に位置する旧貞光の顔のような神社です。

解説:東西の山際から流れてくる陰氣を陽氣で中和する役割を担っている貞光の古社。当社境内は必然的に清浄されているということです。(所謂パワスポってやつですよ。)

 

f:id:awa-otoko:20171203222035j:plain宮内神社
祭祀:国常立神、豊斟淳神、宇比地邇神須比智邇神角杙神活杙神、大斗能地神、大斗能弁神、淤母陀流神、可志古泥神、伊奘諾神、伊奘冉神
元享元年(一三二一)の創建… と伝えられています。 もと東山十二社権現と称し、明治初年に宮内神社と改称。阿波志には「東山祠貞光村東山に在り、十二社と称す、其主西山祠と同じ」と見えます。社殿は讃岐金比羅宮を模して造営されたとのこと。当社は東ノ山エリアの要所ですね。

解説:木綿麻山から流れてくる氣と木綿麻川の流れによって比較的スムーズに氣が流れてます。ただ若干古跡を破壊していることによって乱れはあります。

 

f:id:awa-otoko:20171203222911j:plain熊野神社
祭神:伊奘諾命、伊奘冉命、速玉男命、事解男命、正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊瓊瓊杵尊、彦火々出見尊、彦波瀲武鵜草葺不合尊、罔象女神軻遇突智神、埴安姫神稚産霊神
天長九年(八三二)に領主小野寺友家が紀州熊野神社の分霊を奉斎した…と伝えます。こちらも阿波志では「西山祠貞光村西山にあり、十二社と称す、天神七代地神五代を祀る也」と見え、天宮神社ほか四社を合祀して今に至ります。

解説:西ノ山については墓所とさまざまな要所が重なっていて、多感な人でなくても何かそわそわする感じを受ける場所だと思います。旧貞光の中でも陰陽の氣がばらばらのままで点在している特異なエリアですね。こちら熊野神社は東ノ山と対となる西ノ山の要所となります。(古代神を祭祀する必要がある場所に熊野神と諏訪神を祭祀していることもちょっと…汗 )

 

f:id:awa-otoko:20171203223550j:plain八坂神社(辻)
貞光の祇園さんと呼ばれる辻の八坂神社。昔は京都の八坂神社の別当成就院から、毎年美馬と三好両郡に神符を配るために出張してくる役僧の宿泊施設とされていたようです。1653(承応二)年に貞光に悪病が流行し、ここに京都の祇園さんの分霊を勧請。護摩を焚き祈祷を行ったのをその後も続けています。

 

f:id:awa-otoko:20171203223645j:plain八坂神社(大坊)
こちらがある意味で本当の八坂神社。当地付近には忌部十八坊の大本坊(大坊)という寺が存在していましたが、天正年間の兵火によって焼かれました。慶長十二年に再建され、「今滝牛頭天王」と呼ばれていたものが八坂神社に改称されています。

八坂神社の位置から少し下に存在していた忌部大本坊。本来は忌部の神裔(麻植氏)を祭祀していたのではないかというところなのですが… ぶっちゃけ、それに深く関係していると考えているのが十王堂裏にある麻植定光の首塚です。

破壊される前の大本坊寺領は北は真光寺、東は十王堂まで含まれていたのではないかと推測します。

f:id:awa-otoko:20171203232334j:image(最低でも赤の枠線内が忌部大宮司家 麻植氏の領域だった。※ 推定)

f:id:awa-otoko:20171203234447j:plain(麻植定光首塚

現在の西ノ山 熊野神社や貞光城跡も忌部の古跡を利用した施設だった可能性さえもあります。そうでなくては貞光という地名にもなった麻植定光の首塚の位置が不自然過ぎるのです。

 

