awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

百済王の末裔 飯尾の城

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ご無沙汰してます。久しぶりの投稿です。いろいろ投稿したい内容はあるのですが、ブログ作成に気乗りせず現在に至っております。更新を楽しみにしている方はお待たせしました。(いるのか?そんな変人w)
さて今回は(リハビリを兼ねて 笑w)さらっと古城関係をお教えしたいと思います。まずマニアでなければ通り過ぎてしまう場所、鴨島町飯尾小学校の近く、旧道沿いの飯尾城趾です。

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飯尾城は建武3年・延元元年(1336年)飯尾隼人佑吉連によって築かれたと云われる鴨島町の古城です。

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飯尾城主であった飯尾氏は、百済王を先祖とする鎌倉幕府の初代問注所執事の三善康信(1140-1221)の末裔を称し、阿波細川・三好氏の国主時代に重臣として代々仕えてきた有力な武将でした。

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なお、桃山時代には岡田氏が知行地を取り仕切り、飯尾氏は蜂須賀入国後から妻方の姓・石原氏を名乗りました。上の写真にあるように、ちょっと奇行ともとれる祭祀回数を記した石碑に、石原氏の名が記されていますねw(何のためにこんな石碑が必要だったんでしょうか?)

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現在飯尾城跡には飯尾神社が鎮座していて、かつては鎧を埋めたと伝える鎧塚がその脇にあったそうです。 鎧塚は百度石の奥にありましたが、子孫が掘り返して現存していないとのこと。塚からは何も出なかったということです。(あー、鎧塚跡の写真撮影忘れてたー。)

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まぁちょっと調べれば上記の内容は何かと掘り出すことが可能で、何も注目すべきことは無い普通の内容ですよね。拙ブログをいつも閲覧してくれるマニア⁈ に発信するとすれば、当地は◯◯大宮司家の直轄地のすぐ隣に位置した場所で、様々な繋がりが存在します。(いろいろありますけど今回はパス)

あと最後にこれを出せば必ず喜ぶ方を知ってますので出しておきますね。(Gさん、場所わからないならまた教えますよ。) f:id:awa-otoko:20170304232429j:image

それではまた気が向いたら更新しまーす。(*´∇`*)

もう一つの羽落神社伝説(戦国時代編):東条関兵衛 栗栖の城

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前回投稿した羽落神社のスピンオフになります。古代史関係から外れて戦国時代のお話になりますので、興味がない方はスルーしましょうwww

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桑野駅の東方、小高い丘に羽落神社の飛地境内社として杉尾神社が鎮座しています。当地は万福寺(奥之院)跡であり、往時は本尊として木塚明神、東条関之兵衛(とうじょうかんべぇ)の像を祭祀していたそうです。

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また、明治三十九年には成田不動尊の分霊を勧請して市を開き、不動尊市として多くの参拝で賑わっていたそうです。当地に万福寺が建立される以前は桑野城が築城され付近を統治していました。別名栗栖(くりす)城。(現在は遺構は残されていない。)


今から四百年の昔、甲斐武田氏の流れをくむ東条信綱は甲斐守を名乗り、天文年間に来住して桑野を領していました。信綱の跡を継いだ東条関之兵衛は「武道つよき者」と云われ、五ヶ村を領し巧く里を統治していたようです。

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f:id:awa-otoko:20170219225742j:image(本丸跡に繋がる路はかなりの急勾配)
天正の時、長曾我部元親は阿波侵攻の際に栗栖城を攻めましたが簡単には落ちず、元親は和睦に持ち込みます。自らの娘と東条関之兵衛の婚姻関係を結ぶことで剛の者、関兵衛を味方に誘い込んだのです。

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同族となった関之兵衛は富岡の新開氏、木津の篠原氏を攻撃します。また、三好氏との中富川の戦いにも武功を収めました。後に木津城に移りましたが豊臣の四国征伐の際には潔く木津城を明け渡して栗栖城に戻りました。関之兵衛自身は土佐国幡多郡に移りましたが利用価値がなくなったことが理由なのか元親に殺されてしまいます。木津城明け渡しの際に羽柴勢を土佐に誘導した責任とも、関之兵衛の異心があったからとも伝えられています。

f:id:awa-otoko:20170219225904j:image(左右の石門が残る山道)

f:id:awa-otoko:20170219225919j:image(石垣跡?!)

