awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

粟國造家が通った祭礼の道

久しぶりの更新です。ついつい更新を伸ばしていたら大晦日になってしまいましたwww

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さて、年末の休暇を利用して粟國造家が大粟山まで通った「粟國造家の祭礼の道(←勝手に名付けたw)」を歩いてきました。2016年の最後はこの大宜都比売命と粟國造家に関連する内容を挙げて締めたいと思います。

 

スタート地点の粟國造家の本館(跡)は下分上山村栗生野に存在しました。粟飯原氏の氏神である妙見宮東側の本家跡が粟國造家本館跡ですね。こちらは明治期に粟生野名 國造屋敷ノ跡の古傳として記録されています。

f:id:awa-otoko:20161231134504j:image(栗生野 粟國造本館跡)

f:id:awa-otoko:20161231134941j:image(栗生野 妙見宮・天神宮)

f:id:awa-otoko:20161231134902j:image(栗生野からみた高根山)

くどいようですが粟國造家が大宜都比売命の祭礼を執行う際には、粟國造本館から大粟山の天辺ヶ丸(上一宮大粟神社)まで通ったと伝承されています。

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地図で確認すれば近く感じるのですが、歩けば1時間くらい必要な距離です。栗生野から中継ポイントの腰ノ宮まで行くまでに大宜都比売命の伴神を祀る谷皇子権現、野間妙見社、若宮社の付近を通過することになります。

f:id:awa-otoko:20161231135100j:image(野間 妙見宮)
調査当初は伴神旧跡の配置位置は祭礼の際に移動する経路(中継地)と考えていました。が、実際に歩くと主要道との高低差が激しく、自分の感覚に置き換えれば正直面倒くさいと感じる道程でした。立ち寄りすることで主要道から外れ、地味に距離と時間が経過するので神祇の際に利用する経路通過点ではなく、砦や城として利用された可能性が高いと考えました。
これらのように伴神の宮の位置関係からいろいろ考えると、延長線上に大宜都比売命の活動範囲を二つのエリアに分けて考えることができます。

一つは高根山〜栗生野エリア。もう一つは大粟山の上角・神領エリアです。

読む気にさせて申し訳ないですが、この内容は話せば長くなるのでまたの機会に語るとします。

元の話を戻します。

栗生野から大粟山までは距離としては一里余り。途中の大埜地 腰ノ宮で休憩を入れてから大粟山に向かうことが通例となっていたようです。

 f:id:awa-otoko:20161231135355j:image(腰ノ宮からみた大粟山)

f:id:awa-otoko:20161231135413j:image(腰ノ宮横の鮎喰川)

腰ノ宮とは休憩所より名付けられたものでしょう。腰を下ろす、または川を越す(腰:こし)の「こし」も兼ねているのかもしれません。

当地は見てわかるように簡易な渡し(船?)が設けられていた場所の可能性もあります。川を何らかの方法で渡る前に、とりあえず休憩しようと思うのは必然的なように思います。

f:id:awa-otoko:20161231145152j:image(腰ノ宮神社)

f:id:awa-otoko:20161231145313j:image(腰ノ宮神社 本殿)

腰ノ宮は葛倉宮を合祀し、「えびす(事代主神者粟國造粟凡直等之祖)」伝承も残していることは過去にも記載した通りです。

当地には大宜都比売命の腰掛け石も存在するとか、しないとかで真偽は定かではありません。(腰掛け石はどの石なのかわかりませんでした。) もしかすれば大宜都比売命が降臨した場所なのかもしれないですね。

f:id:awa-otoko:20161231135639j:image(腰掛け石?)

f:id:awa-otoko:20161231135738j:image(謎の立岩)

f:id:awa-otoko:20161231135820j:image(腰ノ宮境内)

腰ノ宮より鮎喰川南岸沿いを行き、鮎喰川と南北につながる上角名の御装束谷より大宜都比売命が御鎮座する大粟山へ向かいます。

装束谷とは現在の上角谷のこと。大粟山の東に位置し、國造家が神祗の際に装束を身につけて國造家へ通行した唯一の通行路が設けられた小さな谷です。

この國造家が立ち寄り装束を身につけた場所がのちに大通寺良蔵院とされ、さらには神宮寺になったと考えています。

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阿波国(後)風土記」にも上角名國造館伝承が記されているようですが、たぶんこの装束谷に存在した粟國造家所縁の館のことを指しているのでしょう。