【まとめ】

貞光町は神代からの古跡、その後の忌部族の古跡、中世の城郭と施設の時間軸が違う宗教施設が重なり合って異質な空間を作り出している場所が多く存在しています。

f:id:awa-otoko:20171204152411j:image

f:id:awa-otoko:20171204152429j:image

家屋の密集や細い路地が迷路みたいに組み込まれているのは、攻め込み難い城下町としての役割も担っていたことによるものです。その他の理由としては市街地を碁盤の目に模して東西の氣を細分化しながら松尾社に集束、背後の吉野川に逸らするように配置した意図が働いているように感じます。

解説: 東ノ山からの氣の澱みは木綿麻山から降りる氣と木綿麻川の流れによって吉野川に合流して出ていきます。西ノ山付近の氣は停滞しやすく、松尾社が西ノ山の浄化施設:フィルターとなっています。ただ現在は補えきれていませんので滞留し過ぎた時は何かが起こる⁈ でしょう。。。

f:id:awa-otoko:20171204093641j:plain

その他では大坊から辻にかけては西ノ山の氣とは異質なもので氣の滞留はあまりみられません。こちらは麻植定光の首塚(もしくは牛頭天王:八坂)が、平将門首塚のように呪術的な仕掛けで守護しているのと似ているのかもしれません。

解説:大坊 八坂、辻 八坂から出る氣は剣山の氣も含まれていて、それが十王堂経由で貞光の市街地(中心部)に流れています。(街道を通じて松尾神社に繋がっている。)現在、旧貞光町の西側ではこの氣の動きしかなく、当地の氣の流れがなくなれば更に西ノ山の氣の澱みと停滞が増幅します。よって清浄に保ち、建造物を増やしたり通路を妨げてはダメです。

f:id:awa-otoko:20171203234731j:plain

古代は剣山、友内山(木綿麻山)のから降りてくる研ぎ澄まされた氣を巧く貞光集落に落として吉野川で留めていました。

解説:数多の年月を経て吉野川の流れも変化し、貞光集落に設置されていた要石的な古跡を破壊して結界バランスを崩したことが、西ノ山付近の氣が滞留する事象に現れているように思います。幸い東ノ山は木綿麻山と木綿麻川の流れで氣の停滞はありません。

これがいつの時代にかバランスが崩れて風水・呪術的に考えられていた機能が麻痺している状態にあります。

f:id:awa-otoko:20171204152321j:image(東西バランスよく配置されていた古跡)

現状乱れている氣のバランスを戻すことは難しいですが、大坊〜辻エリア 麻植定光の首塚(十王堂)を清浄に保ってもう少し祭祀してあげることでしょうかね。

f:id:awa-otoko:20171203221159j:plain(大坊からみる旧貞光市街地)

ここまで書いていて何なんですが、あくまで素人(awa-otoko)の独自解釈ですので気にしないでください。(気にされたら困ります。)ただ資料不足などで考察が行き詰まった時、こういうスピリチュアル?な面から考えることも必要なこともあって、今回はそれを採用したまでです。

これまでに旧貞光町をくまなく周りましたが、とてもスピリチュアルの観点から計算して作られた部分があります。こういうところに敏感な方、もしくは専門の方が計算して端八十八の巡礼システムも組み込んだのかもしれません。そして古にこの原型を誰が造営したのかを追っていけば古代神を祭祀した忌部大宮司家の麻植氏、さらには天日鷲命に行き着くのです。(これも流れってやつですかね。)

 

次回は資料に基づく考察に戻すつもりです。ただ、ネタはあるけどまとめるのがとても面倒くさいのでそのまま新年に突入するかも。それではまた。( ^ω^ )

安房国忌部系図からみる由布津主命 又名 阿八別彦命(アワワケヒコ)

f:id:awa-otoko:20171122212151p:image

どうもawa-otokoです。今回は阿波男ではなく安房男でいきますよ。なんてそんなことはどうでもいいとして冒頭に挙げましたのは「安房国忌部系」です。(※ちなみに野良猫さん、ぐーたらさんも過去記事で「安房国忌部系」を使用されていることを作成後に気付いたのですが、投稿内容がそれぞれ異なるのでそのまま使用させて貰いました。)

blogs.yahoo.co.jp

goutara.blogspot.jp

さて、こちらは忌部高山家に伝承されていた忌部家系を表した写本です。以前に調査した阿波貞光家賀集落の児宮神社で祭祀される由布津主命について安房忌部の資料からも迫ってみるのが今回の試みです。阿波・安房は由布津主命がキーマンなのですよ。
f:id:awa-otoko:20171122223319j:image

