awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

三好長治自刃の地、今 長原と呼ばるるなり。

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三好長治(みよし・ながはる)1553~1577

三好一族。三好義賢の子。十河存保の実兄。幼名は千鶴丸。通称は彦次郎。阿波守。阿波国勝瑞城主。母は阿波守護・細川持隆のもと側室で、大形殿とも小少将とも呼ばれた女性である。母母三好義賢と深い仲になり、天文22年(1553)に持隆が義賢に討たれたのちに義賢の妻となった。このため、長治は持隆の遺児・細川真之の異父同母弟という続柄である。
永禄5年(1562)3月、父・義賢の死によって家督を相続した。永禄7年(1564)に畿内統治の実権を握っていた三好氏惣領・三好長慶が没したのち、求心力の低下を憂えた三好三人衆松永久秀らは権力の復活を企図する将軍・足利義輝の排除を画策。三人衆らが義輝を殺害(室町御所の戦い)したのちの永禄9年(1566)、傀儡の将軍を立てるべく家宰の篠原長房の補佐を受けて足利義栄を奉じて上洛し、摂津国富田普門寺に入る。この義栄は永禄11年(1568)2月に将軍位に就くが、同年9月に病死。加えて尾張国織田信長が義輝の弟・義昭を奉じて入京したとの報を得ると、本貫地の阿波国に逃げた。
義賢の死後、母は篠原一族の篠原自遁との醜聞が阿波国に喧伝されていたが、それを長房より諌められた自遁の讒言を受けた長治は長房と反目するようになり、天正元年(1573)5月、異父兄の細川真之と共に長房を阿波国上桜で討った。
しかし阿波国を実質的に統治していた長房を誅殺したことで領国経営は安定を欠き、天正3年(1575)9月には長宗我部元親の侵攻を受けて海部城を奪われ、天正5年(1577)2月には大西城(別称を池田城)をも落とされた。
この間の天正4年(1576)には不仲となった細川真之が長宗我部氏に降り、その真之と天正5年3月に阿波国荒田野で戦って敗れ、別宮浦にて自害した。25歳。 

今回は三好長治についてです。昔から因縁、因果応報という言葉がありますが、これに沿う三好長治の伝承話をひとつ。おっと、、、その前に三好家因縁の始まりを語らなければいけません。三好長治という武将、複雑な因縁が絡まった生い立ちだったのです。

其の昔足利尊氏卿より細川頼春(阿波の細川家の祖なり、又今の肥後細川の祖)四国の管領職とす、其の後、文和の頃、京師四条大宮にて楠家と戦て敗死す、依て阿州板野郡萩原村高照院に帰葬る、今に其の石碑あり、其の子孫相続して同郡勝瑞村の館に住し給ひ、阿讃淡三州を旗下とせり、細川讃岐守持隆の時に至り、家臣三好筑前守入道海運の二男豊前守義賢(長慶の弟)権勢盛なりしに、持隆折節勝瑞の北なる龍音寺に入り給ひしに、細川殿に恨ありとて三好は上郡表の枝族等を催し、多勢にて不意に攻討ちしかば、持隆為方なく自殺し給ふ、時に天文二十一子年八月なり。
然るに持隆の側室小少将殿と云ふ京上﨟の腹に男子一人出生し(後に細川掃部頭直之と云、幼名六郎)勝瑞に住し給ひしを美婦なりければ、豊前守後には是を取て己が室とす、然れども主君を殺したる天罰を恐れしにや、豊前守は二十七歳にて法躰し実休と称す、此の小少将の腹に三好長治、同存保を誕生す、其の後年を経て泉州久米田の戦は未だ始まらざるに、大将実休陣取し牀机に掛り居たりしに、流矢来て実休の胸板を射通され死す、細川殿を殺せし十一年後なり(久米田陣は永禄五年三月也)是より前実休の弟安宅摂津守 夢中に細川殿の仇を報夢と見しとなり、是は重恩の君を殺したるには天罰の遅かりしなり…