資料では遺構なしとありましたが、城址の山中を散策してみるといろいろ見つけました。やはり古代の城を中世に拡大して利用している城が多いですね。城主であった東条一族は甲斐国に縁故があるとのことで、これは清和源氏新羅三郎義光を祖とするものであり、海正八幡神社新羅三郎伝承に繋がるのではないでしょうか。

阿波で活躍した中世氏族から遡り、天皇家に繋がる源平藤橘の動向を調査するのも面白いですね。時間が許せばこのような視点からも並行して調査してみようと思っています。

それでは今回はこのへんで締めます。ネムタイノデ… ( ´_ゝ`)

忘却の山幸海幸伝説(海幸彦は天牟良雲命編)

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羽落神社 主祭神 天牟良雲命
創立年月不詳。阿波国の開拓祖神として御功績顕著なるに依り、古くより鳥取大権現と尊び参り、寿命守護神悪魔除の神様と信仰四方に聚め御神徳御霊験は厚く、県内は勿論県外より参客あり。燈明千番を献り日夜絶えない。「寛保帳」に「桑野村 帳鳥権現 別当桑野村、万福寺」と。また「阿波志」に「蝶鳥杉尾二祠浦内に在り」とある。(以下略…)

どうも。今回は羽落神社です。

主祭神はなんと天牟良雲命(あめのむらくも)なんです。天村雲命といえば射立神として山川町鎮座の式内天村雲神社が有名です。多次元同時存在、別名同神の法則に当てはめますと、山幸彦(こと彦火火出見尊)を大己貴命に置き換えれば、父神にあたる邇邇芸命素戔嗚命となります。そうすれば海幸彦は異母兄弟の天村雲命に当てはめることが可能となります。(ちなみに思いつきで素戔嗚尊邇邇芸命にあてたのではなく、羽落神社の摂社に八坂祠が存在することも理由のひとつ。)

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それだけでは苦しいので天牟良雲命を祀る羽落神社(鳥取大権現)と絡ませながら、かなり強引な個人的見解で進めさせて貰おうと思います。笑笑笑。

天牟良雲命は太玉串を捧持し、邇邇芸命に従って天降った神とされ、天孫降臨の際に葦原中国の水がいまだ純ではないことを高天原へ上って伝えた。天照大神から授けられた天忍石長井之水を八杯玉鋺に入れ、食国に降りて邇邇芸命に奉告した。この時、天牟羅雲命に天二上命(あめのふたのぼりのみこと)、後小橋命と二つの別名を授けた。天牟良雲命は「新撰姓氏録」に明日名門命三世孫、額田部宿禰の祖と記されている。

かなり中身を端折りました。肝心な部分は額田部宿禰の祖であるというところです。額田部宿禰は角凝魂命の末裔であり、鳥取部・鳥取氏に繋がります。羽落神社の元名「鳥取大権現」のルーツを遡って考えてみる訳です。

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f:id:awa-otoko:20170218234438j:image出雲大社

鳥取部氏は鳥取県の由来にもなっているのだそうです。また、鳥取神を大国主命の妻である八島牟遅能神(やしまむじ神)の娘としている説もあり、大国主命との間に鳥鳴海神を産んでいます。 このような背景より羽落神社の飛地境内社として出雲大社が鎮座しているのかもしれないですね。

f:id:awa-otoko:20170218234510j:image愛宕神社と八坂神社)

という訳で、天牟良雲命を海幸彦に比定したかった部分は情報が少なくて細かく証拠を挙げることができていない状況ですが、鳥取部氏からの繋がり、天孫降臨からの葦原中国、そして山幸彦(大己貴命=彦火火出見尊)、海幸彦(天牟良雲命)の大きな手がかりが、この羽落神社から少し出てきたのではないでしょうか。

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 f:id:awa-otoko:20170218234943j:image(杉尾神社)

f:id:awa-otoko:20170218235047j:image(羽落神社と杉尾神社の扁額?)

f:id:awa-otoko:20170218234953j:image(朱赤の本殿)

調査する時間が取れれば、「忘却の山幸海幸伝説(豊玉姫編)」に繋げていこうと考えてます。もちろん豊玉姫は天石門別豊玉比賣命ではなく、綿津見豊玉比賣命です。

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さて、羽落神社はすごく雰囲気と環境が整っている素晴らしい神社でした。

徳島県南部健康運動公園に駐車して徒歩でも参拝できますし、車でそのまま壱の鳥居まで登れます。県道24号からは杉尾神社前に車を駐車可能です。是非是非参拝してみてください。