まずは冒頭の朱書きに注目。小さい文字ですね。本題とは全く関係ない内容ないのですが、有名人が記載されているので触れておきます。

明治四年小杉椙邨今ノ戸主高山義行ニ就テ以家系本書ト云フモノノ巻子ヲ目撃スルニ其料紙ハ美濃□ト云フモノヲツギ立テ正楷ニモノセル筆蹟ナド今四五十年バカリニ過ギサルモノト見エサレド紙中ノススケ痛ミナドノヤウナ今少シ古ビタル如クニモノシタリ 軸ハナケレド表禄ノ修覆ハ赤地錦ト云モノ、色モアセ金モサビテ折見ニハ殊臍ナリ 全編尤疑ワシキモノナレド何カ種トスル残嗣ナドアリテ此成文セシナラントカヅカヅ思ユル処ナキアラズ サレバ暇ノヒマヒマ原本ニ校べ見ルニコノ寫本ハ全ク細矢庸雄ガサカシランニ句読及体制ナドモノセシナラン 原本白文也原ノママニ赭色ヲサシテ備考ニアテント

小杉椙邨(こすぎすぎむら)が上総忌部 高山家で忌部家系図巻物を見つけて世に出た資料です。巻物の状態や記載内容について(当時の通説から考えれば)疑わしいが思い当たる節もあると記されていますね。原本ままに写本し、朱書きで備考に充てるとあります。

やっとここから本文。安房忌部の祖として天日鷲命が初代に記されています。まずは忌部氏の背景から説明ということで、スサノオの横暴により天照大神が天岩屋に入るところから始まります。

f:id:awa-otoko:20171122230026p:image

八百万の神は天安川の河原に集まり、天照大神を天岩戸から出す方法を議論します。それぞれ神達が役割を担って天照大神を誘い出すのことになり、八尺瓊勾玉八咫鏡などを用意し、阿波忌部の遠祖 天日鷲命は青和幣、白和幣を、天太玉命は太御幣を持って祈祷を行なったとされています。(※ awa-otokoはこのときの天日鷲命天太玉命は同一人物であると考えています。)

f:id:awa-otoko:20171122232207p:image

この頁から天日鷲命の次世代に移ります。

まずは神産巣日御祖大神の孫、天日鷲命の子である大麻比古命は亦の名を津咋見命、津杭耳命という記載に始まり、次に天白羽鳥命。亦の名を長白羽命。次に天羽雷雄命。亦の名を武羽槌命。この三柱は言苫比賣命が生んだ子としています。

f:id:awa-otoko:20171122232251p:image

大麻比古命は阿波忌部の祖。天白羽鳥命は神風とともに伊勢国に入り、五十鈴宮に奉仕した麻績連の祖。天羽雷雄命は倭文連の祖とあります。

次に真ん中から少し左、大麻比古命の次世代の系譜に繋がります。大麻比古命は磯根御氣比賣命を娶り、千鹿江比賣命と由布津主命のニ柱が誕生します。千鹿江比賣は今千貝大明神是也とあり、由布津主命は又名を阿八別彦(アワワケヒコ)とされます。(この兄妹関係もなんか引っかかってます。。)

f:id:awa-otoko:20171122232901p:image

ここでは由布津主命は天止美命(天富命)と定め、さらに由布津主命は青和幣、白和幣を使用して荒妙を調達し、これは阿波国から麻、木綿、和幣の織物を用意させたものであると記録しているのです。

