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awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

灰燼に帰した童学寺(本尊以外の伝承物はどうなった!?)

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2017年3月25日午後5時30分頃、庫裏(住居兼台所)が火元とみられる火災が発生した。本堂及び庫裏などの建物が全焼したが御本尊の木造薬師如来像は運び出されて無事だった。

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はい。火災の記憶が新しい童学寺でございます。あの火災からどうなっているのか気になって状況を確認してまいりました。その前に過去記事をどうぞ。

童学寺の寺伝によれば、弘法大師ゆかりの寺として有名ですが、そもそも弘法大師が生きた時代よりさらに前に存在した寺なのだそうです。中国から仏教が伝来した時代、"律の寺"として唐招提寺と同じころ建設されたと伝わります。

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その伝承について裏書きするかの如く、寺に隣接する「石井廃寺跡」は奈良白鳳時代の様式であり、そこから出土した古瓦などの考古資料はその時代のものと判断されています。

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また、童学寺に遺存された文化財は本堂に藤原時代に製作された薬師如来像、その脇侍とされる日光菩薩像、持国天多聞天の像などが存在していたそうです。さらにはこれらの仏像よりさらに時代が遡るとされる阿弥陀如来も存在していたそうです。

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このように阿波における藤原時代の仏像の宝庫だったのが童学寺なのです。そしてこれら現存していた文化財から考えられるのは、石井廃寺が藤原時代まで続いた後、童学寺がそれらを引き継いだということなんです。 

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さて、、、皆さまがご存知の通り童学寺は火災で全焼したということなのですが、上記に記載した文化財の全てが救済されたとは報道されておりません。(本尊のみ持ち出しで救済されたそうですが… )また、火災の原因も詳しくは報道されてなくて、awa-otokoは釈然としないというか、なぜか胸中にモヤモヤが残っているのですね。(釈然としない部分は心中に隠しておきますけど。。。)

この部分を確認したくて現地に確認しに行ったのですが、本堂周辺は立ち入り禁止でロープを張られて確認することが出来ませんでした。(立ち入り禁止区域に進入して撮影するとか不謹慎なことはしてませんよ。)しかし、こんな状況でも寺の催事は行っているようでしたし、寄付の瓦なんかもあったり、大型観光バスなんか来て参拝客を運んでいるのですね。まずは復興することが先決なのでしょうが、先にすることがあるのではないのか?とか考えてしまうのは私だけなのでしょうか。

ともあれ、文化財や引き継がれたものが無事であることを祈るのみです。なんせ阿波国 白鳳時代からの宝庫なのですからね。ん〜、何だかなぁ。書いてて後味悪いわぁ。。。まだまだ書きたいけど、ここらで止めておきます。 (-_-) …。

神が去った阿波を統治した氏族

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はい。Facebookのブログ投稿にてちょっとだけ告知したモザイク半分の謎の書。それは阿波国古城諸将記」でございました。こちら元亀四年に記されたもので題名の通りに阿波の古城とそれを治めた城主を説明している書なんですね。

阿波国開主太玉命也 忌部主祖也 櫛明玉命也 天村雲命也(伊勢神主上神ナリ)此二神阿波麻植ニ鎮座ス 後東国ニ移住(安房国忌部社是也)其後武内宿禰領阿波云云

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前書きの前書き。これを見て後の記録を確認してくださいという重要な説明です。当書では阿波国の祖神を天太玉命とし、天村雲命・櫛明玉命の忌部神が他国へ移動してからは武内宿禰が阿波を治めたと記録しています。Facebookではここまで出しましたがモザイクを外したものを用意したので続きを解読してみましょう。

神武天皇から八代目にあたる孝元天皇の後胤、武内宿禰仁徳天皇の御代まで生き(三百十六歳)、高良大明神となられた。

もちろん人間がそんな長生きする訳はなく、武内宿禰の名を同族が世襲していったという解釈でよろしいとかと思います。

さらに武内宿禰の後胤、阿波真人広純は天智天皇の御宇の人。その十二代孫 阿波助国風は朱雀天皇の人。そして阿波助国風の子が桜間文治行直。さらに行直の十代孫には桜間外記太夫良連。良連は跡取りに恵まれなかったために甥の良遠を養子に迎える。その人が桜間助良遠。