これより幾年か過ぎ、青年に成長した三好長治は、主君筋で異父兄である細川掃部頭殿を退け、勝瑞の館と称して自らが細川家の跡を継いでいた。

f:id:awa-otoko:20170603214242j:image(長原 豊岡神社)

天正四年子の春、板野郡笹木野で鷹狩りをしていた長治は獲物が少なくとても苛立っていた。東の川向い茅原 (現在の松茂町長原)へ渡りたいが、近くに舟はなし。そんな時川向いに舟と農夫を見つけ、長治はその農夫に舟とともにこちらへ来いと呼び掛けさせた。しかし、距離が離れていたため農夫は殿の狩り障りがあると呼び掛けられたものと推し、草の中へ身を隠してしまった。これに長治は大いに怒り、侍に川を泳ぎ渡らせ舟を持ち寄らせ、長治自ら向かいの地に渡り、先ほど身を隠した農夫の探索を命じたのである。

多勢に無勢。農夫は呆気なく捕縛。恐怖のために震えながら「殿の狩りにお目障りになるやと思い、その場を掃けた次第でございます。」と、そやの理由を伝えたが、大いに怒る長治の心に届かず、近侍二名に農夫の両手を引き張らせ、自らの脇差しを抜いて農夫を大袈裟に斬り殺したのである。

f:id:awa-otoko:20170603215111j:image(長治自刃の地にある南無阿弥陀仏と彫られ石碑)

f:id:awa-otoko:20170603215353j:image(石碑裏)

 

その翌年 天正五年丑の春、長治は異父兄の掃部頭殿を陥れるため、秘密裏に勝瑞の館を出て仁宇谷へ向かっていた。長治の隙を窺って謀反を画策していた一宮長門守成祐(長治の叔母婿)と、伊沢越前守が長治の背後より攻めるという情報を入手した長治の軍勢は混乱して散り散りになってしまった。落ち残った近侍と長治は、渭山(現在の城山)まで引き帰り、淡路の安宅氏に匿って貰うことを計画する。土佐泊 森志摩守へ助任川まで舟を手配するように依頼した。

運悪く手配された舟は助任川に入るところを間違えて佐古川に入ってしまった。長治は是非なく陸行にて鳴門撫養まで赴く計画に練り直し、笹木野の東の洲を落ちていった。この時、舟衆の密告もあり、一宮と伊沢の大軍が押し寄せ、近士の姫田、佐渡、浜、隠岐は長治を護って討死した。農民の家で隠れていた長治であったが最早これまでと自害を決行したのである。長治はこのとき、辞世の句を残している。

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みよし野の 梢の雪と散る花を とや 人のいふらむ」。(三好長治:みよし ながはるの名を句に含めた粋な辞世の句である。死際にこんな余裕があれば逃げとおせたのではないかと考えるのは私だけか?!)

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奇しくも、この前年 天正四年三月廿八日は長治自らが脇差しを抜いて農夫を斬り殺している。翌天正五年の同月同日に同じ場所、農夫を斬り殺した脇差しで自らの腹を切ることになるとは、誰が予測できたであろうか。これを因縁と言わずして何と言うべきか。

長原の中程より北の松原の中に小さな祠を建てられ今も自害した長治の霊を慰めている。

それ故、長治(ながはる)自刃の地は、長原(ながはら)と呼ばれるようになったと云う。

ぜんぜん跡形ないぞ⁉︎ 阿波國國司廳趾‼︎(とその秘密)

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はい。今回は阿波国司庁跡の紹介です。題名にありますように、まったくもって国司庁跡とはわかりません。跡地はひと昔前から、一面田んぼに変わってしまっているからなのです。

f:id:awa-otoko:20170601194206j:image(これな。)

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f:id:awa-otoko:20170601194714j:image国司庁跡に鎮座する天満宮

そんな阿波国司庁跡。現在では国府町や府中(こう)という地名が残り、国司庁跡近くの観音寺境内に鎮座する阿波国総社がその存在を物語っているだけとなってしまっています。