また、由布津主命は其の地(阿波国を指す)に天日鷲命を祭祀する忌部神社、父、大麻比古命を祭祀する社建てて崇拝したとあります。 まさに忌部神社大麻比古神社のことですね。(この伝承から考えれば由布津主命が大麻比古神社を創建したことになりますね。)

その後「天止美命亦科由布津主命而更覚美土而可…(天富命と由布津主命はさらなる良き場所を見つけるため… ) 」とあり、太占の結果から阿波忌部族を率いて東土に移動を決定したことが記載されています。

f:id:awa-otoko:20171123074714p:image

阿波から東国に移動した由布津主命は天桅弓、天羽羽矢を用いて諸国の神達を平定していきます。手中に入れた領土を整備し、五穀豊穣も得られたことから土着の百姓も歓喜し、由布津主命の領土は拡大していきました。この業績からの由布津主命の美称として「阿八別彦命(アワワケヒコ)」と云う御名が生まれと言えるでしょう。

f:id:awa-otoko:20171123074748p:image

f:id:awa-otoko:20171123074826p:image

ここから二頁まとめて書きます。

阿波忌部を分けて東国に率いて行き、麻・穀を播き殖え、良い麻が生育した国となった故に総国と言われました。穀の木の生育したところをは結城郡と言れ、阿波忌部が住んだところは安房郡と呼ばれました。やがてその地に祖父の太玉命を祀る社を建てたのが現在の安房神社なのです。

f:id:awa-otoko:20171123074859p:image

f:id:awa-otoko:20171123074932p:image

また、天止美命(天富命)はその創祀の際、天太玉命が天上から持ち来たった神宝を納め、その神宝を娘である飯長姫命に奉仕させます。飯長姫命は由布都主命と結婚し、これが安房忌部氏の祖としています。 「阿八別彦命御合天止美命之子飯長姫命而所生子名訶多々主命是之安房忌部首之元始也。(阿波別け彦と飯長姫が夫婦となり訶多々主命が生まれた。是、安房忌部党首の元始なり。」ですね。

↑↑↑阿波での由布津主命動向↑↑↑

 ↑↑↑粟国造の資料からみた阿波忌部系譜↑↑↑

 f:id:awa-otoko:20171123123931j:image

はい。やはり安房国の資料をみても由布津主命が阿波国安房国を繋いだということです。由布津主命は阿波でも天日鷲命大麻比古命を祭祀しているように関東でも天日鷲命大麻比古命を祭祀していることはまず間違いありません。今に至っては天日鷲命がメジャーになり過ぎて、殆んどが天日鷲命に侵食されているようにも感じ取れます。これも天日鷲命の御神威ということでしょうね。

 f:id:awa-otoko:20171123123806j:image

さて今回安房忌部資料で作成しましたが、安房国の地理的に説明できない部分は文章から割愛しました。そのためちょっと物足りない内容になっている箇所がありますのでそこはご容赦を。でもこの内容を書いていた時、いろいろインスピレーションが働いて良いネタが湧いてきましたのでいろいろ準備したいと思います。もちろん由布津主命です。ではでは。(・∀・)

佐那河内の神社についての記録、御神宝いろいろ

f:id:awa-otoko:20171118235116j:image

今回は佐那縣こと佐那河内村を代表する神社の資料から伝説と神宝を駆け足でご紹介します。

 f:id:awa-otoko:20171118223616j:image(大宮正八幡大神宮だと⁈)

人皇四十二代文武天皇の御宇大寶三癸 卯年御神説有ニ依て第一本宮備前国宇佐宮より四十三代元明天皇和銅元戊申年二月初卯日佐那縣ニ宮柱太數立高間原二千高知りて斎祭る御迎ノ人ニ佐那大人猪飼眞人錦… あぁ読みにくい!!そして入力がめんどくさい=3 ということで、ここから早くもアバウトな記載で行きまーす。(いつも心がおれるんだ…)

 

f:id:awa-otoko:20171118224816j:image(大宮神社 御神宝の矢)