 

装束を身につけた國造は大粟山の頂上 天辺ヶ丸へ向かいます。こちらも予想ですが往古は現在の参道は使用しなかったと考えています。

f:id:awa-otoko:20161231173049j:image(弐の鳥居)

f:id:awa-otoko:20161231173026j:image(参道)

f:id:awa-otoko:20161231172656j:image(参道)

なぜなら大粟神社は現在の社地に鎮座しておらず、頂上に存在していたからです。そして頂上 天辺ヶ丸の祠は東向きに設置してあることから、大粟山の東側に参道が存在したはずなのです。

f:id:awa-otoko:20161231172953j:image(頂上の祠)

f:id:awa-otoko:20161231173503j:image(天辺ヶ丸)

天辺ヶ丸に参拝した人はご存知かもしれませんが、神山温泉側にくだる広い道があります。道に従って降れば装束谷と古祓場に行き着く道です。こちらが古代の参道だったのではないかとawa-otokoは推理しているのでございます。

f:id:awa-otoko:20161231173535j:image(古祓場)

 

やはり実際の場所を実際に調査すれば古文書の読み下しからの推理や推測だけでは出てこないものが出てきます。

 f:id:awa-otoko:20161231175058j:image(天辺ヶ丸より栗生野集落を望む)

天辺ヶ丸から見える栗生野集落を眺めるだけでも古代粟國造家の気持ちが流れ込んでくるようです。

 

と、言う訳で粟國造家が通った祭礼の道を以って2016年最後の投稿としたいと思います。

来年は、「もっと簡単。さらにディープに。」をモットーに阿波の情報を提供できればと考えています。それではあと数時間ですが、よい年末をお過ごしください。(*´ω`*)

Legend of TAMETOMO‼︎

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源為朝所縁の地は穴吹町宮内の白人神社ではなく、二戸谷流域の一帯が為朝の歩んだ所である。

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こんな話が旧木屋平村には昔から伝わっている。

為朝を祀る白人神社は二戸と南二戸の二ヶ所にあり、宮内の白人神社は、もともと木屋平村市初にあった。

昔の大洪水の時に流され、宮内の地に引っかかったのでその地に祭ることになったと言われている。

鎮西八郎為朝の矢立石と称する立て石は、野々脇の奥の山神神社の裏山にある。高さ一・三米。幅四十糎。厚さ二十糎の板状の石である。もう一つは、南二戸の通称「空屋敷下はな」にあって、大きさは野々脇のものとほぼ同じである。
これは平安時代の終わり頃に源為朝が穴吹の友内山の南、二本杉峠から放った二本の大鏑矢が大空三里を飛び、当地に突き立ったことから村人はその神技に大いに驚き、それぞれ矢の立った場所に石碑を立て「源為朝の矢立て石」と今も呼んでいるのである。

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皆もご存知の通り穴吹 口山に鎮座する白人神社は伊弉冉神、瓊瓊杵尊天照大神、豊秋津姫命、崇徳天皇源為朝侯を祀る神社です。中世には徳島藩家老の稲田氏が崇敬した社であります。また、隣の神明社では五社三門が築かれ、これはアレで、ソレはあれで、、○・×・※・*など、いろいろと想像を掻き立てるところ場所なのです。

さて、白人神社と源為朝の繋がりは以前にも当ブログやFBでも軽く触れたことがありますが、この貴重な地域伝承を風化させないためにも、もう一度ここで記録しておこうと考えました。

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伝承にある源鎮西八郎為朝本人が白人大明神であるかは今となっては調べる術はありません。ここで特化したいのは、社の旧所在地と移動経路が詳細に伝承されていること。これはとても珍しいです。

伝承地の旧木屋平村 市初、二戸、南二戸という場所は阿波忌部直系と云われる三木氏の本拠地、貢(みつぎ)のすぐ目の前。高越山に連なる奥野々山の真裏に位置する場所です。立石を用いた祭祀や境界、目印として使用されているのは、間違いなく忌部祭祀と考えます。

