awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

探せ‼︎ 剣山にある弘法大師が刻んだ法華経一字一石の塚

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はい。今回はひっぱり過ぎが否めない剣山大権現縁起から。

f:id:awa-otoko:20170821000450j:image(剣山大権現縁起の下書き)

f:id:awa-otoko:20170821000514j:image(全部は掲載しませんぜ。)

昔、安徳帝行在の砌陣営に用ひ給ひし事あり故に藤の池陣屋とも云ふなりと参詣者必ず此に宿す… と伝わる藤ノ池 龍光寺から一ノ森、剣山への参道は確認していましたが、時間が作れたので垢離取から藤ノ池 龍光寺までの旧剣山大権現への参道を調査してきました。

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岩石峨々として樹木蕃生す、岩下に深淵あり不動明王を安置す猶登ること十八町にして漸やく山脚に達す、垢離取川あり長さ十五間の鞘穚を架す、岩上に不動の尊像あり瀬登り不動と云ふ、また役の行者の像あり、之より十八町の坂路殊に嶮峻を極め樹木また蓊鬱たり久利伽羅坂と云ふ。

f:id:awa-otoko:20170821062207j:image(鞘橋跡地)

f:id:awa-otoko:20170821001200j:image(鞘橋の瀬登り不動からスタート)

f:id:awa-otoko:20170821001324j:image倶利伽羅坂がきぶいのなんの… )
柴折行者経塚等あり、大師自ら築きし處の法華経一字一石の塚なりと傳ふ。

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はい。上にある芝折行者塚は確認していないのですが、awa-otokoが考えた芝折行者塚はたぶんこの場所。(違ってたらすまぬ。)ちょうど一般の塚サイズの岩が乱立し、その中心に大きな岩(磐座)が構成されている場所です。

f:id:awa-otoko:20170821001947j:image(大きな岩に不動明王を刻んでるのわかる?)

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f:id:awa-otoko:20170821002255j:image(これな!: 不動明王がいつ刻まれたかは不明)

倶利伽羅坂を登った際に疲れただけかもしれませんが、現場へ着くなり独特な雰囲気にのまれてアタマがグラグラになりました。(磁場が乱れてる感じかな。)詰めの甘いawa-otokoですから、空海が刻んだとされる法華経の一字一石を調べてくるのを忘れてしまいました。一字でも確認できれば凄い発見ですよ~。(この業界、手柄が欲しい人で溢れてるみたいだからこのネタはくれてやるよ。)さぁ探せ探せ~。www(ちなみに一ノ森近辺にも経塚の森があるのでそちらも否めないのは秘密です。)

 

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あと、冒頭に挙げた剣を掲げた空海の石像。これ、awa-otokoは非常に重要サインだと考えています。龍光寺には剣を持った空海、剣を持った不動明王役行者(剣を携えていない。)がいたるところに配置されています。これ、ちょっとわざとらしい配置なんですよ。まあ剣山の広大な範囲の中からアークの所在や形跡を探すのよりは、よっぽど取り掛かりやすいのではないでしょうか。

龍光寺は四国は四十八か所の総元(ゼロ番札所?)と云われております。この剣山から本来の四国八十八か所の意味を導き出せれば。。。面白いですよね。という訳でちょっとお話は逸れましたが法華経一字一石の塚、ほんとに探してみる価値はあると思いますよ。それではまた~。

霊験あらたかなる徹玄法師のお墓

どうも。あっという間にお盆も過ぎ去ってしまいました。阿波踊りは参加しましたか?ご先祖様のお墓参りはきちんと済ませましたか? ということで、今回はお墓参り繋がりから神山町上分に伝わる霊験あらたかな偉いお坊さんのお墓を紹介したいと思います。

些か強引な展開からですが進めます。(笑)

名西郡神山町上分赤木の国道439号線沿いにとてもとても気になる看板があります。(以前からめちゃめちゃ気になってました。)

f:id:awa-otoko:20170816170855j:image(➡︎徹玄法師 参道の看板ね。)
その場所は樹が覆い茂って薄暗く、道幅も狭くなる場所なので自動車で通ると見落としがちな看板だと思います。その看板からすぐ上に登って周辺に目を凝らせば部分的に石畳を敷いた参道らしき山道が確認できます。

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その参道をトコトコと歩き300㍍程登った場所に徹玄法師御夫妻の墓があります。

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徹玄法師は高根山 悲願寺の住職を務め、地元の門屋の高音寺(今は無い: 門屋公会堂跡)という庵でも住職を務めたそうです。(高音寺:こうね寺とも読めますね。高根山(こうねやま)悲願寺で住職を従事していたことと関係あるのでしょうか。。。)