棟札は四枚あったがいつのまにか消失した。写しをだしとく。とあります。あと文末は朝宮神社のことについて。ちょっとだけ書いたら朝宮神社は大宮神社の末社とあります。

f:id:awa-otoko:20171118225737j:image

おいおぃ。さらっと上八万の朝宮祠より佐那河の朝宮へ遷し…と書いているではないか!!時系列が崩れるじゃねーか。と、ここでawa-otokoの解釈を書いておきますと佐那河内→上八万→佐那河内ってとこですかね。上八万に行ったことで場所から宅宮神社との繋がりがクサいです。(前に書いたな…)そして次。神殿の扉に記されていた古歌の写しを… (※ 読める人だけどうぞ。私はめんどくさいから解読しません。)

f:id:awa-otoko:20171118230332j:image

んー、右の六社は佐那河内の総氏神だそう。あれ?通説とは違う内容ですね。ここでもawa-otokoの心の中を少し書きますと、妙見がニ社ありますが、こちらは神山経由の社だと思います。あと杉宮ニ社のうちの祭神である応神天皇は後から入ってきたものと推測。(杉宮は大宮神社の末社とあるため、祭神を置き換えしている可能性が高い: 大宮神社の影響を強く受けている。)あとは滝宮なのでスサノヲですね。やっぱりこのエリアはアマテラスとスサノオのウケヒの舞台だったのかな。佐那河内村では水に関わる神の祭祀が多いのでそこに少し着目しています。

f:id:awa-otoko:20171118232157j:image

この頁は佐那河内に存在した猿田彦大神宮についての記録したもの。(祭神の並びを見て何か気がつきませんか?: みなまで語らず。ですが。。。)そして地元の一部がやたら推そうとしている藍神について説明してます。笑。途中に道教の神 猿田彦大神とありますねぇ。(←こんなん書いていいのん? ここも語れないじゃないですか。笑笑笑)

f:id:awa-otoko:20171118232858j:image

こちらの頁も藍神の説明が継続して書かれています。文末には猿田彦大神は岐の神、来名戸(クナト)の祖神であると書いてます。ただ、所在地関係のことや大宮神社でなぜ祭祀されたかなどの内容は全く記載されていません。 

f:id:awa-otoko:20171118235021j:image

f:id:awa-otoko:20171118234850j:image

天岩戸別神社の古書でここまで多く記載されているものは初めて確認しました。(中に面白い内容も書かれていますがここには記載しません。探して。)簡単に確認できるとこでは是レ天石門別豊玉比賣神社ならん。と書かれているところですかね。

f:id:awa-otoko:20171118235944j:image

f:id:awa-otoko:20171119000331j:image

また、ここでは御神陵、御神宝の鏡について書かれています。御神宝は鏡で裏には松、鶴、亀が書かれているらしくこれはもしかすると岩戸の中に収納されていた物かもしれませんね。文末は御間都比古。戦国時代に社は破損とあります。

f:id:awa-otoko:20171119000830j:image

f:id:awa-otoko:20171118235922j:image

御間都比古 伝来の宝物リストです。御間都比古石二つとあります。龍神石と水神石。龍神は海中より、水神は勝浦川から持ってきたらしいです。

f:id:awa-otoko:20171119003128j:image

f:id:awa-otoko:20171119001447j:image

宝物リストに記されたものは猿田彦神社社宝として七ヶ井開家に保管されているとされ、これは御間都比古神社と猿田彦神社の宝物が混ざったということが言いたいのでしょうか。

f:id:awa-otoko:20171119002124j:image

f:id:awa-otoko:20171119001510j:image

鉾一振りと矢根のほか、阿波の青石による男根石と石船の御神宝もお忘れなく。また上の内容に付随する興味深い内容が書かれていて、三本松にあった御間都比古神社は戦国時代に社が破壊された時から大宮神社の末社であったら猿田彦神社の相殿で祭祀されたと記録されています。

