児宮祭神 斎主命とは何者なのか?
あいも変わらず貞光忌部氏関連を調査しておりますawa-otokoでございます。
さて、「端山郷土史編纂要項」なる古書を読んでいたら「児宮神社本暦」の記載を見つけてしまいました。
なぜこのような重要なものが表に出ず埋もれていたのか不思議ですね。せっかくですから内容を紹介したいと思います。
(児宮神社)
家賀道上に鎮座している児宮神社。祭神は「斎主命(いわいぬしのみこと)」だそうです。補足されているところ「古来 壱神ナリ」とありますね。きちんと読んでおられる方ならお気づきでしょうが、天照皇大神、天児屋根命、猿田彦大神、武雷槌命、斎主命が祭神ともされています。これは「児宮五社大明神」の祭神を指しています。本来斎主命だけの祭祀であった児宮神社はなぜ祭神が増えたのでしょうか。ちなみに斎主命は一般的には経津主命(ふつぬしのみこと)と同神とされている神です。すごいと思いませんか?
さて、忌部氏が吉良の御所平に移ったとき旧跡となった木綿麻山(友内山)に天日鷲命を祭祀しました。それが友内神社の前身となります。そして忌部 津咋見命(大麻彦命)と天富命が東国の総ノ国に至り、阿波忌部族が四郡を置き阿波を改め安房としたとあります。こちらの旧跡ともいえる場所が現在の安房神社です。(こちらの内容ははそこそこ有名になってきましたね。)
(西福寺)
さて、ここで後回しにしていた児宮祭神について説明しましょう。児宮神社の北側にある西福寺の境内には神明大神宮なる祠が存在していました。祭神は天照皇大神、天児屋根命、猿田彦大神、武雷槌命の四柱。これら祠を含めて西福寺は火災に遭い、児宮一座 斎主命に神明大神宮の四座を合祀して現在の五座祭神に至るのです。
伝わるところ斎主命は津咋見命(大麻彦命)、后比女(?)を父母に持つ天日鷲命の正統直系です。父母二神は木綿麻山に、斎主命自身は山を降りて宮殿を造ったとされ、宮殿を造営するにあたり下調べした場所を見定、宮殿の造営地は宮久保という地名が残されています。また斎主命は宮殿の近くに忌部太祖 天太玉命を祭祀した千田神社(千陀)を作り、忌部氏の繁栄を願うことも忘れませんでした。
そしてお待ちかね。今回の目玉、斎主命の御陵について記録がございます。伝わるのは児宮神社より南西に位置する灰塚(はいづか)。灰塚とは拝塚であろうと横から書いてますね。(灰塚と拝塚ではぜんぜん意味が違ってきますからね。)せっかくこの記事を読んでいただいているので、特別に読者様だけに斎主命の御陵跡をお教えしましょう。
斎主命の御陵である拝塚とは何を隠そう「史跡 家賀城址」と刻まれた石碑が立つ場所となります。石碑の裏にある古木の根元に小祠が祭祀されていますがこちらは斎主命を祀るものでしょう。(まさに灯台下暗しですな。)
さて、ここから安房国安房郡滝口村 松原神社神主 高山上総介忌部宿禰義陳系図(写)が記録されております。
天日鷲命(あめのひわしのみこと)
后神言筥女命(いいちめのみこと)
大麻比古命 別名:津咋見命(つくいみのみこと)、溝杭耳命(みぞくいみみのみこと)
天白羽鳥命(あめのしらはとりのみこと) 別名:長白羽命(ながしらはのみこと)
天羽雷槌命(あめのはいかづちのみこと)別名:武羽槌命(あけはづちのみこと)
千鹿江比賣命(ちかえひめのみこと)別名:今云 千見大明神 是ナリ
由布津主命(ゆふつぬしのみこと)別名:阿波和気比古命(あわわけひこみこと)
后神 飯長姫命(いいながひめのみこと)
訶多々主命(うたたぬしのみこと)
系図から考証された内容では斎主命は由布津主命であり、武雷槌命は武羽槌、天羽雷の御名であろうとされています。また由布津主命(斎主命)が武羽槌命の御子であるから児宮の名称を与えられたのではないかと記されています。(ちょっとココは弱いかな。)
これは安房松原神社に伝わる忌部系図を基に児宮神社との伝承(系図)で比定したものですから、阿波児宮から安房国へ移動した歴史を伝える意図が含まれていることはまず間違いありません。
