awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

新田大明神の居城 八つ石城址

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阿波西部の山間奥地を開墾した者は地方豪族や源平合戦南北朝争乱、応仁の乱等の落武者などであったと推察されています。

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八つ石城はそれら山岳武士が立て籠もった城でありました。頂上の周囲を三段にきった横掘と攻撃軍が横に連絡できないように造られた縦掘が現在も残っていて、当時は掘の中に逆茂木が植えられていたと推測できます。

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祖谷の山を中心に篭った南朝方の武士は、ふだんは城の後方から尾根づたいに連絡、集落で農業を営んでいたようです。いざ戦いという時には婦女子をウバダマリに退避させて当地で陣を敷き、決死の戦いに臨んだのでしょう。

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さて、八つ石城の城主は誰でどのような戦いがあったのかは歴史の中に埋れて定かではありませんが、里人の伝承では新田義貞の弟 脇屋義助の長子である脇屋義治が城主であったと伝えられています。

楠木正成新田義貞の死によって南朝方の勢力は弱まっていた。四国の南朝方に加勢するため興国元年(1340)四月三日、脇屋義助(義貞の弟)が四国の大将として伊予へ遣わされた。
義貞の子義宗、義助の子義治ならびに弟義広も出羽国から伊予川之江城へ入った。ところが、義助は伊予へ入ってわずか二十日足らずで亡くなってしまった。これを知った北朝方の阿波守護細川頼春が阿波、讃岐、淡路の大軍を率いて池田の小笠原義盛を味方に引き入れ、川之江城を攻め滅ぼした。
天授元年(1375)のころ、脇屋義治は父義助が大将軍であった四国地方に向かい、父が伊予で病死した事を知ったので阿波の当地に潜入した。義治は三好市井内谷(いうちだに)の地福寺へ入り、祖谷の南朝方の助けを得ようとしたか、やがて祖谷の徳善治部、菅生大炊助(すげおいおおいのすけ)、西山民部、落合左衛門尉(おちあいさえもんのじょう)らと連絡がつき、自分は八石城を築いてここに籠った。そのうち菅生大炊助、西山民部が北朝に味方し、やがて八石城も落城。義治はかろうじて身一つで阿波郡日開谷山(あわごおりひがいだにやま)へ逃がれたという。義治は日開谷山に潜んでいたが、やがてここも危なくなり貞光の山中へ逃げ込んだという。
応永二十六年(1419)七月十四日没。菖蒲野(しょうぶの)へ葬むられたが、後に新田大明神と言い伝えられるようになった。

義治は山岳武士と力を合わせて八ツ石城を築き、最後まで南朝のために戦ったと伝えられている。八ツ石城は南北朝時代の山城で、河内の千早城を見倣った城ともいわれ、県下で最も代表的な山城跡なのである。

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このような義治城主説の真偽は明確にする方法はありません。ただ、三好郡を中心にして新田一族を祀った新田神社が三七社以上、墓所は数十個所残されており、その場所にはそれぞれ義宗、義治が来たと伝う口碑伝説が付随しているのであります。

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四国に入った事が正史に見えるのは、義治の父 脇屋義助のみでありますが、悲惨な末路を遂げた新田一族の霊を慰めるために宮方に属した山岳武士が、望みを託した脇屋義治こと新田大明神を奉祀し、伝承伝えたものであったのかもしれません。

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今回テーマに挙げた南北朝時代の阿波山岳武士の動向はひじょうに重要なもの。源氏と平家、北朝南朝の武士の動きは古代氏族の流れを汲んだ武士達の痕跡そのものであり、繰り広げた戦いや活動拠点はは城址、または神社として残されています。

多くの武将がそうであったように所縁がない場所に突然拠点を置いたりしません。新田氏は純潔な源氏の血を引いた氏族であり、小笠原源氏が池田・三好に拠点を置いたように新田氏も何らかの目的から阿波に入国した可能性が高かったのではないでしょうか。中世の武士達から古代氏族の流れを掴む。今後も進めていきたいと考えています。

 

オマケ

八つ石城には脇屋(新田)義治伝説のほかにも面白い伝説が残っています。それは犬神伝説です。

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この八つ石城は出城との連絡に犬を使っていました。本城では出城で飯をもらえ。出城では本城で飯をもらえ。ということで、この忠犬は両城の中間で死んでしまったといいます。現在は犬神様として祀られているらしいですが、これは八つ石城の苦闘を偲ばせる口碑であった可能性があります。平地が北朝、山地が南朝勢力範囲に入っていた状況から平地と山地との連絡方法を示していることが考えられるのです。