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総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(= 合祀)神社のことである。総社宮、総神社、総社神社などとも呼ばれることがある。多くは令制国の範囲で集めたものを指すが、荘園や郡・郷・村などの地域内のものを集めたものもある。祭神の合祀だけでなく、神社そのものの統合である場合もある。日本の律令制において、国司着任後の最初の仕事は赴任した令制国内の定められた神社を順に巡って参拝することであったが、平安時代になって国府の近くに総社を設け、そこを詣でることで巡回を省くことが制度化されたものである。(wikipediaより)

そんな史跡としては地味な阿波国府跡ですが、実はまだまだ隠された秘密があるんです。まぁ急がず、秘密を知る前に阿波国司庁跡の情報を古い文献から調べてみましょう。

第三十六代孝徳の朝國政の大改革を行ひ給ひ、國造を廃して國司を置き、一國を數郡に分ち郡を小別して郷と為し各長あり、國の体面一變するに至れり、此時我か阿波國は上古の粟長の二國合して國名を阿波と更め、國司廳を國府に置き、國司は四年毎に京都より交代し来りて治む。

其著しき者は山田古嗣の處々に池溝(三好郡古池、阿波郡浦ノ池)を掘り旱魃の患を除き、菅原道真の祖父清公(名西郡に所領地あり今の天神是なり)の仁政を施したる等なり。

f:id:awa-otoko:20170601211224j:image(三好郡古池)

阿波志に云「國司廳は府中村にあり其扯田となる、又御所の池の址草茫々たるも村民敢て鋤犂を加へず」延喜式に云「阿波國上國和名抄云阿波國國府、在名東郡、本是名方郡也、行程上九日、下五日海路十一日」と往年府中村字城ノ内御所ノ池(國司廳の趾)にて建築物の礎石たりし煉石を發見したりと稱するも、未だ確定せざる者の如し。

f:id:awa-otoko:20170601211307j:image(国庫の鍵が納められていた大御和神社)

読みにくいですが内容は面白いことを書いていますね。(実際これらの内容で、ブログをアップしている訳ですけども。。。)では、後にとっておいた阿波国司庁跡の秘密ですね。(はい、はい、おぼえてますよ。( ´Д`)y━・~~)

それではawa-otokoがズバリ秘密を明かしましょう。

 

阿波国司庁跡は、、、

ヤマトタケルの皇子 息長田別皇子の居住地だった場所。なのです。

 

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息長田別皇子を祭祀した国府殿ノ神社

人皇十二代景行天皇の御子日本武尊其御子息長別命 阿波君に成給ふ 今の府中村の地を国府として住給と国営を執行し給ふ 長田別命住給ふなるが故に長田郡と云又𨍭め名方郡と書く 和名抄延喜式等名方郡と出後に別れて名東名西二郡と成 長田別命の社中村に在 国府殿神社是也

(過去にフェイスブックブログページで紹介済みなので、知っている人はいると思いますが。)

 

現在、国府町中村に鎮座する天満神社は、本来は息長田別皇子を祭祀する国府殿神社だったようです。いつの時代に変えられたのかは資料がなく、わかっていません。

長田皇子は阿波の君(あわのきみ)に就任してから当地の近くに海城(あまぎ)を造り、その峯続きの気延山に阿波国一宮(現 天石門別八倉比賣神社)をも遷座させて阿波の国営にあたりました。まさに国府殿(阿波の君)の神社が当地に存在していたのです。

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阿波古代史関係では、近くの大御和神社や天石門別八倉比賣神社とかがメジャーで、阿波国司庁はスルーしがちなんですが、awa-otokoはこの阿波國司廳趾こそ大穴なのではないかと考えている訳です。それは長田別皇子を追えば… ○○が解るからです。(○○は秘密です。(〃ω〃) )

 

この秘密についてはおいおい出していきますね。それではまた。ヽ(・∀・)