こちらの内容は明治十三年改神社明細帳の写で神道支局長の名前まで入れた児宮神社の由緒でありますが、残念ながら徳島県が高知県に編入された時期に書かれたものであったために日の目を見ない状態が続いたことが推測できます。
さて、、、斎主命から出てきた今回の内容、斎主命は由布津主命、そして阿波和気比古命(あわわけひこ)でしたね。「阿波を分けたもうた男神」の意味ですから、阿波から安房をわけた功績者として称えた御名なのです。過去記事では忌部系図、麻植氏系図を載せた回がありますが、そちらから比較してみても面白いと思います。 だいぶ時系列がはっきりしてきたのではないでしょうか。
この資料や安房国の伝承からも、当地の斎主命こと由布津主命、天富命が安房に行き来して天日鷲命を祭祀していたことがわかってきました。やはり通説である天富命が安房から阿波に来たのではなく、友内山一帯を拠点として阿波から安房へ広がっていったということですね。
最後に。今回にテーマに挙げた斎主命ですが天児屋根命という別の神名がつけられていたなら… もしくは身内に天児屋根命が存在していたら… awa-otokoは忌部氏と中臣氏の… いやいゃ、最後まで語りますまい。以降そこらも含めてさらに掘り下げて調査をしたいと思います。(。・ω・。)
友内山 浮島とくしふる滝に行ってきた。
awa-otokoです。書ける時にまとめてブログを書いております。いやはや公では忙しい日々が続いておりますが、そんな時の休日の過ごし方はカラダをめいいっぱい動かすこと。
という訳で、最近課題が山盛りな友内山へ調査を兼ねて登山に向かったのですが、天候が不安定でちょっと躊躇してしまいまして、、、以前から探索したかった友内山麓の神代古跡探索に切り替えましたので成果をご紹介したいと思います。
突然ですが、かの大杉氏が出版しております「神代の史跡案内」というガイドブックがあるのはご存知でしょうか。
氏は友内山は「三里四方の霊地」と定め、古事記・日本書紀に書かれている「高千穂」とはこの友内山と断言しております。
剣山(高天原の中心)を出発したニニギノミコトは、葦原中国を目指して峰づたいに降りて来られ、友内山(高千穂)へ到達されました。それから山を下ると、天の浮橋・浮島・くしふる滝があったのです。更にニニギノミコトは膂宍(そしし)の空国(梶山峠付近)を通って中野宮へ至り、御崎神社の所に本宮を造られました…
はい。探索するためにこのガイドブックを参考にした訳ではなく、探索後に資料の中に埋もれていた今回の本を思い出して引っ張り出してきた訳ですが…
いやはや面白い。記載にある説明を含めながら友内山 神代の史跡を案内したいと思います。
天の浮 橋・浮 島
大杉説では高千穂(友内山)を降りてこられたニニギノミコトは「天の浮橋」を渡り、次に「浮島」にお立ちになったとされています。
まず「浮橋」とは丸太を三本並べて、その上に柴を置き藤蔓で縛り付けた橋とのこと。昔から阿波では用いられた橋だそうです。(もちろん今回は古代から残っている浮橋などはありませんでしたので悪しからず。)
「浮島」とは谷川にできた岩盤の島で、最大のもので畳五枚敷ほどの広さがあります。ここにニニギノミコトが立ったそうです。(写真参照)
くしふる滝
「くしふる滝」とは「髪のように降る滝」という意味らしく、古代人は頭髪を左右に分けて片方づつ櫛で解き、その髪のように水が左右二筋になって落ちたことを意味した滝とのこと。
(滝全景)
(滝の真下)
(滝の真上)
この滝の真上から朝日が出れば「くし日」というそうです。「くし日」とは「髪のある太陽」ということらしいです。大杉説によれば古事記・日本書紀にある高天原(剣山)から峰づたいに高千穂(友内山)へ天下られたニニギノミコトとお供の神々は、「くしふる滝」を目指して山を下って来られたそうです。
ということで、暫しの時間ですが、神が降り立ったとされる場所で古代の浪漫に思いを馳せてきたのでありました。ちなみにawa-otokoは友内山からニニギノミコトが降りてきたのではなく天日鷲命だと考えてます。全部大杉説に乗っかっているのではないのでそこんところ夜露死苦w