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徹玄法師の生存中は慈悲深く、餅をついて貧乏人に与えたりして住民からはとても尊敬されていたと伝わります。また急に歯が痛み出した時などは徹玄法師にお願いすればすぐさまに痛みを止めてくれたり、さまざまな病や各部の痛みを癒す能力を備えていたとのことです。このように法力に秀でた法師でありながらその能力を人々の救済に惜しまなかった徳の高い御人だったと伝承されています。

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現在でも町内近在の人々は、子供のない人は子供を授けて下さるように、病気平癒等色々な願いを込めて徹玄法師の墓に参拝する人が絶えないようです。法師が生前とても好きだったお酒が沢山墓前に供えられているのがその証拠ですね。

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毎年十月十三日、在所の人が徹玄法師の墓までの道の整備にあたっているとのことです。

徹玄法師の伝承に興味ある方、癒しの法力の御利益に触れたい方はお参りに行かれてはいかがでしょうか。

土佐国一宮ト阿波國一宮ハ夫妻之御神ナル可シ。

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都佐國造モ粟國造ノ如ク女祖神ニ仕へ奉ル欤亦ハ都佐㘴神社ニ並ヒテ溝杭姫命之御社モ在ル可キニ未タ聞カズ同郡朝倉神社ニ后神天津羽羽神鎮リ㘴スヲ見レハ都佐國造ハ 味鉏高彦根神后神天津羽羽神夫妻 ニ神ヨリ出タル系也(天津羽羽神 三嶋溝杭姫命共ニ味鉏高彦根神之后神也。都佐國造ノ女祖神ハ羽羽神ニ㘴スヲ溝杭姫命モ同后神故ニ混シ誤リテ國造本記ニ溝杭命孫ト決テ出タル事也)

土佐に行ってまいりました。今回は土佐国一ノ宮 土佐神社、二ノ宮の朝倉神社のご紹介です。

f:id:awa-otoko:20170807222546j:image土佐神社

f:id:awa-otoko:20170807222635j:image(朝倉神社)

土佐神社は味鉏高彦根神、朝倉神社は天津羽羽神が祭祀されています。この二柱の神は夫婦神であり、阿波國に伝わる積羽八重事代主神と大宜都比売神の夫婦と同一神と考えられています。下記にある内容、これは大宜都比売命の裔である粟國造家(粟飯原家)の記録に残されているものです。

粟國造 都佐國造ハ同祖粟凡直長直モ基本一系ナリシヲ、属地ニ依テ粟凡直ニ分レテ異姓ヲ称スルナル可(べ)シ。天津羽羽神 阿波女神 同神(ニ)當(リ)阿波國十郡中麻植美馬三好等ノ三郡ヲ除キ残ル七郡ヨリ土佐國ヲカケテ皆本来人種ハ此神之氏人ナリ。八倉比賣大神ノ當國第一尊ク㘴ス事ヲ知ル可シ。土佐國一宮阿波国一宮ハ夫妻之御神也。

その昔、阿波国の一ノ宮だった天石門別八倉比賣神社。その祭神を八倉比賣命(大宜都比売命:天津羽羽神)とし、土佐神社の味鉏高彦根神は夫とされていた。その二柱の子孫が粟國造と土佐國造になったということですね。

それでは土佐神社から。

土左の郡。郡家の西のかた去(ゆ)くこと四里に土左の高賀茂の大社(おほやしろ)あり。その神の名(みな)を一言主の尊(みこと)とせり。その祖(みおや)は詳かにあらず。一説(あるつたへ)に曰はく、大穴六道の尊(おほあなむちのみこと)の子、味鉏高彦根の尊なりといふ。 『釈日本紀』所引『土佐国風土記逸文より

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んー、味鉏高彦根神なのか、一言主神なのか… 事代主は摂社に追いやられているし… 土佐神社の祭神については今後の課題としておきます。。。(awa-otokoは味鉏高彦根神が事代主という役職を担っていたのではないかと考えています。)

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f:id:awa-otoko:20170808061026j:image(摂社の3社(左から)事代主神社・西御前社・大国主神社)

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f:id:awa-otoko:20170808061325j:image厳島神社

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f:id:awa-otoko:20170808061526j:image(神明宮)

参考になるかどうかはわかりませんが、土佐神社では8月24日・25日に行われる例祭として行われる「志那禰祭」があります。これは「土佐三大祭」の1つに数えられ、古くは旧暦7月3日に行われていたそうです。