御諸(ごしょ)の大墓宮と吹越大明神の謎

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現存する處の一條五條七條の村名は、御所を設くるにつき京都の御所に倣ひて一條より七條まで定めし者の残れる傳なり。一條五條七條は大墓宮と傳ふ。

Facebookにて独り言として掲載した文ですが、実は続きがありました。「御所屋敷の南方にあり大墓宮は土御門天皇の御陵なりと傳ふ。」という続きが。

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御所屋敷は御所村大字吉田にあり、御所神社は其の屋敷内に鎮座す。口碑傳ふる處によれば御所屋敷は土御門天皇行在所の遺址にして、當時天皇土佐より阿波国に還幸あり神御所に入らせられし風聞北條氏の耳に入り討手を差向けたれば、天皇は一旦宮河内谷に逃入り給ひしも、御運拙くして御生害あらせられしなりと云ひ、到る處古跡を存し又古文書を蔵するもの少なからず。されど宮河内谷に於て自殺せしは土御門天皇に非ずして、阿波在廳藤原師光第四子、紀成良の遂ふ所となり、宮河内谷に於て自殺したるを、後世誤り傳へて天皇と爲すに至りしなりとの説もあり。

はい。awa-otokoは以前も書いたように当地において土御門上皇が自殺したなどとは考えておりません。西光(藤原師光)の四男 広永が宮河内谷にて紀成良(田口成良)に追い詰められて遂に自殺した伝承の方がしっくりくると感じています。 

そして御所屋敷の南方に存在していた大墓宮。こちらも土御門上皇の遺址として伝承されていますが、「吹越天王」の「天王」が「土御門天皇」の「天皇」と混同されてしまったのではないのかと考えています。

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岩利大閑氏の 『道は阿波より始まる』 (その一) に記された一文を確認してみてください。

日靈女命により近代化された米作に加え、須佐之男命によって初めて鉄の生産が伝えられ、急速に阿波国は発展していきました。須佐之男命は大倭の真神原では阿波神社岡山県玉野地方では八浜の快神社、諸国では八坂神社、祇園神社等で祀られますが、阿波一国のみで熔造皇(ヨウゾウノスメラ)神社と称されています。また伊太乃(いたの)郡 御諸(ごしょ)地方では、吹越(ふっこう)大明神とも称します…

御諸 大墓宮に対して吉野〜上板の一條、五條、七條の地名はひじょうに深い関係があるとのこと。当地周辺は、「続日本記」神護景雲元年3月(767)の条では、板野・名方・阿波等3郡の凡費を称する人々が、改めて粟凡直を名乗るように陳情して認められていたり、「三代実録」貞観4年9月の条「阿波国従五位下行明法博士粟冗直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」と記録が残ります。ご存知、粟国造粟凡直氏が幅を利かせていた地域なのです。

そして近頃あちこちで聞くようになった「田上郷戸籍」。こちらにも粟氏・凡直氏・粟凡直氏が圧倒的多数を占め、忌部や物部の古代有力氏族や、服部・錦部・秦・主村・漢人等の帰化系の氏族名が多数記載されております。

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これらの内容から、当地御諸地方より板野地方にかけては古代より複雑な人口構成だったことがわかりますね。

今回は何を言いたいかと申しますと、御諸の地 吹越大明神や大墓宮は土御門上皇の遺址ではなく、何かの古代氏族の祖神の祭祀場所、または大王級の宮跡や陵墓が存在したのではないかということなのです。

ともかく古代からの多様な氏族構成により複雑に入り混じった伝承・信仰から当地の伝承は混同されてしまっているのです。

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土御門上皇伝承も大きなヒントには違いありませんが、なぜ当地に吹越大明神(スサノオ)が古墳を御神体として崇拝されてきたのか?(椎ヶ丸古墳ことね。)

御諸山と吹越大明神を背後に控えた「大墓宮」とは本来誰の陵墓であったのかを調べる必要がありそうです。(飛蔵山 蔵王権現も関係してるかも。)

吹越大明神に雨乞い祈願を行っている記録が多いので、治水の神としての側面も持ち合わせている可能性もあり、調査の延長線上にヤマタノオロチ(高志の遠呂智な。)を退治したスサノオが誰なのかがわかるかも⁈ などの大きな企みを抱きながらいろいろ調べております。

ということで結論もでませんし、ウィークディなんでこのへんでおしまいにしたいと思います。こちらについては大きなヒントが出てきたらまた書きますので気を長〜くしてお待ちくださいませ。(=゚ω゚)ノ

秋月氏は粟国造粟凡直の一族

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秋月村光勝院址の西方にあり。細川頼春の築く處にして季子詮春これに居る、後勝端に移るに及び秋月中務太夫居住せり。