このような特異な社が流されて行き着いたのが穴吹 口山の白人社こと白人大明神。こちらも当地にてさまざまな記録が残されているのであります。

【白人大明神由緒書】

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一部抜粋しておきます。

白人大明神とは鎮西為朝の御璽とあり、神宝は御弓、御矢であるそうです。また、白人三社(白人大明神、中白人社、外白人社)以外に同地に祭祀されている御崎大明神は白人大明神より先に祭祀されていた氏神なのだそうです(御崎は后に繋がる: 誰の后かな???)

考えるところ、忌部神や源為朝のほかにもさまざまな神が繋ぎ合わされた神であるようです。現在の白人神社の祭神がそれを物語っています。源為朝崇徳院は讃岐から穴吹までの南北ラインで伝承が残っているため、平家の落人がもたらした伝承だと考えています。その他の伝承は過去記事にも掲載したので割愛しますが、穴吹口山は忌部祭祀、天孫降臨、天照皇大神の伝承が交差するエリアであるために各伝承と各祭祀が混在し融合され原初の内容がもうわからなくなってしまっているようです。

源為朝が何故に木屋平で祭祀されていたのか?それを閉鎖的に祭祀継承していた忌部の75人の宮人とは?ここでの源為朝とは何者だったのか???

今回も謎の真相を解き明かすことはできませんでしたが少しずつ記録が発見されてきています。引き続き調査は継続したいと思っています。

今回はawa-otoko's blog 記念すべきトータル300UP目。今後もどうぞよろしくお願いいたします。(´-ω-`)

滝ノ宮砦は剣山大権現の関所

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徳島の剣山北麓にある旧木屋平村は平安初期に阿波忌部氏の一族が開いたと伝わり、平家の落人や阿波山岳武士の伝承が各地に残されていることは以前に投稿した通り。

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中世では国衙領であった麻植郡山分の種野山に属し、三木名、河井名、大浦名などの名で構成されていました。往時は在地領主が勢力を張っており、南北朝時代には北朝方の守護細川氏に従わず、南朝方として抵抗していていましたが、後年帰順を余儀なくされたのでした。

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言わずもがな木屋平村において活躍したのが地名にもなっている木屋平氏であります。

鎌倉時代に衰退した大浦氏より当地を入手し、当地を本拠地として勢力を拡大していったといいます。その過程で木屋平氏は血縁と領域を広げ、各々要所に同族を配備して一族の領域を堅固なものとしていきました。その中で太合に居住した木屋平一族の古見氏。その古見氏に伝わる古文書によれば滝ノ宮神社は森遠 木屋平氏の一族(太合木屋平氏)の砦であったと記録されているそうです。

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滝ノ宮は太合川木屋平川(穴吹川)に合流する左岸にある西、南、東の三方が崖であり、北は深い急坂の藪を背負った要害の地。このように堅固な要塞が予想できる滝ノ宮砦は以外にも森遠城のような居住地と要塞を兼ねた城ではなく、平常は自らの屋敷で農事にたずさわり生活し、有事の際だけ立て籠もる砦だったそうです。

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古見氏は太合の原窪に居館を構えた名家で、江戸時代には代々庄屋を務めた村の政を任せられていました。当時の邸宅は総欅造り、豪壮雄美な村で一番の広壮な屋敷構えであったということです。

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そんな古見氏がこの砦を策いたのは神社建立より以前の事。通説では阿波忌部氏直系である三木氏の次男が五人の従者を引き連れて森遠に入り、下名、弓道、森遠、谷口、川上の五ヶ所に住し、三木氏の次男は谷口に居を構えて大浦氏と名乗り開発を行ったと伝わります。これらを「大浦忌部の五軒の百姓」と呼び、この五軒の家は屋号を「おもや」、「おも」と呼ばれていたそうです。

さて、ここから本題。

鎌倉時代から南北朝時代にかけての木屋平氏が山岳武士として強固な軍団を組織して活躍し、衰退した大浦氏(忌部氏)に代わり大浦名を支配したとありますが本当にそれだけなのでしょうか。