劔の山 不動明王スサノヲ伝説

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剣山の明神は、木屋平の龍光寺と祖谷の圓福寺両別當の相持ちにて社も大剣小剣の二に分れたり。村人は此神を安徳天皇の御剣なりと云傳ふれど、正しくは忌部神なるべし。さて此剣山の祭禮に山村の女子が白粉をよろほひて、其の上に紅を以つて額又頬に十の字を書く、これは未だ婚せざる標とす。又神事にあつかる婦女は、す字を書く。上古よりの習俗なるべし。其故を知らず。

まだまだ謎が多い剣山。山津波が発生する以前は表参道であった垢離取より藤の池 龍光寺に続く剣山の古道を登山してきました。今回は阿波名勝案内に記された内容に沿って説明したいと思います。

阿波第一の峻嶺にして海抜六千四百五十二尺あり、本郡木屋平及び美馬郡東祖谷山両村に跨る、山嶺剣祠あり素戔嗚命を祀り四方篤信の徒少なからず、日本の名山霊區として人口に瞺炙す、山麓木屋平龍光寺(當山本寺)より登らむには、木屋平川に沿うて進むべく、五十餘町にして一の行場あり鬼淵と云ふ

f:id:awa-otoko:20170530231909j:image木屋平川沿い、川上に鎮座する妙見神社

f:id:awa-otoko:20170530232047j:image(行場であった魔鬼淵。槙渕神社)

岩石峨々として樹木蕃生す、岩下に深淵あり不動明王を安置す猶登ること十八町にして漸やく山脚に達す、垢離取川あり長さ十五間の鞘穚を架す、岩上に不動の尊像あり瀬登り不動と云ふ、また役の行者の像あり、之より十八町の坂路殊に嶮峻を極め樹木また蓊鬱たり久利伽羅坂と云ふ

f:id:awa-otoko:20170530232428j:image(垢離取川 元禊場)

f:id:awa-otoko:20170530232512j:image(垢離取橋)

f:id:awa-otoko:20170530232838j:image(垢離橋下)

f:id:awa-otoko:20170530233043j:image(瀬上り不動尊。役の行者尊像は流されて現在は無し)

柴折行者経塚等あり、大師自ら築きし處の法華経一字一石の塚なりと傳ふ、猶二町を登りて一の原あり案内休場と云ふ、爰所にて参詣人を揃へ本山を拝す、これより五町にして藤の池に達す古りたる木立の中宏壯なる堂宇あり剣山の前神は是なり、昔安徳帝行在の砌陣営に用ひ給ひし事あり故に藤の池陣屋とも云ふなりと、参詣者必ず此に宿す

f:id:awa-otoko:20170530233402j:image(藤の池 龍光寺:陣屋)

f:id:awa-otoko:20170530233637j:image(龍光寺正面)

f:id:awa-otoko:20170530233756j:image(龍光寺側面)

f:id:awa-otoko:20170530233537j:image(剱山本宮剱神社富士ノ池本社)

これより熊笹の生茂れる嶮道一里餘を上りて一の森に達し、更に半里を登つて二の森を超え平家の馬場に達す、平斜の地見渡す限り根笹一面に生茂り恰 も青氈を布けるが如く、之よりお花畠に達するまでの間に立てる樹木は、烈風のために凡て其の半面枝なく奇観限り無し

f:id:awa-otoko:20170531082808j:image熊笹が生茂る登山道)

f:id:awa-otoko:20170530234240j:image(一の森頂上)

f:id:awa-otoko:20170530234326j:image(一の森神社:ヒュッテ横鎮座)

f:id:awa-otoko:20170530234426j:image(阿波名勝案内に云われる平家の馬場。だと思う。)

f:id:awa-otoko:20170530234527j:image(二の森神社)