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秋月城(あきづきじょう)は、室町時代阿波国阿波郡秋月庄(現在の徳島県阿波市土成町秋月)にあった日本の城。阿波市指定史跡とされている。建武の新政により小笠原氏(後の三好氏)に代って阿波国守護となって入国した細川和氏・頼春兄弟が、当地の土豪の秋月氏の受け入りにより築いた守護居館をもとに1336年築城された。管領となった頼之の弟で阿波細川家の祖となった詮春の代の1363年に守護居城は勝瑞城に移り、その後は秋月氏が居城した。天正7年(1579年)、長宗我部元親によって攻められ落城、廃城となった。(Wikipediaより)

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はい。秋月城址でございます。秋月城は秋月庄(荘)に入った細川和氏らにより造られたと考えられています。

秋月庄は本来粟国造粟凡直氏の流れをくむ秋月氏の居住地域であり、荘園開発の際にも秋月氏が領主であったとされています。(こちらは「熊野権現と阿波」で詳しく。) 

月氏は細川兄弟(和氏・頼春)が入ってくる際に居住場所を譲ったされています。功績があった細川和氏は足利尊氏の推挙によって建武の新政で阿波守に任ぜられました。同時に任ぜられた勲功の賞として秋月荘を尊氏から譲られたそうです。

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さて、現地に赴いてみますとやけに森本氏のお墓と石碑が目に入ってきます。細川氏が直轄した秋月の地に森本氏?初見の人は意味がわからなくなる部分ですね。

土成字秋月の森本家の先祖は、秋月3千貫の城主森飛騨守である。系図によれば元祖は源氏の新羅三郎である。室町時代、細川和氏が四国管領として秋月城に来てからは、その重臣として仕え、細川氏が勝瑞城に移ってからは、切幡城主であった森飛騨守が秋月城主も兼ねて、勝瑞城におもむいて忠勤に励んでいた。やがて三好氏の世となり、土佐の長宗我部氏の阿波攻略がはじまる天正7年(1579)、土佐方に服従した岩倉城主三好徳太郎の謀略にあって、矢野国枝、三好越後守、河村佐馬亮等と共に脇城外におびきよせられ、飛騨守は猪尻の竹やぶの中で殺害された。市場町八幡の八幡神社には、岩倉出陣の時の「旗懸松」という伝承がある。
その後、飛騨守の子伝八郎が長じて森本飛騨守を名乗り、弟の門左衛門が森門左衛門として蜂須賀に250石扶持で仕えた。現在、秋月城跡には古い五輪塔と共に飛騨守の業績を刻んだ石碑が建てられている。(阿波学会研究紀要: 森本義之尉氏談)

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はい。という訳で冒頭の引用文にある「秋月中務太夫」とは、森飛騨守のことを指していることがわかりましたね。(なぜ秋月氏と森氏と分けているのか理由はわかりません。)秋月城の西隣りの切幡城主の森飛騨守が細川氏が勝端に移動したあと、空いていた秋月城を支城として使用していたのです。。。


さていい感じで核心に迫る勢い進めましたが、このまま続けるとまだまだ補足が必要で長くなるので一旦終わりにしたいと思います。

最後に大事な内容を記載しておきますね。

・秋月氏は粟国造粟凡直一族であった。
・秋月氏から森飛騨守(森氏)を名乗ったのは粟国造粟凡直氏と小笠原源氏の融合がキッカケだった。(と思う。)

・森飛騨守(秋月氏)と同名別族 森志摩守(阿波水軍)は繋がりがあった?(と思う。たぶん同族!!)

阿波の歴史に詳しい人はちょっと気になる事が出てきたのではないでしょうか。。。

おっと長くなってはいけない=333 それではこのへんでさよなら。(=゚ω゚)ノ 

吉野五条祠は土成高尾 熊野の元社

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永禄元年(一五五八)に大旱魃が起り、七条城城主 七条兼忠が宮川内谷で雨乞いをした。ところがこの地域の宮川内谷川流域は年々水害が甚だしいために兼忠は五条城主 高志下野守、西条城主 西条監物と相談し、五条神社を土成村高尾の熊野神社遷座した。その後に五条村民が相談の上で元和二年(一六一六)紀州熊野神社速玉男命(速玉男)を奉還し、社号を田中神社とした。明治四三年無格社一二社を合併して五条神社と改称したのである。

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はい。吉野村編の第三弾目‼︎ 珍しく連続掲載しております。今回は五条神社でございます。

