awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

仮説:猿田彦神が韓背宿禰の祖であったなら?(佐那河内 猿田彦大神宮)

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えーっと、Facebookの方でさわりだけ投稿していた佐那河内村猿田彦神社(大神宮)の所在地。まだぜーんぜん調査は進んでないんですが、とりあえず一次報告として私の妄想を掲載しますのでお付き合い願いたいと思います。

ヒントで掲載すた古文書の写真は、ハテナブログだけに「?」をたくさん挿入しました。邪魔なので消しましょうかね。

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わかります?注目すべき部分。

わたくしawa-otokoが注目したのはココ。

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猿田彦神社の下に記入された「在 長岡」です。

その「長岡」ですが佐那河内村の地名をいろいろ調べてみたのですが該当する地名は見あたりませんでした。。。しかしこの「長岡」。当ブログでも投稿していた地名とリンクしないでしょうか?( ^ω^ )

 

その地名とは佐那河内村の「長峯」。 

 

そうです。御間都比古神社が鎮座し、また「長ノ国」の地名の元となった「長峯」です。 

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佐那河内村に「長岡」という別の場所が存在する可能性もまだ残されているので「長岡=長峯」とは断言できませんが、個人的にはこれを採用しました。何よりこの仮説で進めれば面白い展開になるのです。

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何が面白いって、猿田彦は伊勢の阿邪訶(あざか)の海で漁をしていた時、比良夫貝(ひらふがい)に手を挟まれて溺れ死んだとあります。猿田彦神は後年、海に近い場所に居住していたと考えられるのですよ。以西(いせ)の阿坂(あざか)付近にね。

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結局何が言いたいたかと言えば、もし観松彦色止命(みまつひこいろとのみこと)、九世孫の韓背宿禰猿田彦神の後裔だったなら… 

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観松彦色止命が祭祀される以前に、猿田彦大神大麻比古神)が当地に祭祀されていたのではないかということです。(しつこいですがあくまで推測です!!)

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当地佐那河内村の位置より東進経路で進めば園瀬川からハチマアマコの浦(八万〜津田浦)へ。

また西進経路で進めば鮎喰川・船戸川(鬼籠野〜一宮町)の水路を経て気延山付近から海へ。東西どちらの経路を利用しても、大きな三角州を形成している板野郡大麻に行き着く可能性は大。(一宮町国府町に大麻比古、猿田彦が点在しているのはこのルート。大麻彦(おおまひこ)はここから分岐)

そして韓背足尼の子孫であるとも考えられている長髄彦(ながすねひこ)が率いた長族が、板野郡に拠点を置いていたという説もこの妄想から繋がるのではないかと淡い期待をしてます。。。

さて今回のお話、文中に記載されていた「在 長岡」からawa-otokoの妄想爆発で勝手に展開してしまっているのですが、古文書のその他の記載内容は藍染を伝承して長者となった藍神様のことが記載されています。(気になった方は過去記事にある内容と同じなので興味がある方はどうぞ。)

もうね、神名とか時代を超えて重ねまくって伝承されてますし、古文書の内容も真偽が不明なので何をベースにして考察していいかわからないのが現状なんですよ。よって通説の内容と自らの知識の中から繋ぎ合せて新しい展開を見いだせれば面白いかなと。。。

久しぶりに妄想を爆発させてみた訳ですが、ちょっとテーマが大き過ぎたので投稿するかしないかを(刹那の一瞬w)考えたけどアップしちゃいましたw

この説を今までの自説と通説と統合すれば猿田彦大麻比古神=事代主神になってしまう。。。あぁ、アタマが痛い。awa-otokoの謎解きはまだまだ続きそうです。。゚(゚´Д`゚)゚。

バンザイ板西城 栖養の里には何がある?!