ややこしいけどついてきて下さいね… 

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良遠の兄には阿波民部太夫成良。成良の子、成直(一説には教能)。そこからの系譜も脈々と続いて桜間助良遠の後胤が宗家となり後醍醐天皇の御宇までを記録されている。

成良の記録からは田口姓を名乗ったのは誤伝で本来は粟田姓であったと云われています。桜間の名は地名を採用したものでしょう。この成良から千波足尼との関わりを見いだしたかったのですが残念ながらこの書では関連付けすることができませんでした。

書には小笠原氏、細川氏の説明が続きますが、明らかに前書きの主軸は武内宿禰の後胤であるように感じます。当書の前書きからは武士が力をつけてくる平安時代末期までは阿波は武内宿禰の系譜を中心に統治されたようです。そして鎌倉、南北朝時代源平藤橘の系譜が入り混じって本格的に氏族同士で混迷を極めていったのではないでしょうか。

以下の頁から阿波の古城と城主の説明に移ります。前書きほどのインパクトはないですが、時折「おっ!」っと唸る内容が記載されてい箇所も含まれています。

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この頁からは各城と城主の知行、出身氏族の説明が記載されています。全体的に源氏(小笠原・三好・甲斐源氏含む)が多いのは平氏の落人狩り、監視を目的で阿波に入ってきた武将の系譜が多かったのだと考えます。やはり何かと有利だったのは源氏の血筋であり、勢力拡大に向けて系譜仮冒した武将が多かったのではなかったかと考えます。

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一宮氏は三千貫の知行。かなり飛び出してます!

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佐那河内城主は古代氏族 蘇我氏の系譜!

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終わりに。

当書には古代阿波で活躍した氏族が間違いなく含まれています。一つは一宮氏。この氏族は一般的に小笠原氏源氏の支流で説明されていますが、本来は大粟山で大宜都比売命を祭祀を継承してきた古代氏族でしょう。(粟国造粟凡直氏族に養子に入ったのが一宮氏。)

そして武内宿禰の系譜は田口氏。武内宿禰の後胤は桂浦(勝浦郡)に居城を構えていたことが有名ですが、実は大粟山 上一宮大明神は田口大明神として一時的に祭祀されていた時期もあります。また神山神領 長満寺付近は田口成良の居城でもありました。

今回テーマとして挙げた武内宿禰の系譜としての田口氏、そして以前から提唱している粟国造粟凡直・千波足尼から田口氏との繋がりを解明することで新しい見解が得られると確信しています。見通しの悪い案件ですがこれからも継続調査してみたいと思います。

阿波で相伝される宇豆売の舞

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鳴門の撫養(岡崎城)跡に鎮座する妙見神社に参拝した折、太々神楽を間近で見学することができました。今回は伝承を絡めながら紹介したいと思います。

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まずは鳴門妙見神社のご紹介から。

撫養に没した室町幕府10代将軍 足利義植が妙見尊星を勧請し社殿を造営したのが鳴門 妙見神社の起源とされています。

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その後には四宮加賀守が城を構えましたが天正十年に長曾我部元親に攻められ兵火にかかり敢えなく落城します。天正十三年には蜂須賀家政が阿波に入国し、当地に阿波九城とされる岡崎城を築きます。

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f:id:awa-otoko:20170406232727j:image(実は神社裏の石垣は築城時の石垣なのです。)

城番に益田内膳を置き守らせていましたが、寛永十五年、一国一城令により廃城となりました。後に城址に神社を鎮座させたのが現在の妙見神社なのです。

 

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さて、たまたま参拝した日が偶然にも太々神楽開催日でして、巫女さんにも「是非お入りください。」と誘われましたので間近で太々神楽を見学させていただいたのでございます。

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さて神楽、太々神楽とは何なんでしょう?
太々神楽は阿波の代表的な神楽であり、二月から四月にかけて徳島県東部を中心として多くの神社の春祭りに奉納されているそうです。

神楽
一般に、「かぐら」の語源は「神座」(かむくら・かみくら)が転じたとされる。神座は「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったとされる。古事記日本書紀の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。(Wikipediaより)