引用にある五条神社とは同地に構えていた五条城の鎮守祠、その五条城主が昔から祭祀していた祠のことでしょう。

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五条城については「高志下野守、姓源称小笠原又有右近、蓋其族也、其裔居五条(板野郡誌)」との記載が残されております。名西郡の一宮氏から分れた一党が高志氏を称し、応永年間に五条城に居城したとされます。

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この内容から五条城主の出自は小笠原源氏の流れをくむ一宮氏と判断することができます。一宮氏は粟国造粟凡直氏から大宜都比売命を阿波女神として祭祀する祭官家として成り代わったとともに、武家としては一宮城の鎮守として大麻彦神も祭祀していたことがわかっています。

その他には、高倉下が神武天皇に霊剣 布都御魂をもたらした伝承が残る土成 熊野権現に五条神社を遷座したのか… 奇しくも高志には天目一神社が残されており天目一箇神に付随して製鉄・鍛治の伝承が残されています。(高倉下: たかくらじ と 高志: たかし に接点が発見できれば… )

一宮氏による祭祀の秘密、そして古事記日本書紀の内容と阿波国との関わりは、阿波町吉野町、上板町の吉野川沿岸部(いまいち掴みきれない謎の地域‼︎ )にもヒントが隠されているのかもしれませんね。当地での土御門上皇と七条兼忠の動きも何らかの意図があったように思います。

ちょっと大きな事を書き過ぎてしまいましたか… もう少し調べてみても良さそうです。(゚∀゚)

デジャブで勧請かよ⁉︎ 鳩の原八幡宮‼︎

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承平四年(九三四)、阿波国国司になった藤原国風が巡視する際に八幡大神の御前で白鳩が群れ遊んでいる夢をみたという。当地までやってくると夢と同じ光景が眼前に繰り広げられてひじょうに驚き、都より岩清水八幡大神の御分霊を奉迎し、二百歩四面を画して神域とし、神殿を建立して鳩の原八幡宮と称した。次いで治承元年(一一七七)桜間民部大輔が平清盛の命を奉じて藤原西光の一族を討たんと当地に宿営した節、出火により荘厳な社殿が焼失してしまった。その後、土御門上皇が当地に御座し給うときに御再建があり、応仁二年(一四六八)に細川氏が祭田を寄付して当国十社の中の一社とした。以来、社殿の旧朽も甚しく、文政元年(一八一八)の地震で破壊されたが後に再建した。

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はい。それでは進めていきましょう。

前回同様、吉野町の鳩の原八幡神社です。定かではないですが藤原国風が勧請したとのことです。土御門上皇説もありますが個人的には国風説を推したいです。
さて、平安時代阿波国司に就任した件の藤原国風(阿波介国風)とは、元慶年中の阿波介で藤原純友の乱の時、府中を焼かれて一次的に淡路に逃れたが、小野好古等の応援を得て純友を討った人物であります。また、その阿波介国風は武内宿禰の裔だったのであります。

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以前に投稿した阿波国廃城考に「武内宿禰後胤 阿波眞人廣純是より十二代 阿波介国風」と記載されてます。武内宿禰の系譜によることからスムーズに八幡大神を勧請が可能だったのでしょう。いや、むしろ逆で阿波から行ったのかもしれませんね。(これは考証できる資料がないので邪推としますが… 苦笑)

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あと、こちらも武内宿禰の系譜だとされている桜間民部大輔。民部大輔が鳩の原八幡宮を焼失させた際も往時の阿波国トップが自前で再建している意味深な神社が当社なんです。

いやいゃ、、、それにしても祖先建立の神社を焼失させたらあかんやろ=3 と思いますが、藤原西光に対し揺動として仕掛けた可能性も考えられ、これは神山にはさらに歴史が深い辰ノ宮:宇佐八幡が存在した故の対処だったのかもしれないと考えています。

という訳で鳩の原八幡神社とは??

その八幡大神とは??

 

田口氏が神山と石井桜間(あと勝浦町)の地域を統括していたことから、水上ルートだった吉野川沿岸部の当地に関係していない訳がありません。さらに遡れば粟国造粟凡直が板野郡を拠点としていた理由もそこに答えがあるのかも…


そしてここだけの話、、、

応神天皇神功皇后武内宿禰は、、、天日鷲命大宜都比売命大麻彦命猿田彦命)を投影しているのではないかと考えました。(小さく薄く掲載しときます。。。)

いつもこの三神に集約する結論パターンでひじょうに申し訳ないですが、(別にアマテラス、スサノオツクヨミの三神比定でもいいんです…(p_-) イイカゲン… )マヂでこちらも考えていますので、並行して八幡大神を調査していきたいと思いまーす。とりあえず鳩の原八幡宮。チェックですよ。(゚∀゚)☆