「しなね」の語源は、風神の「シナツヒコ(級長津彦神/志那都比古神)」に基づくとする説、新稲祭(新嘗祭)の「新稲」の転訛とする説など諸説がある。志那禰祭は天平宝字3年(759年)に始まるといい、別名を「御船遊び」といって古代には鳴無神社(須崎市浦ノ内東分)まで御座船で海上神幸を行なったとされる。この海上神幸の存在から、土佐神社が古くは水上交通を掌握していたとする説もある。しかし海難や赤木山(現・青龍寺)の山犬に襲われることがあったので、五台山北麓に御旅所(現・土佐神社離宮:小一宮)を建ててそこまでの船渡御と変わったという。その渡御も、明治13年(1880年)に建てられた現在の一本松御旅所までの徒歩神幸と改まり、現在に至っている。(Wikipediaより)

やはり摂社をみても、土佐神社阿波国と同じようにいろいろな神が合わさって原初のものがわからなくなっているようですね。

awa-otokoが土佐神社を参拝して感じた印象は、屈強で武骨なモノノフのような男神を中心に小さい女神達が取り囲んでいる。そんな雰囲気の境内でした。

次に朝倉神社。

土左の郡。朝倉の郷あり。郷の中に社あり。神の名は天津羽々の神なり。天の石帆別(いはほわけ)の神、今の天の石門別(いはとわけ)の神の子なり。釈日本紀』所引『土佐国風土記逸文より

天津羽羽神は天石門別の神の子とあります。これは天の岩戸を開けた手力男命の子である大宜都比売命と同じですね。

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創建は不詳。朝倉神社に関しては古くから「日本書紀」の斉明天皇西征伝説に比定する説も存在します。日本書紀斉明天皇7年(661年)条によれば、天皇百済救援のため難波宮を出て西征し、伊予熟田津、娜大津を経て朝倉橘広庭宮に移ったといい、朝倉宮の造営には「朝倉社」の木を使用したといいます。(伊予から阿波にひっぱってきて西照(西のアマテラスになったかならないかは不明。)

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そして朝倉神社後背の赤鬼山(あかぎやま)の木を切って山麓に営んだのが、その朝倉宮であるとしており、天皇の死後、赤鬼山の神である天津羽羽神を祀る社殿に天皇の霊を合祀したと伝える説も存在します。

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以上の伝説の真偽は明らかではないとしながらも、朝倉神社後背の赤鬼山は神の籠もる山(神奈備)として古代祭祀の信仰対象であったと考えられています。(朝倉は麻の倉。赤木山は麻城山の転訛か?)

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赤鬼山の中腹からは弥生時代中期の土器が発見されているほか、南麓には古墳時代後期の朝倉古墳があり、朝倉神社の存在はこの赤鬼山を中心に成長した豪族に対比されるのであります。

朝倉神社は物静かな境内ですが、本殿裏にまわればちょっとピリピリした厳しい雰囲気が漂っていました。(向かって右に稲荷がいるから?)神殿側壁の絵柄も美しく、土佐国地母神となっている天津羽羽神の物静かながら威厳があるイメージにぴったりな神社でした。

という訳で、土佐國造一族と粟國造一族は同族… かどうかは参拝しただけではわかる筈もなく、awa-otokoの中では可能性としてはあるということで留まっています。ただ、積羽八重事代主神大宜都比売命(を祖とする一族)は阿波国だけでは収まらずに四国一円、さらには全国津々浦々に神名を変えながらも往き来していたということは間違いありません。

また、この土佐国を代表するニ社だけの内容では解明できませんので他の土佐国古社を含めて検証する必要があります。今回は土佐国の文献を調査していないので踏み込んだ内容はありませんでしたが、土佐と阿波には古代からの深い深い繋がりはあります。それが浮き出てこないのは伝承された神名に罠がかけられているから。。。

今後の調査に期待!!(別の人の調査でな。)それでは。

友内山は高千穂神山

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友内大権現は旧郷社であり神饌幣帛料供社。創建年代不詳。友内山一名木綿麻山の頂上の近く、阿波忌部の祖神 天日鷲命を祀り古くから山岳信仰の対象とされてきた。中世には阿波守護小笠原氏や細川氏の崇敬社となり、藩政時代は友内大権現と称した。のちに友落神社と称して貞光川筋の一宇・端山・貞光三カ町村を代表する神社として明治八年郷社に列せられた。

f:id:awa-otoko:20170730001903j:image貞光町 友内神社)

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社名の友落に因んで徴兵避け祈願が盛んとなったことで、当時微兵執行官の美馬郡町の命令により明治二十三年 友内神社の旧称に改称した。徴兵避けの神が軍神に転化して日露戦争や太平洋戦争には武運長久を祈る参拝者が後を絶たなかったという。聞くところによると当山のほとんどが神社の境内地といわれている。