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ちなみに羽落神社・杉尾神社一帯は、来栖城址でもあります。羽落神社の境内(山一帯)は、まさに山城の状況が残っています。戦国武将好きにもおすすめですよ。(゚∀゚)

忘却の山幸海幸伝説(長国ヒコホホ峠編)

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神代の古い物語は長国 阿南市新野の廿枝(はたえだ)にひっそりと伝えられていました。当地には彦火火出見(ひこほほでみ)尊がお留まりあそばされた御在所が存在したという伝説が残されています。

彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)】

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彦火火出見尊・日子穂穂手見命、虚空津日高(そらつひこ)。正しくは、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこ(たか)ひこほほでみのみこと)と言う。さらに火遠理命(ほおりのみこと)、山幸とも呼ばれる。神武天皇の祖父に当たる人物である。兄は海幸の火照命(ほでりのみこと)。この二神は海幸山幸神話を展開する。海幸彦としは海で漁を、弟は山幸彦として山で狩りをしていた。ある日兄弟は道具を交換し、海幸は山へ、山幸は海にでかけた。山幸は海幸の大切な釣り針をなくしてしまう。山幸は代わりのものを作って返すが、兄が受け取らなかったので海辺で泣いていると塩土老翁が現れて無間勝間の小船で海宮に行かせる。そこで豊玉毘売と結婚する。3年のあいだ楽しく暮らすが、釣り針のことを思い出して憂鬱になった山幸は海神に相談する。すると海神は鯛の喉からなくした釣り針を見つけ出し、「この針はオボチ、ススチ、マジチ、ウルチと唱え、手を後ろにまわして兄に返しなさい。」と伝え、塩満珠と塩乾珠を持たせてワニ(鮫)の背に乗せて地上に送り返した。いわれた通りに呪文を唱えて返すと兄の海幸は貧しくなって弟を攻めたが弟は塩満珠で兄を溺れさせ、兄が許しを請うと塩乾珠を使って助ける。そこで兄は降伏し、溺れたときの動作を演じて弟に仕えたという。

はい。伝説によれば彦火火出見尊は廿枝(西地)西山麓付近の地所を御開墾あそばされて食糧をお造りになったと伝えられています。

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開墾西必要な水源は水溜池をお掘りになり、時代が進むのに従って当地の住民が順次大きくしていったそうです。彦火火出見尊所縁の溜池は「神武(かみたけ)溜池」と呼ばれ、さらに「神武池」の谷合いにある峠は彦火火出見尊の御在所があられた場所と伝わります。いつの時代からかこの峠を彦火火出見尊の御名にあやかった「ヒコホホ峠」と呼んで伝えているそうです。

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山幸海幸の兄弟喧嘩神話は兄の海幸が隼人の祖先、大和朝廷側の山幸が隼人族を支配することの起源神話とされ、このような兄弟争いの神話は異民族、異文化が接触して生じる闘争を軸に作成されたと考えられています。(兄弟喧嘩神話はインドネシア方面に多くみられ南方系神話が起源とされている)

 

さて、今回は阿南市新野町廿枝の彦火火出見尊こと山幸彦伝説をテーマ。なにぶん神代の時代のお話なので考証材料の決定打に欠けます。とりあえず口伝の内容から地名と地理情報を抽出して実地調査をしてまいりました。

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阿南市新野町廿枝に鎮座する皇子二所神社。もちろん祭神は彦火火出見尊。そして地名は宮前… 神社自体の創建は元禄11年(1698)と比較的に遅いです。

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皇子二所神社の周囲に鎮座する神社で考えてみましょう。峠越えで山を東に抜ければ大宮神社と椙尾神社が鎮座しています。(こちらの大宮の姫は綿津見豊玉比賣⁈ )

さらに沿岸部を添うように北上すれば塩竈神社、突出した岬状の場所に竜宮神社が鎮座しております。このように山幸が海神宮に行きつくまでの舞台は、徒歩による移動が可能な範囲の中で整ってしまうのです。(強引な結び付けかもしれませんが。)

余談ですが皇子二所神社から向かいの西地名の山を越えれば土御門上皇の行宮跡の御所神社も存在しています。

(阿波に存在する古代天皇所縁の場所には土御門上皇の足跡が残っている。どうも情報が置換されているような感じがする… )