お花畑は剣山の頂上にあり畸形の躑蠋を以て満たされ、春時花發するの時紅白の美花、根笹の間に点綴して其美言ふ可がらず、之を過れば巨石あり高さ五丈寶藏亭と曰ふ四望曠濶群峯下にあり培塿の如し

f:id:awa-otoko:20170530234704j:image(剣山頂上)

f:id:awa-otoko:20170530234801j:image(剣山本宮)

f:id:awa-otoko:20170530234837j:image(寶藏石)

f:id:awa-otoko:20170530234940j:image(寶藏亭から観る木屋平集落)

これより不動の獄、覗瀧、三十五社、蟻の徑、小剣神社、見合石刀掛松等を徑て剣神社に達す、乃ち仰いて神石の突兀として天空を摩するを見、伏して御敷水の混々として盡きざるを瞰めば、何物か天来の神秘下りて我に莅むあり

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f:id:awa-otoko:20170530235259j:image(不動の岩屋 不動明王

f:id:awa-otoko:20170530235419j:image(覗瀧:現在のお鎖場。たぶん。)

f:id:awa-otoko:20170530235536j:image(お鎖場)

f:id:awa-otoko:20170530235659j:image(行場 鶴の舞)

f:id:awa-otoko:20170530235810j:image(両劍神社)

f:id:awa-otoko:20170530235939j:image(両劍神社内)

f:id:awa-otoko:20170531000106j:image(両劍神社御神体前)

f:id:awa-otoko:20170531000212j:image(両劍神社御神体祭祀場)

f:id:awa-otoko:20170531000316j:image(三十五社)

f:id:awa-otoko:20170531000409j:image(刀掛けの松)

肅然として襟を正し懼然として惰容を改めしむ、傳へ云ふ神石其形に似たるを以つて山名に名くと、又曰祠中神刀を祀る因て名くと、この他氷の橋、苔の岩屋、安徳帝の遊戯し給ひしと云ふなるお花畑(前に記せるものと異り)西島の穴禅定等奇絶壮絶を極めざる無し

f:id:awa-otoko:20170531000932j:image(大劍神社)

f:id:awa-otoko:20170531000711j:image(神石正面)

f:id:awa-otoko:20170531000630j:image(御敷水:御神水

f:id:awa-otoko:20170531001033j:image(神石側面)

小剣祠は數十丈の巨巌の下にあり、巌上嶮崚久しく立つ可からずと雖も眺望曠潤にして山海の勝を一眸の下に蔟む、當山は春秋雪を戴くを以つて夏季ならでは登山に堪へず、毎年七月中旬を以て剣社は祭典、龍光寺は法會を執行す

 f:id:awa-otoko:20170531002800j:image(藤の池 龍光寺 不動明王像)

はい。頂上から麓まで表立ちしないように不動明王が中心として祭祀されているように感じます。忌部祭祀や安徳帝をはじめとする平家伝説も途中から入ってきたものと考えられ、やはり原初の剣山信仰は宝剣の神石から。そしてその根底には不動明王ことスサノヲ信仰があったと考えられます。

f:id:awa-otoko:20170531010838j:image(藤の池 龍光寺境内)

以前に投稿した剣山大権現縁起の内容と被りますが、聖徳太子行基菩薩、役の行者、空海など歴史上の大人物が剣山に登拝していることが何より神威が大きかったことが伺えます。

とりあえず既出の情報を説明しても面白くないので片道一時間半かけて表参道を駆け上がった古道の状況をみて貰いましょう。

f:id:awa-otoko:20170531004438j:image(参道の巨石)

f:id:awa-otoko:20170531004604j:image(一定間隔で石門(巨石)が設置)

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f:id:awa-otoko:20170531004314j:image(一の森近くの磐座群)

f:id:awa-otoko:20170531004343j:image(磐座群の中にある陰石)