さて、、、今回のお話、本当のことをお話しすると、「浮島」や「くしふる滝」をメインで探していたのではありませんでした。天日鷲命所縁の古跡を探索していて偶然にも大杉氏のガイドブックに記載された場所に行き着いたこの奇跡。この奇跡的な出会いを簡単ながらも紹介させて頂きました。(我ながら大袈裟だな=3)
オマケ
二つ探しものがあって一つはヒット。もう一つは空振りでした。
とりあえず探しものの一つ「火投げの窟」。
「火投げ(ひなげ)」は「日名祗(ひなぎ)」であり「日鷲(ひわし)」に通じるもの。天日鷲命が往き来した場所ですぜ☆ここは友内神社の境内地内に確認されていましたが場所を知る古老も少なくなり、不明になっていました。(見つけちゃった☆)
空振りしたあと一つは当然、ひ・み・つ です。また確認できたら紹介します。
あ、それと最後にお知らせ。あと一〜二週間経過すれば紅葉が素晴らしく色づくと思うので是非、友内山に足を運んでみてはいかがでしょうか。絶対きれいだと思いますよ。それでは今回はこのへんで。さようなり〜。(・∀・)
貞光墓は誰の墓⁈
貞光の地名に就て即ち「貞光は異本阿波志曰太田貞光殿とあり又阿波志曰或曰藤原貞光嘗居此、因名ともに人の名になしたれどいかがあらむ嘉祥年間宣命の寪に定満とあり又慶長八年の記を寪したるには定光とあり全く人の名と思れぬ處あり」と、併し異本阿波志には太田文貞光殿とあり。太田文とは那賀郡和食村蛭子神社所蔵元亀四年の文書を指せるなり。而して貞光殿とある貞光は寧ろ地名をとりたるものと認めらる。然れども今貞光に貞光の墓と稱せらるるものあるを見れば阿波志の記する處適中せるものならん。
はい。貞光という地名の起りについて記されている一文を古書より抜粋しております。内容は今風?に訳せば、、、
貞光の地名って異本阿波志では太田文貞光殿って書いてるけど、文書のことじゃなく藤原貞光じゃね⁈ でもな〜、人名からは採用してない気がする。あ〜、貞光村に「貞光の墓」ってのが昔からあるじゃん。やっぱ地名の貞光って人名から採用してるんじゃね????
てな、感じですかね。
書籍からなのか人名なのかを明言してないところから昔から真相はわからないんでしょうね。
で、貞光の地名人名由来説についてはその他にも様々な貞光説がありますが、上記の引用文には記載されていない「◯◯貞光」なる人物が存在しました。
それは…
碓井(臼井)貞光(うすいさだみつ)
酒呑童子を退治した源頼光の四天王の一人。坂田金時をスカウトしたということでも有名ですね。
その碓井貞光については、貞光町の臼井家は碓井貞光との繋がりが口伝として残っていたようで、その昔にわざわざ相模国まで調査に赴いたようです。
その昔、阿波臼井家が碓井貞光との関係を調べに相模国へ赴いた時、相模国碓井家は「当家先祖は遥かな昔、阿波国より来たと教えられている。」と答えた。その繋がりにいたく感激した臼井氏ら調査団は碓井貞光の分霊を阿波国に持ち戻り、それより毎年欠かさず祭祀を執り行っているとのことである。
このような臼井家の伝承をさらに掘り下げてみても面白いのですが、ちょっと個人的には 碓井貞光の説は … の部分がございまして。(じゃあなぜ例に挙げた?とツッコミが入りそうですが… 苦笑)
で、awa-otokoが調査している「◯◯貞光」の線上にはご存知の忌部大宮司家正統 麻植定光(おえのさだみつ)がございます。
「麻植定光木綿麻山神社ト号ス天児屋根命児宮… 」の記録が残る麻植定光ですね。因みに忌部系図では四十三代目として記録されています。そこで下記の資料をご覧いただきたい。
貞光墓:町の中部字辻十王堂にあり、石製の小祠を置き俗に臼井貞光を祀ると、然れども其實藤原貞光或は麻植貞光を祀れるものならん、美馬郡誌に貞光の墓は無銘の五輪塔なりと記せども今在らず。
(麻植定光を祀るとされる端四国八十八 十王堂)
(十王堂裏の貞光の墓とされる小祠)
(個人的にはお堂の真後ろにあるこの祠と推定)
このように麻植定光の墓は端四国八十八の九番 十王堂の裏の祠に祀らていると伝わります。やはりこちらも臼井、藤原、麻植の貞光達の古跡が混同して伝承されており、確かな答えについては明言はされていません。