 

はい。駆け足の紹介でしたが如何だったでしょうか。古書を読める方が読んだら掘り出し物がある資料ですね。ただ全体を通してみて言えることは中世長曾我部元親に荒らされた被害が余程酷かったのか、いろいろ置き換えている部分があるのがうかがえるところです。まぁこれも歴史の中の事象として受け止めなければいけないものですが、調べるにあたって誤解を招きやすいところが惜しいですね。

佐那河内村は◯◯◯が推している手力男命伝説だけではなく、猿田彦、天石門別豊玉比賣(壹與)、天照、素戔嗚にも関わる重要な地域。

まだまだ調べれば出てきます。時間があれば今回の投稿で端折った部分を掘り下げて進めるかも。ではまた。(^○^)

児宮祭神 斎主命とは何者なのか?

f:id:awa-otoko:20171110213525j:plain

あいも変わらず貞光忌部氏関連を調査しておりますawa-otokoでございます。

さて、「端山郷土史編纂要項」なる古書を読んでいたら「児宮神社本暦」の記載を見つけてしまいました。

f:id:awa-otoko:20171110220637j:plain

なぜこのような重要なものが表に出ず埋もれていたのか不思議ですね。せっかくですから内容を紹介したいと思います。

f:id:awa-otoko:20171110221054j:plain

f:id:awa-otoko:20171110230135j:plain(児宮神社)

家賀道上に鎮座している児宮神社。祭神は「斎主命(いわいぬしのみこと)」だそうです。補足されているところ「古来 壱神ナリ」とありますね。きちんと読んでおられる方ならお気づきでしょうが、天照皇大神天児屋根命猿田彦大神、武雷槌命、斎主命が祭神ともされています。これは「児宮五社大明神」の祭神を指しています。本来斎主命だけの祭祀であった児宮神社はなぜ祭神が増えたのでしょうか。ちなみに斎主命は一般的には経津主命(ふつぬしのみこと)と同神とされている神です。すごいと思いませんか?

f:id:awa-otoko:20171110221109j:plain

さて、忌部氏が吉良の御所平に移ったとき旧跡となった木綿麻山(友内山)に天日鷲命を祭祀しました。それが友内神社の前身となります。そして忌部 津咋見命(大麻彦命)と天富命が東国の総ノ国に至り、阿波忌部族が四郡を置き阿波を改め安房としたとあります。こちらの旧跡ともいえる場所が現在の安房神社です。(こちらの内容ははそこそこ有名になってきましたね。)

f:id:awa-otoko:20171110225831j:plain(西福寺)

さて、ここで後回しにしていた児宮祭神について説明しましょう。児宮神社の北側にある西福寺の境内には神明大神宮なる祠が存在していました。祭神は天照皇大神天児屋根命猿田彦大神、武雷槌命の四柱。これら祠を含めて西福寺は火災に遭い、児宮一座 斎主命に神明大神宮の四座を合祀して現在の五座祭神に至るのです。

f:id:awa-otoko:20171110221116j:plain

伝わるところ斎主命は津咋見命(大麻彦命)、后比女(?)を父母に持つ天日鷲命の正統直系です。父母二神は木綿麻山に、斎主命自身は山を降りて宮殿を造ったとされ、宮殿を造営するにあたり下調べした場所を見定、宮殿の造営地は宮久保という地名が残されています。また斎主命は宮殿の近くに忌部太祖 天太玉命を祭祀した千田神社(千陀)を作り、忌部氏の繁栄を願うことも忘れませんでした。