藤の池 龍光寺から剣山頂上に続く昔の表参道は、古代の祭祀跡と考えられる場所が点在しており、awa-otokoが確認した状況では手付かずの場所がたくさんあるように見えました。古代神スサノヲ(不動明王)の祭祀を継承させた行基弘法大師、役の行者。それらの古代から脈々と受け継がれ、修験者や山伏が歩いてこの藤の池の表参道を歩いていたのです。逆に見の越から剣山頂上までの昔の裏参道はかなり人の手が入っており、昔の風景を偲ぶのは難しいかと思います。藤の池の表参道を歩くのにはちょっとした脚力が必要ですが、日本史において活躍した者達が登拝に利用したスサノヲ信仰の路をゆっくりと歩いてみるのも良いと思いますよ。

さて、これからはこの剣山に祭祀されていたスサノヲが、どの素戔嗚命だったのか。また別の御名について調べていきたいと考えています。(答えがないのはわかっているんですけどね。( ;∀;) )

鈴ヶ峰に空海が祀ったのは本当に聖観音だったのか?

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f:id:awa-otoko:20170513195130j:image聖観音像が見つかった岩屋)

阿波の南、海部郡宍喰町鈴ヶ峰円通寺の観音様伝説はご存知でしょうか。

慶安三年の頃、櫛川村(旧川西村大字櫛川、鈴ヶ峰北側ふもと)に五良兵衛という猟師がいた。毎日各所の山を駆け巡って獲物を狩る腕利きの猟師として名を知られた男だった。ある夜に鈴ヶ峰に登り、西敷居の奥でイノシシのヌタ待ちをしていたが、待てどくらせど一向にイノシシが出てくる気配がない。諦めて帰り支度を取り掛かったとき、西の方角からけたたましい犬の鳴き声が聞こえた。どうもイノシシを追う鳴き声とは様子が違う。五良兵衛は違和感をおぼえ、声の方へ密林をかき分けて登ると犬の鳴き声と交じって鈴の鳴る音が聞こえた。さては錯覚かと耳をすますとリン、リン、リンと確かに鈴を鳴らす音が聞こえたのであった。鈴の音に引き寄せられるままに進むと、薄暗い岩屋の中に七寸八分、聖観音の金銅像が鎮座していた。どこからともなく、「我、海神のみ子なり。蒼海より湧き出で、深山に菩薩となりて化現す。我、この峰に齋き祀らば、鬼畜の済度、善願如意の成就疑いなく、長く浦人達を守護とせん。夢疑うなかれ。」と聞こえた。五良兵衛はあまりのありがたさに信心肝に銘じ、髪を剃って仏門に入り、法妙と号した。そこたまたま性公という旅僧が現れ、諸所方々を勧化して三間四面の堂宇を建立した。長年に渡り荒廃していた弘法大師の開山にかかる円通寺は、性公上人と、五良兵衛改め法妙上人の努力により再建され、鈴ヶ峰の観音堂として今に伝わっている。

f:id:awa-otoko:20170513195647j:image(岩屋内部)

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縁起によれば鈴ヶ峰 円通寺弘法大師 空海の開山であり、海抜三百㍍の険しい山で要害の地でした。長曾我部元親の阿波侵攻の際にも幾たびか戦場となり、弘法大師開山後、霊場も戦禍のために被壊の運命にあい、五百余年に至る歳月を本尊 聖観音だけが岩屋に残っていたものと解されています。

f:id:awa-otoko:20170513200032j:image円通寺跡)

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円通寺には檀家はなく宍喰はもとより海南、海部、土佐などにも信徒を持った鈴ヶ峰の観音さんとして知られているのです。毎年旧正月十八日が縁日ですが、旧七月九日の四万八千日には一晩のお参りで四万八千日参拝した御利益が得られるとされ、善男善女は夕方から十八丁の坂道を汗だくでお参りしたというのも昔の話。現在ではまたも円通寺は荒廃を尽くす限りであります。しかし、円通寺跡からさらに登ると鈴ヶ峰の頂上に到達し、そこから眺める太平洋と島々は格別なものがあります。

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なんとも麓の日本三大祇園である宍喰 八坂神社もこの鈴ヶ峰にもともと鎮座していたということ。そして空海の足跡。伝承ではありますが聖観音像自身が「我、海神のみこなり。」とか五良兵衛に伝えているんですよね。限りなく怪しいです。