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榮村古城にあり、藤原師光の六男、近藤六親家の築く處たり、源義經勝浦尼子浦に上陸するや親家東道となりて功あり、親家子なし乃ち赤澤兵庫守を養うて嗣と爲し、城を讓りて自らは勝浦郡新居見の山上に隠棲す、世に之を板西殿と稱す。宗定また子無く城廢す、後三好義賢の姪婿小笠原宗傳其統を承け、赤澤信濃守宗傳入道と稱し、天正十年八月二十八日にし負へれ中富川合戦の時戦死せしが、其子孫各處に散在し今に其裔を傅ふる者少からず、孰れも赤澤近藤等の姓を襲ふ。

徳島県板野郡板野町にあった板西城(ばんざいじょう)板野町指定史跡となってます。この近辺は散策すれば結構面白い場所なんです。なんとなく昔の雰囲気が残っていて当地の歴史を知っていればさらにシンクロすることができるでしょう。

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板西城は藤原師光(西光)の六男 近藤六親家が平安時代末期に築城し、後に赤沢氏の居城とした城。ちなみに板西城趾の看板にあるように築城した近藤六親家は源義経の道案内をしたのは有名。父、西光の屋敷にほど近い土成町 案内神社も近藤六親家に関係しており、祭神は猿田彦神または近藤六親家とされております。

話を板西城に戻します。勝瑞城の西の守りを固める重要な城であった板西城は天正10年(1582年)の中富川の戦い長宗我部元親の侵攻を受け、勝瑞城とともに落城。城主・赤沢信濃守宗伝も討死してしまうに至ります。

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板西城趾北側に鎮座する天満神社。当地ももちろん板西城内だった場所であり、詳細は天満神社の由緒に記載されてますので読んでみてください。(見にくいけど。)

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そして天満神社からさらに北上すれば犬伏城趾(犬伏諏訪神社)があります。撫養街道にそって南向きに地蔵堂が建っており、そこは「振袖地蔵」と呼ばれる地蔵がおさめられています。

天正10年(1583)四国制覇をめざした土佐の長曽我部元親が2万2千の兵を率いて、中富川をはさんで勝瑞城の十川氏と対戦した。板西城主の赤沢信濃守も一族、郎党を従えて元親の大軍と戦ったが、戦い利あらず討死。留守を守っていた奥方は逃げることの不能を悟り、姫をにがして自分は「松の木」という所で自害した。姫は犬伏の諏訪神社近くで捕えられ殺害された。土地の人は姫をかわいそうに思い、地蔵を建ててその霊を弔った。姫の名を「カヨ」といったので「カヨ地蔵」、その時に振袖を着ていたので「振袖地蔵」ともいう。

はい。姫を逃した奥方は「松の木」という場所で自害したとあります。こちらは板西城趾を南下した栖養(すがい)八幡神社が鎮座する場所になります。

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f:id:awa-otoko:20170126212356j:image(栖養八幡神社

八幡神社は榮村下庄にあり、闔村及び古城、西中富、唐園、犬伏、那東、大寺、中窪の八村共にこれを祀る、此地昔時栖養の里と稱し土御門天皇の行在所を置かれし所と傳ふ。社地より乾位へ半町程隔てて一林あり中に松の木宮と云へる小祠あり、土俗これを松の樹殿と唱ふ。

栖養八幡神社は赤澤氏が應永十年六月廿八日に石清水八幡から勧請したと記録が残るそうです。が、awa-otokoはちょいと違和感を感じています。奥方が自害した「松の木」とは松の樹殿。こちらは摂関家として創設された公家のひとつ藤原氏北家嫡流藤原忠通次男松殿基房が祖。家名の由来は京都に松殿と呼ばれる屋敷を構えたことによる「松殿家(まつどのけ)」に関係があるのではと考えています。

 f:id:awa-otoko:20170126212414j:image(松ノ樹殿)

そして当地、板野郡一帯は那珂登美(中臣)の地。近藤六親家も西光(藤原師光)が養子であるものの藤原氏の系譜を嗣ぎ、踏襲していたと考えるのです。(西光は麻植氏忌部大宮司の血を継承)

近藤六親家と土御門上皇の動向のリンク、そして藤原氏。まだまだ板野郡には深い謎が隠されているようです。 

豊穂ハ豊茂理亦ハ豊成ナドノコトニヤ

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続日本紀 延暦二年十二月甲辰阿波人正六位上粟凡直豊穂任國造トアリ、粟国造ノ本姓 粟凡直ナル事ヲ知ル可シ。「豊穂 」ハ「豊茂理」亦ハ「豊成」ナトノ事ニヤ。

続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。(Wikipediaより)

f:id:awa-otoko:20170116223758j:image(阿波女社祖系図)