あとは海幸彦は誰なのか?というところです。が、こちらはまたの機会にご紹介したいと思います。

という訳で長ノ国に伝わる山幸海幸伝説。山幸彦こと彦火火出見尊の御在所であった「ヒコホホ峠」編はこのへんでおしまい。まぁエピローグなのでこれくらいの内容の浅ささで大丈夫⁈ でしょうw(笑)このシリーズ、間隔を挟んで長いスパンで考えてます。シリーズ連続投稿しないので悪しからず。

安閑天皇を祀る飛蔵宮

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土成町宮川内の奥に飛蔵山(ひそやま)という山がある。飛蔵山は御祭神として第二十七代 安閑天皇を奉斎する吉野神社が古くから鎮座していたと伝わる。吉野神社は神仏習合の時代に飛蔵宮(ひそみや)または蔵王権現と改称され、山伏をはじめとする修験道の一大霊場として栄えた。近くに大別当、教連寺という字名が残されており、教連寺は蔵王権現宮司であり大権別当は大宮司が居住していた場所であると考えられている。

はい。飛蔵山の蔵王権現参拝してきました。もう身体がぼろぼろです。飛蔵山の位置をきちんと調べずに思いつきで突入したので、鵜ノ田尾峠の旧道に入って山一つ間違えて登ってしまいました。

f:id:awa-otoko:20170204150610j:image(黄:間違えた場所 赤:目的地の飛蔵山頂上 白:目安の鵜ノ田尾トンネル入口)

運良くイノシシ狩りに山に入っていたハンターさんに会って間違いを教えていただきました。ハンターさん曰く、「今は猟期やから危ないよ。猟犬放してるし。それでも行く?笑w」と半分冗談まじりで脅されましたが「ありがとうございます。もちろん行きますわ〜。引き返します。」

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(引き返した時に撮影した飛蔵山(中央奥))

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再度鵜ノ田尾トンネル左側旧道からアタック。

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集落跡を抜け、淵を渡って道沿いに進めば…

f:id:awa-otoko:20170204152427j:image(登山口)

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f:id:awa-otoko:20170204152816j:image(どんどん登ります。)

さて、ここで飛蔵山蔵王権現にまつわるお話を。。

足利時代に七条兼忠という剛の者がいた。時の七条城主である。或る年に旱魃が続き、百姓達が飛蔵宮にて雨乞いの祈祷をしたが、七日間の必死の祈祷にも拘らず雨は降ることがなかった。そこで兼忠は大いに憤り、「万民の苦しみを顧みないのは神霊の在さね社なり。」とし、矢をもって神殿の扉を打ち破った。すると突然暗雲がたちこめ一大豪雨となり雷鳴轟きだした。兼忠は焦って七条城に逃げ帰ったが飛竜があとを追い、宮川内川は大洪水が起こったという。

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f:id:awa-otoko:20170204171449j:image(参考資料にあった祠建設当時の写真)

飛蔵山の蔵王権現は雨乞い成就の霊験譚を今に伝えています。が、、、安閑天皇譚はどうなったのか?

安閑天皇

日本書紀』では、諱を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)としている(「まがりのおいねのみこ」とも読む)。 和風諡号は、『古事記』に広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、『日本書紀』に広国押武金日天皇とある。

継体天皇の後を受けて、66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。 安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、関東から九州までの屯倉の大量設置と、41箇所の屯倉の名が列挙され、これに伴う犬養部の設置が記されている。(Wikipediaより)

はっきり申しまして、なぜ土成の飛蔵山に安閑天皇が祭祀されていたのかはわかりません。。。(//∇//)

ただ、引用にある犬飼部に関連する隣山の城王山麓の犬墓地域の存在、また城王山にも雨乞いの神と蔵王権現役行者)が祭祀されており、繋がりが薄っすらと感じられるくらいですか。(理由が苦しい。。。)

個人的には安閑(あんかん)天皇は安徳(あんとく)天皇と間違えられているのではないかということも並行して考えたりしてます。

飛蔵山を囲むように流れる宮川内川には御所の地名、そして安徳帝の他にも土御門天皇の伝説も存在します。

あと、南に位置する神武天皇もね。

という訳で、明確にはお伝えできなかった安閑天皇伝説… 

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とりあえず現地に行っても解決しないことは百も承知でしたが、こんなパワスポも見つけて癒されてきました。土成町と様々な天皇伝説。何らかの繋がりは在りそうですね。これからの調査結果が楽しみです。 ( ^ω^ )