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さぁ、当地では「スサノオ」と「海神のみこ」。岩屋内部では「不動明王」とかあったのに何故、実際に祀られていたのは聖観音なんですかねぇ。。。観音=神宮皇后? 不動明王=スサノオ=応神天皇???どういう関係性があるのかさらに書きたい部分はありますが、こちらの詳細はまたいずれの機会に。ではでは。ヽ(*´∀`)

木地師と修験者の聖地

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一宇村の中心である古見から片川谷沿いに林道を進めば木地師の集落 木地屋に行き着く。海抜800から1000㍍の急斜面を耕す住民、その先祖は昔盆や椀の木器をつくる木地師であった。半田漆器の材料を製造していたが、大正時代の末に半田塗りがすがたを消すと和傘や轆轤つくり、農業に転向していった。それでも時代の移り変わりには逆らえず、出稼ぎや集落を出ていく者は少なくなかった。

木地師の祖先は約千年前の文徳天皇の第一皇子である惟喬親王と言い伝えられている。滋賀県愛知川の上流小椋谷で仏法修行の傍、人々に轆轤の使用法を教え、技術を習得した者は全国の関所の自由通行と、山の七合目以上の自由伐採の特権を与えられて各地に散らばりったという。阿波の木地屋に居住していた住民の殆どは小椋姓であったという。

さて、木地屋に行き着くとこんな山深い場所にこんなに手入れされた神社があるのかと驚きます。石堂神社です。

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石堂神社は木地屋から白滝山の稜線を伝いながら一時間程歩けば到達する石堂山を神を祀ったもので、石堂山を崇める者達の入山口となっています。昔から休憩場所や避難場所などに利用されていたのではないでしょうか。

f:id:awa-otoko:20170511232306j:image(御塔石)

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石堂山は修験者達が度々訪れて祭祀したと伝わる御塔石が有名。そして大工小屋石と呼ばれる内部が石室になった大岩(磐座)もあります。

f:id:awa-otoko:20170511232916j:image(大工小屋石)

f:id:awa-otoko:20170511233203j:image(内部)

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半田町 石堂神社

ところで半田町にも石堂神社があるのですが、半田町鎮座の石堂神社は木地屋に鎮座する石堂神社の祭祀(神)を、後世に平野に近い場所へと降ろしたものだと考えています。後世といっても半田町 石堂神社は天神七代・地神七代を祭神とし、由緒は千年を遡るもと伝承されているので、これ以上の深い歴史がある石堂山、木地屋の石堂神社はとても興味深い研究材料なのです。

f:id:awa-otoko:20170511233455j:image(半田町 石堂神社)

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木地師の里に鎮座する石堂神社は木地屋という地名から木地師所縁の場であり、そして修験道の信仰の地でもあることは前に記しました。普通に考えても木地師と修験者という歩き筋に共通する場所ということが分かります。

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技術や特権を持ち一定の場所で居住せず、各地の山々を転々としていた人達は、忍者・隠密のような諜報活動を担っていたのではないでしょうか。

吉野朝時代には南朝・吉野との連絡を密使が修験者の姿に変え、髻(もとどり)に密書を隠し運んだ「髻の綸旨」は有名ですが当地も南朝方山岳武士の密使が行き来した場所であるのはまず間違いありません。

f:id:awa-otoko:20170511233833j:image高千穂神社

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当地のこうした文化や祭祀形態が半田町の石堂神社まで降り、高千穂神社や参道入口の日光神社という天照大御神を連想させるものに変化していったと考えれば、本家 石堂山 石堂神社はとんでもない面白いルーツがあったのではないかと考えられるのです。

当地は木地師、修験者、吉野朝時代に活躍した阿波山岳武士の伝承しか残されていませんが、周囲の峰々は劔山に繋がり、古代の人々が何らの影響を与えた場所であることは間違いありません。また登っていろいろ調べてみたい思わせられる石堂山と石堂神社でした。