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はい。もともとは木綿麻山(ゆうまやま)であった友内山(ともおつやま)。「ゆうま」を「友内」とあてたので、「ともうち」と呼ばれ、これが「ともおち:友落」となり、「友内」に落ちついたのです。(よって友内山と書いても呼び名は「ともおちやま(ともおっつぁん)」。)

さて、前置きを説明したところで、当記事をせっかく閲覧して頂いているので興味深い内容をひとつ挙げてみましょう。

友内山こと木綿麻山は、その昔「高千穂神山」とも呼ばれていたそうなんです。

f:id:awa-otoko:20170730003317j:image(友内山山頂の奥社 高千穂神社

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これにより山頂の祠(友内神社の奥社)は高千穂神社と呼ばれています。その社を山麓に降ろしたのが現在の友内神社です。なので「友内神社=高千穂神社と考えても何の問題もありません。(「友内山=高千穂神山」も然り。)


さらにあのぐーたら氏が、友内山の真北に位置する児宮神社を天児屋命の降臨の地であると「阿波の忌部」や「神道五部書」より考証しております。

 ぐーたら気延日記(重箱の隅): 備忘録:つるぎ町貞光「児宮神社」

f:id:awa-otoko:20170730002842j:imageawa-otokoも以前、児宮神社に参拝してました。)

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ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(1)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(2)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(3)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(4)

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(5)END

ぐーたら気延日記(重箱の隅): 麻植の系譜(追記)

(今回のぐーたら氏の考証にある藤原氏に忌部の血を入れた内容を確認して、これまでの考え方を改めないといけないと感じました。)

 

それでは友内神社の話に戻しますね。

驚くことに友内神社の鳥居前には通説では考えられない建造物が存在していたのです。

それは…

 

どんっ!「藤原家代々霊神」。

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本来、天日鷲命主祭神として祭祀されていた友内神社に忌部氏系ではなく、藤原氏が祀られているのが意味不明となるところ。しかし、ぐーたら氏の麻植氏の記事、児宮の記事にある背景を当てはめれば、すんなり納得できるのではないでしょうか。

 

総括すると、、、

「美馬(端山)には天児屋命」、「麻植(山崎)には天日鷲命」の二神が降臨した。それぞれ二神は忌部神として一括りにされたまま現在に至っている。(それ故、「忌部神社社地騒動」が勃発したと言える。)

 

また、今回の投稿内容について神名は違いますが、かの大杉博氏が提唱した以下の説がございます。(昔はこれを見て心を踊らせたものです。)

f:id:awa-otoko:20170730010741j:image(友内山 山頂付近にある看板:ここにも高千穂神山とあります。)

 

友内山は「三里四方の霊地」の中心的な山で、木綿麻山・宮内山・木綿内山・忌部山・連台山などと呼ばれた。この山が「古事記」や「日本書紀」に書かれている本当の高千穂山であり、剣山(高天原の中心)を出発したニニギノミコトは、葦原中国を目指して峰伝いに降りて来られ、友内山(高千穂山)へ到着された。更にニニギノミコトは膂宍の空国(梶山峠付近)を通って中の宮へ至り、御崎神社の所に本宮を造られた。また、ニニギノミコトの子 ヒコホホデノミコトは川見に高千穂宮を造られたという。

この説のニニギノミコトの部分を天児屋命を当てはめてみれば、ぐーたら氏の考証、それに乗ったawa-otoko友内山(高千穂神山)に天児屋命降臨説も信憑性を増すのではないでしょうか。なんかいいとこ取りしているようで胸が苦しくなってきた。

 

最期に。

神道五部書でも相殿で祭祀されている天児屋命天日鷲命。このニ神はどこから来たか?

上の大杉説の内容と今迄awa-otokoが提唱していた内容を思い出して下さい。(今迄ブレていた忌部大神宮の所在地がやっと固まりました。)

 

それは剣山にある!!

f:id:awa-otoko:20170730082515j:image(剣山本宮宝蔵石神社)

f:id:awa-otoko:20170730082703j:image(剣山大剣神社)

天児屋命天日鷲命が坐した原初の忌部大神宮こそ「剣山本宮(もしくは大剣神社)」。(剣山の麓、木屋平の「コヤ」も天児屋命の「コヤ」である可能性… )

そしてその剣山で祭祀され続けているのが「剣山大権現」こと「素戔嗚命」… まだまだこのストーリーは壮大になりそうです。(つづく。)