やっぱりいろいろ調べてみても、地名の貞光とは人名からの由来なのか、また十王堂裏の墓はどの貞光の墓なのか。謎のままなんですね。
という訳で、なぜわからなくなったかの理由を推測してみます。
まず中世での長曾我部元親による侵攻での破壊。そして復興後の蜂須賀家の裏工作。そしていちばん感じられるのが明治〜昭和にかけて限られた範囲内で住宅が密集した結果、周囲の景観が全く確認できなくなってしまったことですね。東西ミサキや神子塚(朝日は現存、夕日は不明)などの位置関係は貞光町内を歩いているだけでは全くわかりません。
過去記事やフェイスブックでも書きましたが、本来貞光村は東西にわけて同じような古跡が存在していました。これから考えれば麻植定光、碓井貞光の墓も各々存在していた可能性も…(これは勝手な私感。)
最後に。
awa-otoko的には麻植定光の名が貞光町の由来であり、十王堂の祠付近に五輪塔も存在したと考えています。今回いろいろ古文書から古跡の位置、伝承を下調べしてから貞光町で実地調査しましたが、(上記の理由から)なかなか掴めませんでした。また新たな対策を考えてから再度リベンジしてみようと思っています。(>_<)
端山は母山の義なり(その弐)
はい〜。前回から端山付近について綴っております。続きでございます。
その前にトップの地図写真、アバウトな作りではありますが、なかなかよく見ると面白いのです。陵の位置が描いてあるだけではございません。まぁこの件は後ほど。
それでは本題を進めてまいりましょう!
(絹織窟付近)
(吉良山 御魂處:天日鷲命の后の御陵と伝わる)
絹織岩屋 此處に廣き岩屋あり尊機を織始め賜ふ所なり。當村三里四方を外曲輪として夫より三重に内曲輪の蹟あり。其後忌部大神宮と奉崇稱四國當社の神領也日本神楽の初は當社なり。東端山西端山一宇山穴吹山貞光に今以て社家神主楽人之子孫數十家あり。
吉良山上の絹織窟の中で天日鷲命は機織りをしたと伝わります。その吉良山を中心に三重の内曲輪、外曲輪の形跡がみられる忌部大神宮は四国の一宮として祭祀されていました。そもそも忌部氏は神の祭祀に特化した一族である伝承の通り、東西端山(忌部郷)に居住した忌部大神宮の氏人は神主、神楽を奉じていた人々でありました。
(忌部三木氏発祥の地と考えられる三木栃からの眺望)
(三木栃堂)
尊當村にて麻を植初賜ふ、夫より國々に麻を植布初む、右五カ村は社内にて今以て右村に末社數多あり、右麻を植させ賜ふ故祭體には麻を奉る。其節は今の三好郡は美馬郡と云ふ、其後美馬郡を三好郡と云ふ。麻植郡半分を美馬郡と改、三好郡なる麻を捧け奉るにより麻を植と書麻植と唱ふ。馬を美々しく飾り神馬を上に依り美馬と書て美馬郡と唱ふ。
天日鷲命は当地より麻を植え賜り、他の地域にも麻を植えることを勧めてきました。三好郡の領域は本来は美馬郡、さらに美馬郡は麻植郡を半分に分けたものでした。この美馬郡という地名は天日鷲命が御馬に乗って当地に降臨したことを由来とする美称と考えられていました。しかし、天日鷲命伝承からは切り離しできない麻に関係がある美称だったのです。
(宮平の額(楽)堂 :天日鷲命が楽を奉じし故の地)
豫州荢麻と書馬郡と唱ふ、四國中惣体郡村に右の古言多し。其節里分は大形惣海なり。今以て右五カ村惣名宇荢名地利と謂は此謂れなり。然處昔時數度の兵亂に神領を滅して三好長治には漸く二三カ村神領ある處、長治漸く横領して夫より神領なしとなり、自然と忌部破崩に及び候故社家神主楽人も百姓と成る。右吉良の御處を吉野と唱へかへし故川つらを吉野川と其後書替。
その昔、伊豫の郡名として存在していた宇摩(うま)郡は荢麻郡と書かれていたそうです。荢麻(うま:からむし)とは麻荢の意味で、これは麻の繊維を原料とした糸のことをいいます。
「美馬(みま)」は、実のところ「美荢麻(みうま)」だったのではないかということなのです。
意訳すれば麻糸をつくる美しい郡というところでしょうか。(そのまんまww)まさに天日鷲命が降臨し、麻を植え、麻荢で機織りをした忌部郷にぴったりの地名ですよね。
(友内神社)
(友内山登山口にある天日鷲命像?)