太々神楽は本来、伊勢神宮で行われた神楽をいい、神社の御師(おんし)たちが参拝者に代わって神楽を奏した「代神楽」の意味であると言われています。近世には御師たちが地方をまわって伊勢神宮のお祓いとし、御幣や御剣を振り悪魔退散・家内安全を祈願した祓の舞を「太神楽」と呼ばれました。徳島県下に伝承される太々神楽はこれらが起源になっているとされています。

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まず神前に大きな榊山を立てて、多くの金、銀の紙を榊の枝に結び、木綿(ゆう)、紙垂(しで)を懸けて、前に五色の御幣を立てます。神社総代や当屋が参列し、宮司大祓詞を奉上したあとに巫女が奏楽に合わせて榊山のまわりを舞ながら、銅(かね)拍子をすり合わせます。

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最初の舞は「宇豆売(うずめ)の舞」で、オカメの仮面をつけて宇豆売命に扮した巫女が大麻(おおぬさ)や鈴を鳴らして榊山を巡ります。この舞で神霊の発動を導きだすとされ、宮司祝詞をあげて祈念するのであります。

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次に「久米(くめ)舞」という御剣を曲芸風に振り回し、斬りはらう所作を繰り返し榊山を回る悪魔祓いの意味が強い舞が奉じられます。この「久米舞」では、実際に剣の刃を握って舞う「つかふり」という所作が存在するそうです。

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驚くことにこの所作を含めた神楽を奉仕できる巫女は徳島市内の宮崎、藤川の二家のみとされ、代々母娘伝承により貴重な神事芸能を守っています。太々神楽を奉納する神社が徳島県東部に集中しているのは限定された奉仕者との関係があるようです。

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残念ながら今回、久米舞は確認することができませでしたが、まだ春祭りが開催され太々神楽が奉納される神社があるかもしれません。そこで運が良ければ「久米舞」、「つかふり」が見学できるかもしれませんね。

という訳で、本来は伊勢神宮発祥とされている太々神楽ですが、阿波にこのような限定された神楽相伝家があることをみれば一概には伊勢神宮発祥とは言えなくなるのではないでしょうか。そもそも伊勢神宮の外宮は阿波から行ってますし… ね。(〃ω〃)

水都 徳島 : 渭水の役割

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徳島城はJR徳島駅の北側にあり、徳島市の中心部に位置する。吉野川河口付近の中洲に位置する標高61メートルの城山に築かれた山城と城山の周囲の平城からなる、連郭式の平山城である。
渭山城・寺島城
この地は鎌倉時代より伊予国地頭の河野氏が支配していた。室町時代の1385年(至徳2年)に細川頼之四国地方にあった南朝方の勢力を討ち、現在の城地の城山に小城を築いた。頼之は助任川の風光を中国の渭水に例え、この地を渭津、山を渭山と名付けたとされ、または富田庄(のちの徳島)の地頭として来任した河野通純が1272年(文永9年)に築いたともされる。渭山の名についても、西から見た姿がイノシシに似るため猪山と呼んだという説もある。『城跡記』は徳島城築城について「渭山寺島両城を合して一城となす」と記す。寺島城は平地にあった城で、文献は寺島の西端(現 郷土文化会館付近)とするが、発掘調査ではのちの花畑(現 市立体育館付近)の可能性が示唆される。
徳島城
戦国時代になると、阿波の地は群雄が割拠し、しばしば城主が入れ替わった。1582年(天正10年)には土佐国長宗我部元親が侵攻し阿波が平定された。1585年(天正13年)、豊臣秀吉四国征伐に勲功のあった蜂須賀家政蜂須賀正勝の子)が阿波1国18万6000石を賜った。入封当初は徳島市西部にあった一宮城に入城したが、入封早々に現在の地に大規模な平山城を築造し、翌年完成した。以後、江戸時代を通して徳島藩蜂須賀氏25万石の居城となり、明治維新を迎える。(Wikipediaより)

概要を書くのが面倒だったので冒頭から引用文をコピペしましたw(でも、大事なので引用文はきちんと読んでネ!!)