☆★☆剣山山頂大祭だぜ★☆★

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その昔は女人禁制の掟が固く守られていた剣山。錫杖や法螺貝を持つ先達に連れられた白衣の講組が六根清浄を唱えながら山崎から種野峠・燧峠を越えて二泊三日で登山していました。現在は穴吹・貞光からふもとまでのバスの便があり、夏季には貞光から見ノ越まで登山バスの便でリフトを利用すれば駅から三時間ほどで頂上に登ることが可能です。

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さて、そんな剣山ですが来たる明日7月23日山頂大祭が開催されます。今年は良い天候にも恵まれそうで参加する方も多いと思われます。という訳で今回も剣山にまつわる(ベタな!)伝承を紹介したいと思います。

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木屋平に残されている伝承として塔の岩に安徳帝が御剣を奉納し、天下平定を御祈願あそばされたと云われるものがあります。大剣神社の後ろに聳える塔の岩は、その昔鋭い剣のごとく天空を刺すような形状をしていたそうです。そもそもこの塔の岩が当山の御神体だったと云われているのは有名ですよね。

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八〇〇年の昔、安徳帝は塔の岩に御剣を奉納すると長い時間お祈りを捧げられたといいます。もちろん当時は祠や社もなかったはずなので岩の裂け目、もしくはくぼみにお供えしたのでしょう。古書には「雨や風にさらされても少しも錆びない霊剣であった。」と記載されていることから、埋めたものでもなく、また建物を建ててお納めしたものでもなさそうですね。

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後ほどに祠を建て、その中にお祀りしたということですが(これが大剣神社の前身になるものでしょう。)、江戸時代末期に不心得者が奉納していた御剣を盗み取ったことがあったそうです。ところが、その盗人は夜な夜な奇怪なできごとに悩まされ恐ろしくなった盗人は御剣を返却したということです。しかし、これを期に御剣の所在はわからなくなってしまったのでした。

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御剣は盗難が再び行われないようにとても警戒しながら厳重に保管しているようです。関係者が御剣の所在を明言、記録することなく、しかるべき場所に保管したようです。

御剣はそのまま大剣神社に保管しているのか、過去記事にも書いたように円福寺が所有するのか、それとも◯◯◯に置いているのかは今なおわかりません。(剣山大祭では御神体である御剣を直接人の身にああてて邪気を祓う「御神剣加持」を行って貰えますが、錦の布に覆われているため中身はわかりません。)(地福寺に保管してあるとされる御剣は門外不出、閲覧さえも禁止。過去に学習雑誌に掲載されたことが一度だけあるという。)

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その他には祖谷に逃れた平家の落人が再起を期して馬術の訓練をした平家の馬場。その前には平家の軍用金埋蔵場所の目印とされていると伝えられる宝蔵石があります。

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ご存知宝蔵石の真下にはステンレスの鳥居で有名な宝蔵石神社が鎮座しています。大祭の神輿渡御にはこの大祭のために宝蔵石神社に上げてこられた御神体を神輿に収納し、急坂を駆け上がり、平家の馬場から山頂までを途中で神事を行いながら練り歩くのです。まさにこれは「平家の軍資金(もしくは皆が大好きな◯◯ク)」を剣山に持ち運んだ様子を模して神事と絡ませているようにしか見えないのは私だけではないでしょう。そんな八〇〇年(もしくは太古の昔)からの貴重な行事に参加しない手はございません。

 

最後に… 

大祭に関係ないですが宝蔵神社で購入できるオススメのアイテムがございます。(祝詞じゃねぇっすよ。)◯◯の◯の◯◯で◯◯られた「◯◯◯◯」です。

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社務所で扱うアイテムの中では少々お高い価格設定ですが、なかなか良いものだと思います。在庫も限りがあると思われますので、何であるのかがわかったうえで興味がある方、もしくはそういうの好きだわ。という人は購入してみてはいかがでしょうか。(ちなみにawa-otokoは宝蔵石神社関係者と繋がりは一切ありません。上記◯◯◯◯のオススメは社務所営利に寄与する目的ではざいませんのでそこんとこよろしく。)個人的にはあまり言いたくない情報だったのでモザイクかけてるくらいですから。。。

剣山山頂大祭の参加、御神剣加持、秘密のアイテム。この三つをクリアーすれば、一年間は御利益あること間違いなし!?

あと、この大祭の◯◯◯を見ていれば御剣、もしくは平家の軍資金(もしくは◯◯ク)の場所のヒントが隠されているかもしれませんよ。

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それでは大祭に参加する人も参加しない人も、剣山の神からの御利益がありますように。See you soon. ( ´θ`)ノ