一宮社にて伝承されていた阿波女社祖系に図にも豊茂理、豊成の名は記載されています。「大粟宮由来伝記(下巻)」では続日本紀に登場する阿波人正六位上粟凡直豊穂について「粟国造粟凡直 粟飯原氏系図」の系譜にある 豊茂理、または豊成に該当するのではないかとしております。

【粟国造粟凡直 粟飯原氏系図】
伊邪那岐神伊邪那美神 - 撞賢木厳之御魂天疎向津比賣命 - 月夜見命 - 八嶋士奴美神 - 天之冬衣神 - 大国主神 - 積羽八重事代主神・大宜都比賣神 - 若室神 - 天磐門主神 - 健豊神 - 健忍方神 - 多久理比古神 - 八倉主神 - 宇賀主神 - 畠多神 - 佐人 - 賀由比古 - 於志翁 - 屋那男 - 岩肩比古 - 豊長比古 - 里利夫 - 興利比古 - 田茂理 - 豊茂理 - 豊成 - 兼諸 - 経宗 - 忠成 - 忠宗 - 宗長 - 宗信 - 宗國 - 宗広 - 宗堅 - 宗親 - 宗昌 - 宗時 - 宗行 - 宗成 - 明宗 - 満胤

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f:id:awa-otoko:20170116224701j:image(粟国造粟凡直 粟飯原氏系図)

粟飯原家は昔より「上山の三日月」といえば国内にだれも知らない者がない家柄。代々当主となるべき者には体の一部に三日月の痣が現れていたと。またその者達は阿波の祖神である大宜都比売命の子孫であり、代々国造として名西山分を支配し、一宮大粟神社の神官をしていたというところはこれまで紹介してきた内容であります。

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同紀 神護景雲元年三月乙丑阿波國板野名方阿波等三郡百姓言曰己等姓庚午籍被…(略)此三郡百姓ハ粟凡直姓ニテ粟国造同姓然レバ其百姓ハ此神ノ氏人ニテ今板野阿波名東名西郡ノ地ハ昔ハ此大神之氏地也。

三日月家と同じ祖をルーツとする一族は時代を経て阿波の板野・阿波・名方の三郡に拡散します。板野・阿波・名方郡の人民は神ノ氏人たる粟凡直の末裔であり、当地(上の三郡)は神之氏地と伝えられきました。 

こちらの内容に精通している方はお気づきかもしれませんが、名方郡と板野・阿波郡に挟まれた場所の麻植郡が神(大宜都比売命)の氏地として含まれていません。もともと神代の時代では粟国造粟凡直も忌部氏も同族でした。現在の天石門別八倉比賣神社、大麻比古神社忌部氏所縁の社とされるのは後の時代からの付会も含まれていると個人的に考えています。これに踏まえた内容もおいおい投稿したいですが、、、(いつになることやら… )

とりあえず今回は粟国造粟凡直 粟飯原氏系図の紹介と粟飯原氏に繋がる手掛かりの紹介に留めます。ちなみに豊茂理、豊成の他にも系譜に含まれる畠多神、佐人のどちらかも… 千波足尼だったとか。。。こちらも機会があれば詳しく書きたいですね。

大宜都比売命の夫神が積羽八重事代主命=味鉏高彦根命と比定できるように大宜都比売命の兄とされる天日鷲命の正体が何者なのかを調査すれば忌部の謎(一端ですが)解けますよ。

高彦根山と弘法大師

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平安初期の延暦二三年、空海最澄遣唐使の船に便乗し中国の唐に渡った。最澄は翌年に帰国して比叡山延暦寺を開基し天台宗を広め、空海延暦二五年、年号が改元され大同元年となったこの年に帰国し真言宗を広めたのである。

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空海最澄と同じように宗の開基に際し、総本山を定めるべく各地を物色して回った。そして白羽の矢を立てたのが阿波国名方郡大粟山の高根山の高原であった。

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高根山は神代の昔に大国主神の御子とされる味祖高彦根(あじすきたかひこね)が開いた土地で、古代から当地は高彦根山と呼ばれていた聖なる山であった。総本山を開くにあたり、三千三百尺(約千㍍)の高地に八百と八の谷、八百と八の尾(尾とは尾根)を含めた数百町歩の広大な土地を使用することが原則であり、その条件が高根山山頂付近 通称ハゼの窪と呼ばれる場所にはずばり当てはまっていたようである。