このように神の祭祀と麻で繁栄した忌部大神宮(天日鷲命)の領域は、残念なことに中世の度重なる戦乱によって破壊されていきました。残っていた忌部氏人の村も三好長治によって神領を取りあげられ、遂に忌部大神宮の社地は無くってしまったそうです。その時、奉じるものが無くなった氏人達は仕方なく百姓となり、端山の忌部氏伝承は衰退していったのです。
(友内山道にある樹木)
両端山往古は貞光村也文禄中より貞光村東端山西端山三カ村に相分れ神代よりの名所なり、然所昔時忌部沽却し中古己来の名所記に見えず云々。又貞光川は木綿麻川と称す。忌部神社正蹟補考には最初友内山上にありたるならんと言へり、蓋し友内山上西森東森、日名祇の岩屋等忌部に關する遺跡伝説多きを以てなり。
神領を強奪された忌部大神宮は衰退の一途を辿り、さらに阿波に入国した蜂須賀家が忌部大神宮の復興を認めず、神宝の略取、焼捨てを指示して隠蔽を謀ったのでした。しかし時の権力者による横暴な対応に憤りを感じていた忌部の氏人達は、神代からの古跡の記録、また忌部の神宝の在処を口伝で残していたのであります。
そこで今回は古くより忌部郷に伝えられている名所(古跡)を資料により提示してみようと思います。(実は入力が面倒なだけなんですが… )
上記資料の内容を冒頭の地図と照らし合わせれば、忌部郷の古跡位置を大体ですが掴むことができます。ご覧の通り古跡の数は多く、後々ピックアップするかもしれないので全ての説明は避けます。
その代わりといっては何ですが、awa-otokoの見解を述べます。これまで紹介したように貞光、東西端山の忌部郷と呼ばれた地域は主に天日鷲命の伝承が主体となって伝承されています。しかし、少し隠れた部分からは天日鷲命の后や御子の古跡が忌部氏人により伝承されていることに着目したのです。
三サキ社(二社)
神子塚(二塚:朝日ノ子塚、夕日神子塚)
三サキ社(ミサキ=キサキ:后)については天日鷲命の后の御陵を示すもの。(遥拝所か?)神子塚についてはそのまま御子の塚(または血縁者)なのでしょう。
そのほか、忌部大神宮の境内に植えられていたという「実ナラズノ藤」と「鈴ナリノ梅」は古跡の何かと対応しているような気がするのです。忌部の神宝の在処とかな‼︎(こちらは直感なので悪しからず。)
天日鷲命一族を祭祀した聖域を忌部大神宮とし、その神領である3里四方を忌部内山とした。そしてその神領に含まれる貞光、東西端山の忌部郷と呼ばれた地域には実のところ后と御子も祭祀されている。
まさに「阿波忌部族発祥の聖地」であるということから「端山は母山の義なり」と伝えられたのではないのでしょうか。
二回に渡って投稿した端山は母山説、珍しく題名の通りに締めれたのでそそくさと終了にしたいと思います。
オマケ
端四国八十八ヶ所巡りを知っていますか?