そしてお待ちかね。今回の目玉、斎主命の御陵について記録がございます。伝わるのは児宮神社より南西に位置する灰塚(はいづか)。灰塚とは拝塚であろうと横から書いてますね。(灰塚と拝塚ではぜんぜん意味が違ってきますからね。)せっかくこの記事を読んでいただいているので、特別に読者様だけに斎主命の御陵跡をお教えしましょう。

f:id:awa-otoko:20171111055724j:plain

f:id:awa-otoko:20171111055835j:plain

斎主命の御陵である拝塚とは何を隠そう「史跡 家賀城址」と刻まれた石碑が立つ場所となります。石碑の裏にある古木の根元に小祠が祭祀されていますがこちらは斎主命を祀るものでしょう。(まさに灯台下暗しですな。)

f:id:awa-otoko:20171110221151j:plain

さて、ここから安房国安房郡滝口村 松原神社神主 高山上総介忌部宿禰義陳系図(写)が記録されております。

天日鷲命(あめのひわしのみこと)

后神言筥女命(いいちめのみこと)

大麻比古命 別名:津咋見命(つくいみのみこと)、溝杭耳命(みぞくいみみのみこと)

天白羽鳥命(あめのしらはとりのみこと) 別名:長白羽命(ながしらはのみこと)

天羽雷槌命(あめのはいかづちのみこと)別名:武羽槌命(あけはづちのみこと)

千鹿江比賣命(ちかえひめのみこと)別名:今云 千見大明神 是ナリ

f:id:awa-otoko:20171110221243j:plain

由布津主命(ゆふつぬしのみこと)別名:阿波和気比古命(あわわけひこみこと)

后神 飯長姫命(いいながひめのみこと)

訶多々主命(うたたぬしのみこと)

系図から考証された内容では斎主命は由布津主命であり、武雷槌命は武羽槌、天羽雷の御名であろうとされています。また由布津主命(斎主命)が武羽槌命の御子であるから児宮の名称を与えられたのではないかと記されています。(ちょっとココは弱いかな。)

これは安房松原神社に伝わる忌部系図を基に児宮神社との伝承(系図)で比定したものですから、阿波児宮から安房国へ移動した歴史を伝える意図が含まれていることはまず間違いありません。

下立松原神社 - Wikipedia

こちらの内容は明治十三年改神社明細帳の写で神道支局長の名前まで入れた児宮神社の由緒でありますが、残念ながら徳島県高知県に編入された時期に書かれたものであったために日の目を見ない状態が続いたことが推測できます。

さて、、、斎主命から出てきた今回の内容、斎主命は由布津主命、そして阿波和気比古命(あわわけひこ)でしたね。「阿波を分けたもうた男神」の意味ですから、阿波から安房をわけた功績者として称えた御名なのです。過去記事では忌部系図、麻植氏系図を載せた回がありますが、そちらから比較してみても面白いと思います。 だいぶ時系列がはっきりしてきたのではないでしょうか。

この資料や安房国の伝承からも、当地の斎主命こと由布津主命、天富命安房に行き来して天日鷲命を祭祀していたことがわかってきました。やはり通説である天富命安房から阿波に来たのではなく、友内山一帯を拠点として阿波から安房へ広がっていったということですね。

最後に。今回にテーマに挙げた斎主命ですが天児屋根命という別の神名がつけられていたなら… もしくは身内に天児屋根命が存在していたら… awa-otokoは忌部氏と中臣氏の…   いやいゃ、最後まで語りますまい。以降そこらも含めてさらに掘り下げて調査をしたいと思います。(。・ω・。)

友内山 浮島とくしふる滝に行ってきた。

f:id:awa-otoko:20171105224556j:image

awa-otokoです。書ける時にまとめてブログを書いております。いやはや公では忙しい日々が続いておりますが、そんな時の休日の過ごし方はカラダをめいいっぱい動かすこと。

f:id:awa-otoko:20171105225214j:image

という訳で、最近課題が山盛りな友内山へ調査を兼ねて登山に向かったのですが、天候が不安定でちょっと躊躇してしまいまして、、、以前から探索したかった友内山麓の神代古跡探索に切り替えましたので成果をご紹介したいと思います。