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剣山大権現の存在からの行基空海の動向、また歴史に名を残した重要人物が剣山を訪ねて祈祷・祈願をした記録が残されています。(真偽は不明)

気になって剣山から森遠までの地理的伝承を調査してみると遠い昔、滝ノ宮から西の川上地区は往古は湖だったそうです。川上地区の上にそびえる中尾山は東に向かって高原が続き、弓道の陣の丸まで地面の高さが同じだった。そして大きな川のような縦長の湖の末から流れ出る水で大小の滝が作られたことから付近を「大滝」と呼ぶようになり、剣山聖域に入る境界となった場所に祠が立てられ、これが滝ノ宮神社になったそうです。

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これから推測すれば…

今尚、剣山大権現(素戔嗚命)が祭祀されていること、鎌倉時代以降も砦として使用されたこと。祠、砦は太古の昔からあった聖域への出入口の名残りではなかろうかと。

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また、境内には「牛」にまつわるものが多く残されていることから剣山大権現を守る一族、即ち「大人:おうし」が統治していたのでは。。。(ダジャレじゃないぜ☆)

さらに推測すれば、古見氏の開祖がその一族であった可能性が高く、古見氏については歴史の流れから木屋平氏(平家)や忌部氏と融合していった経緯から最終的には木屋平氏とされたが本来は素戔嗚命に連なる一族…

いや、、全部ひっくるめて考えると木屋平氏(松家)、忌部氏(三木)なども含めて、血脈の大元は素戔嗚命の裔だったのかもしれません。

ちなみにawa-otokoは木屋平の開祖は、阿波忌部の直系と云われる「三木氏ではない」と考えています。まぁどの時系列から判断するかという問題はあるのですが。。。この続きの話はまたいずれ書きたいと思っています。

三社だった大麻比古神社

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阿波名勝案内大麻比古神社の項には本来三社によって祭祀していたと記載されています。記述によればその他にも境内社や摂社も現状とは差異が見受けられることがわかり、これはある時期に何らかの手が加えられたことが推測できます。往古の記録と現状との差異を調べることによって大麻比古神社の創始・祭神の謎を解明できるヒントが隠されているかもしれません。それではさっそく引用文を確認してみましょう。

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板東町大麻山麓にあり國弊中社たり、四国第一番の靈場なる靈山寺の門前を左折し行く事少許、松林を交へて隧道を作る者七八町、松林の盡る處祓橋あり、之れを渡り左右に數株の老樟を仰きつつ石磴を登れば、正面に檜皮葺の本殿幣殿あり、之に向つて右側に社務所あり、左側に神庫神饌所休憩處あり、境内清楚細薼をとどめず神威厳然として犯すべからざるものあるを覺ゆ境内末社には牛宮神西宮神社豊受神社山神社水神社丸山神社、仝攝社には野神社天神社、境外攝社には岸神社仝末社には長井神社長木神社宇志宮神社等あり。
阿波志に「延喜式名神大祀月次新嘗並祭國司祈年祈雨皆興焉在板東山上三代実録貞観元年正月廿七日授従五位上九年四月二十三日授正五位上元慶二年四月十四日授従四位下七年十一月朔授従四位上」とあり、其後屢次昇位して享保四年三月十四日正一位を授けらる、維新となり一旦縣社となり、明治六年更に國幣中社に列せられ宮司以下の職を置かる、社後に聳ゆる大麻山は松杉蓊鬱として獨り雄を恣にし、山上弥山神社山ノ神社を祀る。阿波志に「孤峯高峻深樹蓊鬱有大麻彦祠因名城北之山是爲第一又有麻漬渓及丹井旱乾不涸又有小山蔭苧解谷剃刀峯鞠山不可枚擧北有後谷䕾穴豁然又有龍王祠村民乞雨」とあり大麻比古神社は山上に有りし者の如くなるも、享保十四年四月の取調によれば、板野郡板東村大麻神社往古岺権現てふ三社あり、谷に大麻大明神あり、即ち岺の権現は猿田彦及び鹿江比賣命を祭り所謂大麻彦神の后神と稱し、或は天日鷲津咋見命を齋祀するもの即ち今の弥山神社なりとも云ふ、谷の大麻大明神は今の本社大麻比古神社なりとあり、此地徳島市を距る三里十六丁、撫養町距る三里、板東町は撫養街道に於ける一小驛にして、商店宿舎軒を連ね市街の觀を爲す、此地又本郡の公会堂を置かる。