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さて、徳島市内で生活する方は皆んな知ってる徳島中央公園と城山。当地一帯は鎌倉時代に富田荘と呼ばれて桓武平氏を祖とする河野氏が支配していました。南北朝時代に入ると足利尊氏に仕えた細川頼之が治めて助任川と新町川の間の中洲上の小山であった当地に城を築きます。その後は細川氏の臣である森飛騨守高次が居城したと記録に残ります。

f:id:awa-otoko:20170401223649j:image(渭水見聞録をまとめた書だぜ☆)

f:id:awa-otoko:20170401223709j:image(この頁、中央より森飛騨守関係の文有り。)

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はい。出てきました。まずは森飛騨守から。

 切幡城・秋月城を治めた粟国造粟凡直氏族の森氏(秋月氏)は、一時期ですが渭水城(徳島城)にも居城していました。冨田庄を統治した水軍河野氏、そして後に阿波水軍となる森氏は、戦国時代に阿波国を治めた細川家・三好家の舟師として活躍した海の豪族でした。

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これらを考えても「渭水の城」は、徳島城を築城する以前から海に繋がる水路の要塞で海の豪族達の拠点だったことが明確で、「渭ノ山」に綿津見(海神)豊玉比賣命: 竜王祠が存在した理由はそこにあると考えています。 

猪山と呼ばれた城山本来の名とは「渭ノ山」でした。なぜなら「渭水」の流れこむ「渭ノ津」にある霊山だったからです。その内容を補強するものが、拙ブログに耳寄りなコメントを度々入れて戴いているEizo Iwasaさまの「渭水」についての情報発信でありました。

「渭水」とは本来、「鮎喰川」を指し、のちに徳島城下を流れる全ての川の総称となったのだそうです。下記に一部を引用させていただきます。

蜂須賀家政は、徳島の城下町を建設するに先立って、吉野川、鮎喰川、園瀬川の流路変更工事をした。鮎喰川は、本の名を「渭水」といって、かつては、この蓬庵堤を斜めに横切って、佐古川、田宮川、新町川、助任川、寺島川(徳島駅建設により消滅)につながって、直接、海にそそいでいたのである。「渭水」という名前をつけたのは、聖徳太子で、その人のお墓は、ここです、といって、タタリ谷常厳寺に案内された。(中略… )

おそらく、『阿波風土記』には、「鮎喰川、本名を渭水という」と書かれていたのだ。細川頼之も、風土記を読んで、渭水という言葉を使いはじめたのではないか?だけど、その出典を秘したので、細川頼之が命名したかのように誤解され、それが通説になってしまっているのですよ。『渭水聞見録』という徳島藩の史書がありますが、この本の著者、増田立軒も「渭水」とは徳島城下を流れるすべての川の総称であるという認識のもとに、その本のタイトルに「渭水」を使用していると思いますよ。(「ぐーたら気延日記」内「城山を大事にしよう」へのコメント再掲より一部抜粋)

このように佐那河内や神山まで八百万の神々が五穀の種を携えて遡上していた「渭水」の中洲である「渭津(いのつ)」。そこを拠点に選定した蜂須賀家政は、秀吉の許しを得て阿波国経営に乗り出します。

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家政の築城工事は城山上の本丸、二の丸、三の丸辺りの工事を手始めに、本丸を備えた山城と御殿が並ぶ山麓の平城で構成された城を築城。

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城郭と城下町の再構築では、北は吉野川、南は園瀬川を外郭とする大規模な城下町を形成しました。

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この徳島城下の再構成によって「渭水」の流れは大きく変化します。蓬庵堤造成や、支流を堀として流用したことで古代から最大に機能していた一宮・神山地区へ水路も変化したと言えるのです。

と、いう訳で長々と書いてしまいましたのでまとめますと、、、

「渭水」とはもともと「鮎喰川」であったが、「渭山城: 玉島」なる古代からの海人族(森氏など)の拠点地周辺の支流にも用いられた。そして綿津見(海神)豊玉比賣命だけではなく、渭水を利用し、船戸の神としての猿田彦大神大麻彦命)を板野郡、那珂郡遷座し、祭祀を移動させていったのも古代の海人族の流れをくむ森氏によるものではなかったかということなのです。

いもじ村の天目一箇命は治水技術も伝承させたのか?