f:id:awa-otoko:20171105225554j:image

突然ですが、かの大杉氏が出版しております「神代の史跡案内」というガイドブックがあるのはご存知でしょうか。

氏は友内山は「三里四方の霊地」と定め、古事記日本書紀に書かれている「高千穂」とはこの友内山と断言しております。

剣山(高天原の中心)を出発したニニギノミコトは、葦原中国を目指して峰づたいに降りて来られ、友内山(高千穂)へ到達されました。それから山を下ると、天の浮橋・浮島・くしふる滝があったのです。更にニニギノミコトは膂宍(そしし)の空国(梶山峠付近)を通って中野宮へ至り、御崎神社の所に本宮を造られました…

f:id:awa-otoko:20171105230727j:image

はい。探索するためにこのガイドブックを参考にした訳ではなく、探索後に資料の中に埋もれていた今回の本を思い出して引っ張り出してきた訳ですが…

いやはや面白い。記載にある説明を含めながら友内山 神代の史跡を案内したいと思います。 

 

天の浮 橋・浮 島

f:id:awa-otoko:20171105232522j:image

f:id:awa-otoko:20171105232608j:image

大杉説では高千穂(友内山)を降りてこられたニニギノミコトは「天の浮橋」を渡り、次に「浮島」にお立ちになったとされています。

まず「浮橋」とは丸太を三本並べて、その上に柴を置き藤蔓で縛り付けた橋とのこと。昔から阿波では用いられた橋だそうです。(もちろん今回は古代から残っている浮橋などはありませんでしたので悪しからず。)

「浮島」とは谷川にできた岩盤の島で、最大のもので畳五枚敷ほどの広さがあります。ここにニニギノミコトが立ったそうです。(写真参照)

 

くしふる滝

「くしふる滝」とは「髪のように降る滝」という意味らしく、古代人は頭髪を左右に分けて片方づつ櫛で解き、その髪のように水が左右二筋になって落ちたことを意味した滝とのこと。

f:id:awa-otoko:20171105231633j:image(滝全景)

f:id:awa-otoko:20171105231712j:image(滝の真下)

f:id:awa-otoko:20171105231803j:image(滝の真上)

この滝の真上から朝日が出れば「くし日」というそうです。「くし日」とは「髪のある太陽」ということらしいです。大杉説によれば古事記日本書紀にある高天原(剣山)から峰づたいに高千穂(友内山)へ天下られたニニギノミコトとお供の神々は、「くしふる滝」を目指して山を下って来られたそうです。

ということで、暫しの時間ですが、神が降り立ったとされる場所で古代の浪漫に思いを馳せてきたのでありました。ちなみにawa-otokoは友内山からニニギノミコトが降りてきたのではなく天日鷲命だと考えてます。全部大杉説に乗っかっているのではないのでそこんところ夜露死苦w

さて、、、今回のお話、本当のことをお話しすると、「浮島」や「くしふる滝」をメインで探していたのではありませんでした。天日鷲命所縁の古跡を探索していて偶然にも大杉氏のガイドブックに記載された場所に行き着いたこの奇跡。この奇跡的な出会いを簡単ながらも紹介させて頂きました。(我ながら大袈裟だな=3)

 

オマケ

二つ探しものがあって一つはヒット。もう一つは空振りでした。

とりあえず探しものの一つ「火投げの窟」。

f:id:awa-otoko:20171105235135j:image

「火投げ(ひなげ)」は「日名祗(ひなぎ)」であり「日鷲(ひわし)」に通じるもの。天日鷲命が往き来した場所ですぜ☆ここは友内神社の境内地内に確認されていましたが場所を知る古老も少なくなり、不明になっていました。(見つけちゃった☆)

空振りしたあと一つは当然、ひ・み・つ です。また確認できたら紹介します。

f:id:awa-otoko:20171106000221j:image

あ、それと最後にお知らせ。あと一〜二週間経過すれば紅葉が素晴らしく色づくと思うので是非、友内山に足を運んでみてはいかがでしょうか。絶対きれいだと思いますよ。それでは今回はこのへんで。さようなり〜。(・∀・)