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境内社の牛宮ですが、これは現在祭神不明である中宮神社のことをでしょうか?境外摂社に岸神社、末社には長井神社・長木神社と宇志宮神社とあります。

岸神社の詳細はわかりかねますが、霊山寺南側に宇志比古・宇志比賣神社、長井・長床神社が今も存在します。宇志比古・比賣神社は粟国造粟凡直氏族を祀る社であり、長井神社(明神)は鹿江比賣命であるという情報もございます。

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その他にも社殿背後に控える大麻山には麻漬渓、枯れることがない丹井、小山の蔭には苧解谷、剃刀峯、龍王祠が存在したことが記されています。こちらは大麻山、麻漬渓、苧解谷(苧:麻繊維の意)から忌部氏の名残りあるものと推測できます。剃刀とは天日鷲神が当地より神去りしたことを伝えるものであり、龍王祠は現在の真名井の水に存在する祠ではないでしょうか。(この伝承はのちに付加されたものであると考えています。)

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さて、それでは本題。
大麻大明神は三社によって構成され、峯の権現とも呼ばれた大麻大明神は猿田彦大神と鹿江比賣命を祀る二柱を合わせた神だそうです。

鹿江比賣命は麓に野神社として祭祀されており、また境外摂社である長井・長床神社でも祭祀されていたといいます。里宮で祭祀された大麻大明神とは鹿江比賣命であったと考えます。

その他、引用文にも鹿江比賣命は大麻彦神の后神とされていることから大麻比古神=猿田彦大神で考えると鹿江比賣命は天鈿女命に比定することができ、天円山の伝承とも繋げることもできます。

 

そして猿田彦神

猿田彦神は里宮と対である山宮で祭祀されていたと考えます。

大麻山山頂に鎮座する現在の弥山神社で祭祀されたいたと伝わるのが天日鷲津咋見命と猿田彦神。天日鷲津咋見命とは、天日鷲の部分が役職名、津咋見命は天日鷲命の御子である大麻彦神と同神として比定が可能です。そしてここでも猿田彦神の名で記述されていることから、同一神を別名で記述していたことで各々別の神として誤認識されるに至ったと考えています。

 

そして田宮。

山宮と里宮に分かれて祭祀された神々は、のちに命の源である穀物を育てる田にも祭祀されるようになります。これが田宮(宇志比古・宇志比賣神社や長井神社・長床神社)と認識するものであります。基本的には山宮・里宮で祭祀されていた祭神が田園で小祠として祭祀されているものが多いです。

 

山宮・里宮・田宮の三社による神宮形態。

このように山宮で猿田彦大神大麻比古神)、里宮で天鈿女神(鹿江比賣命)、二神をそれぞれ祭祀したものが田宮とされ、これらを全部ひっくるめたのが大麻大明神と記録されているのではないでしょうか。

さらに遠い昔、佐那河内村・入田村から粟国造粟凡直氏族により猿田彦命天手力男命、天鈿女命が天石門別八倉比賣神社に移遷されています。(松熊神社、本殿裏の猿田彦祠)これらが後に板野郡に移遷されたものが葦稲葉神社も含まれる大山積大神宮(大山寺)であり、それになぞらえた山宮・里宮・田宮で形成された猿田彦神と鹿江比賣神の祭祀場が大麻山 大麻大明神(猿田彦命・天鈿女命)であると考えたのが今回の結論。

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往古では大麻比古神社は山宮・里宮・田宮で形成された三社形式の神宮として認識されていたということです。

これは佐那河内村に記録が残されたままで所在が不明になっている「猿田彦大神宮」が当地、大麻比古神社に継承されていたのではなかろうかと推測しているのであります。

 