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さて、空海にはいつも身辺につきまとう「天邪鬼」という怪異の者がいたそうで、空海が高根山へ総本山を建設すると決心した時に邪魔をして、谷をひとつ隠して八百と七の谷に変えてしまった。空海は仕方なく此の地を断念して他を探すことにしたが、天邪鬼にはギヤマンの水差しの中に封じ込めるという罰を与えた。弘法大師座像の横に置いてある器がそれである。
空海は再び適地を探す旅に出立し、やがて紀伊国高野山を最適の地と定め、弘仁七年「真言宗開基総本山高野山金剛峰寺」と号し信仰を広めた。この伝承については高根悲願寺の由緒書にも記されて今に伝わっている。こちらについては当山の飲料水が不十分であるため道場建設を諦めて高野山に開いたとされる。

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この説に付随しての伝説か、昔は大きな湖であった神領から流れる水が高根山麓の上角から青井夫方面に流れ泡となっていた「あぎのたお」を空海が掘り割った伝承も残されている。

 

高根山に限らず焼山寺付近でも空海伝説は数多く残されていることから、往時には空海ならびにその関係者が度々当地に訪れ何かしらの計画を立てていたことが推測される。
この伝説が真説であり、当時の治水工事がうまく進んでいれば、粟ノ国 神山神領の地において空海による真言宗大道場が開基され、阿波発心の道場も規模が大きく展開していたのかもしれない。

熊野権現と阿波

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熊野権現とは熊野三山の祭神である神々をいい、特に主祭神である家津美御子(けつみみこ)・速玉・牟須美(ふすび、むすび、または「結」とも表記)のみを指して熊野三所権現熊野三所権現以外の神々も含めて熊野十二所権現ともいう。(Wikipediaより)

後白河法王が自らの御所である六条殿に設けた持仏堂である長講堂。その所領の中には阿波一宮も含まれていた。後白河法王における熊野信仰はひじょうに熱心であり、長講堂の所領への熊野権現の勧請は必然的であった。

 

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各地に設けられた荘園では統治者が崇拝する神社の祭神を勧請することはかなり古くから行われて一般的であったため、阿波国内の長講堂領の阿波一宮の他にも熊野信仰と関わりを挙げることができる。麻植保、秋月荘、河北荘、宍咋荘、那賀山荘である。

 

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麻植保(麻植御領 現:鴨島町)は平康頼が鎌倉時代初期に勧請したと云われる旧村社 熊野神社

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秋月荘(現:土成町秋月を中心とした荘園)は南朝 後亀山天皇が当地に日置荘を熊野新宮に寄進、その分霊が勧請されたとされる旧郷社 熊野神社

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河北荘(現:名西郡石井町)は那須与一が勧請した旧郷社新宮本宮神社。

 

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宍咋荘(現:宍喰町)には熊野権現同体とされ、修験者吉祥院が勧請した旧村社 轟神社。


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那賀山荘(現:木頭・木沢)には湯浅権守俊明が紀伊から勧請した旧郷社 宇奈為神社。

このように規模が大きく地域を代表する古社が熊野と関わりがあることがとても興味深い。

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また、そのほかにも焼山寺境内に鎮座する天神七代地祇五代を祭神とする十二社神社もま本来は熊野十二所権現であった。このように阿波国内には熊野と関係が深い修験道のメッカとして繁栄してきたのである。

 

さて、ここから「熊野権現」の本髄に迫ってみたいと思う。
熊野権現の「熊(くま)」とは「能」を指し、本来は神の能力を司る、または神の力を持った古の王を「能(くま)」と呼んでいたのである。

麻などを利用して神が憑依すると捉える神事もこの中に含まれるであろう。「能(くま)」が行う神の舞は「能(のう)」として今に伝わっている。
このような「熊(能:くま)」の如き神通力を得ようとしたのが山伏という修験者であった。特に阿波では衰退した古社の管理など修験者により行なわれていたことが記録されている。

熊野権現に関係する阿波の社の歴史は古い。古の様々な神、王、仏が存在した場所が「熊野」。それらが融合された超神仏が「熊野権現」なのである。