意外と知られていないのですが忌部大神宮の古跡に関連して重要な部分なのです。忌部定光の墓が十三堂(これは十王堂のこと?)だったり、神子塚(たぶん朝日ノ子塚)が姫子塚として残っています。夕日ノ子塚の場所は現在不詳ですが名前を変えてお堂として端四国八十八ヶ所に含まれている可能性は高いです。
その他にもいろいろと…
あー、これ載せたらSどん氏が悦びそうなので、ホントにこれで締めたいと思います。それではさよなら〜。(´・∀・`)
端山は母山の義なり(その壱)
実に太古の話、四国の統名を伊豫というものと相通ず。伊豫は即ち祖の義なる母きか。祖谷山は親山の義。端山は母山の義なりと。蓋し祖志の説、進化せるものたり。
(吉良 御所神社)
はい。今回は端山周辺のお話。冒頭に記した伝承に基づいて考察を進めて参りましょう。
美馬郡端山村に忌部神社と称する神社あり、而して其附近忌部氏に関する伝説頗るに多し、國鏡、阿波郡荘鑑其他諸種の舊記に、此地の遺跡傳説等詳記せり。即ち曰く、「美馬郡拜原村昔忌部大神宮四国神領之節出家沙門吉野川を隔て北地川向ひ此原にて拜し奉る、依て拜原村と云ふ。西端山神代に天日鷲命御馬に召れ此處の内吉良と云ふ處に御止り其古跡吉良の御處なり、此處に鈴なり紅梅とて名華あり、花千重なり。藤の森、御所平、駒が岡、蜂須五社大明神、御魂處。山上に二ヶ所あり、一所は御后一丈四方程なる大石にて圍ひ今は人往難し。
友内山の北東向かい、吉野川を挟んだ脇町拝原はその昔、御所平 忌部大神宮を遥拝した場所であったが故の地名です。(そうそう、倭大國敷神社が鎮座してる場所ね。友内山を拝む拝原に鎮座している大國敷って誰を祭祀しているのかよーく考えてみて下さい。☜ ココ、必ずテストに出ますよ。(嘘)www )
ここは友内山を拝んでいたという、謂わば前フリ部分ですね。
(蜂須神社)
そして、神代に天日鷲命が馬に乗って降臨した吉良には古跡が数々存在していたとあります。それは藤の森、御所平、駒ヶ岡、蜂須神社、御魂處だそうです。
その吉良(吉良は西端山に含む)の山上には御魂處が二ヶ所存在し、その内の一つは天日鷲命の后の御陵であるとされています。一応、その部分は過去に紹介済みであるところ。
(そう。まさにこれ。后の陵と推定。)
御所神社の裏山にある清頭岡遺跡(御魂處)ですね。御所神社がなぜ当地に鎮座しているのかは、この御陵の存在があるからでしょう。因みにこの側にも天日鷲命の后が機織したという伝説の窟が存在します。
(こちらは蜂須神社ね。)
さて、もう一つの御陵は…
今は秘密。。。
なぜ蜂須神社の写真を掲載したのかを推理してみて下さいネ。(awa-otoko的にはもう一つの御陵も后のものと推測しております。)
忌部古社大蔵後家舊記曰清頭谷日名祇谷落合處に日鷲命津咋見尊二神奉両森大神宮と號、奉稱處清頭岡と唱へ来る、面に神孫第一之御魂金銀御平足を立賜所神平と號、元祖白川御處と唱へ賜ふ、此二神 川を見し賜ふ處佐久良谷花都より吉野迄流来る、花珍數御川と御勇賜ふ故此原惣名川見と唱来る、當山日鷲命御坐す、岩屋日名祇大神宮と奉號、本社友内宮本社頭也、東森月出大神宮西森京大神宮都奉彰云々。
さて次。清頭谷と日名祇谷が落ち合う場所に天日鷲命と津咋見命の二柱を祭祀した両森大神宮が存在したとありますね。あと御幣を立てた神平など。まぁそこら辺は置いといて、次が大事な部分。
當山日鷲命御坐す、… 本社友内宮本社頭也。
はい。本社は友内山って記録されているんですねー。因みに天日鷲命がお住まいになった日名祇(ひなぎ:日鷲(ひわし))の窟は友内山の… にありますので出典の内容には間違いはありません。
そして大事な部分、なぜ友内山(友内神社)が本社なのか… これは皆様のご想像にお任せして今回は中途半端に終わりたいと思います。wwww(といっても次回にまとめようとも思っていませんが。)
という訳で東森月出大神宮、西森京大神宮もちょっと心当たりがあるので書きたいのですが、そろそろ夜も更けて参りました。これもまたの機会に。。。(≧∇≦)