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吉野川にかかる六条大橋北方の上流、高瀬潜水橋の近くに立派な神社が鎮座しています。天津彦根命御子神、天麻宇羅命(あまつまうらのみこと)、天之麻比止都禰命(あまのまひとつねのみこと)とも呼ばれ、天照皇大神が岩戸に隠れたときに刀斧・刀物・鉄鈬など造った鑄工祖神 天目一箇命(あめのひとつのみこと)を祭神とする天目一神社です。

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ここ天目一神社の周辺には古来から多くの鑄物師が生業として生活していました。名工と名高い六右衛門もこの地の人間ということです。

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いもじ村七右衛門知行場
阿部紋右衛門、多田三太夫、田村彌右衛門、東條清左衛門寛政九年十一月◇日御帳の為高瀬村へ御下渡に相成御座候、此地所は舊藩士宇野長治兵衛給地に相當其子孫村山安兵衛代中に被召上御蔵地と相成候、當地處明細は天目一神記録に在亦中輿の御吉例により、享和二戊年前形に倣ひ灯籠鑄直し奉献上、其砌鑄造人六右衛門への御嘉賞の御墨附奉頂戴、亦高瀬村の鑄造始めは天平年中との申傳、往古より鑄職業者天目一神社氏子本村に絶ず引続有之阿波國一圓最も第一農耕器の鍬の鋒鑄造営業者近時處々有之も天保年間迄は高瀬村の特産物に有之是即金物造りの祖神 天目一箇の御徳也。

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その他にもこのような伝承も残されています。

七十六代 近衛天皇の御宇仁平三年癸酉四月、御所の紫宸殿には毎夜となく化け物が現れて異様な鳴き声を発して人心を悩ますことが甚だしかった。帝から退治の命を受けた源三位頼政がこの化け物を射たとき、化け物が騒ぐ風で御殿の灯は殆ど消された。しかし天目一箇命を祖神と仰ぐ鑄物師が鋳造して奉献した灯篭の灯は消えなかったという。

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灯篭などを朝廷に度々献上し、畏くも数度に亘り御綸旨を拝受し、また、朝恩により鑄物師御許状をいただいたりしています。こうした由緒ある天目一神社を崇敬する鑄物師の村ということから、此処を鑄物師(いもじ)村と呼ばれて、高瀬鉾とその名を全国に知らしめていたのでありました。

はい。吉野町の神社をテーマにした投稿の際に少しだけ紹介しました天目一(あめいち)神社。引用にもあるように、かなり古い時代(天平年間以前)から天目一箇命を祖神とする鑄物師集落として全国的にも有名だったようです。

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また、この天目一神社には合祀された祠も境内石碑に記録されている内容をみると、天目一箇命主祭神とされているのは当たり前のことですが、火や金属を連想させる天目一箇命のほかに水の流れを意識させる蛭子神、船戸神が含まれているのがとても興味深い内容だと思います。(それより宮城神と金泉神ってどなた?國中神もいる。)

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鋳造に必要な材料、玉鋼を産みだすタタラ製鉄は六世紀以前に朝鮮から渡ってきたとされています。当社周辺の状況も調べてみると、製鉄技術・鋳造技術と一緒に牛頭天王も入ってきたのか、八坂社、天王社が鬼門方向へきれいに並んでいます。個人的には天目一神社を起点としてスサノオ牛頭天王)で鬼門封じが施されていることがとても気になっている状況です。

f:id:awa-otoko:20170330223204j:image(増水時には宮川内川と吉野川の水流が高志・高瀬に流れ込む)

スサノオの御神威によって霊的に高瀬・高志地域を護っている状況から、スサノオが高志のオロチ(吉野川の水流)を退治(治水)したことに繋げていいのかどうかはわかりませんが、神代より農耕機、武器等が生産された当地において天目一箇命が製鉄・鋳造技術と治水技術も同時に伝えた可能性があることは否定できないと考えます。

高瀬・高志地域の本当の産土神スサノオなのか、伝承通りのアメノマヒトツネ(天目一箇命)なのか、はたまた全く予想だにしない別の神なのか… 今は謎が深まっていくばかりです。こちらについてはまぁまぁ気になっているので高瀬・高志の周辺伝承や地名由来などをさらに広げてこの謎のヒントを探ってみたいと考えています。