という訳で今回の内容はともかくとして、前回投稿からモノクロ写真が続いていたので大ヒット映画「君の名は。」風の写真に加工して添付してみました。(awa-otokoは未だ観てませんが。。。)

ちょっと雰囲気が明るくなったでしょ。それでは。(^^)

阿波井神社で隠れている神

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阿波井神社(あわいじんじゃ)は徳島県鳴門市瀬戸町堂浦に鎮座しています。

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堂浦地区と小鳴門海峡を挟んだ対岸の島田島南部にあり、クスノキをはじめとする各種の古木に全山が覆われた中に社殿が建立されています。

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神殿は元々、この山の背面にあたる内海に面した場所にあったが、江戸時代の徳島藩主家である蜂須賀氏によって現在の地に移されたとのことであります。

この神社の祭神は天太玉命大宜都比売命だけの紹介にとどまっておりますが…

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驚くことに、この神社にはまさかの神が隠れていたのであります。

ソースはこちら。(今回書き下しに自信なし… )

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阿波井神

霊験新たかなる神なり。水戸の神 秋津姫命と呼ばれるならん。おの身しも写したまわり志思ひ人のいふをも必ず叶えると曰く常なり。
今思ふに三代実録云貞観十四年十一月廿九日阿波国正六位上伊比良姫神 船尽咩ノ神並従五位下云云

船尽咩の神にして今阿波井咩神にて祀れるにや。実々社の辺りは岐水門にて是考えるに船尽ノ神とも唱へ奉る也。

追考讃岐国苅田粟井神社 帆負命を祭るよしなることも曰くこの神 阿波井 帆負と音近かかれし。

はい。 江戸時代、大麻比古神社の祭官を務めていた永井精古が記録した「阿波国見聞記」から引用しました。記された内容からすれば名方郡の船尽神社より分祀された社に間違いないでしょう。

この発見から興味をそそられるのは、忌部氏天太玉命大宜都比売命を祭祀して海を渡ったということに加え、船尽咩神: 猿田彦大神(にひじょうに近い神)も含められていたということ。

awa-otokoは、天太玉命=天日鷲命、船尽神=猿田彦大神=大麻彦神と考えていますので、ここに大宜都比売命が加われば粟ノ國創生の神である三神が、当地に勢ぞろいしていると考えることができるのです。

天日鷲命大麻彦神(猿田彦大神・船尽神)、大宜都比売命、それぞれに名前を変えながら全国津々浦々に広がりをみせておりますが、そのスタート地点が阿波井神社であったとすればとても大きな発見なのではないでしょうか。

  

また、ご存知かもしれませんが讃岐国にも粟井神社が分祀されております。こちらは手置帆負命が祭祀されているのですが、「阿波井(あわい)」と「帆負(ほおい)」の音が似ているということが述べられています。これついてはさすが少し強引な繋ぎであるのではないかと考えますが、手置帆負命と阿波井神社の関係性は少なくとも「有る」のではと想定しています。

f:id:awa-otoko:20161201221104j:image(入田町に残る謎の供養塔)

手置帆負命は、天照大神が天の岩屋に隠れてしまわれた時、彦狭知命(ひこさしりのみこと)と共に天御量(あまつみはかり)をもって木を伐り、瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営した。
天児屋命(あめのこやねのみこと)らが祈りを捧げ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞を奏したところ、天照大神は岩屋を出て、この瑞殿に入られた。 後年この間に天降りした大国主命(おおくにぬしのみこと)の笠縫として仕えたとされる。
古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の1つとして、「手置帆負命讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈されている。
また、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説がある。(Wikipediaより)

入田村 謎の供養塔に刻まれた手置帆負命についても何らかの形で関係していたように思えてなりません。入田村から船尽神(猿田彦大麻彦)が当地へ。そして淡路島、讃岐へ渡った拠点であったと想定できることから、同じ入田村から手置帆負命彦狭知命も同ルートを辿り当地に集合し、讃岐、淡路島へ移動していったという流れを引用に絡ませて想定してみました…(が、詳しくはまだ解ってないのであくまで想定)

f:id:awa-otoko:20161201222314j:image(讃岐の粟井神社)

f:id:awa-otoko:20161201222330j:image(讃岐の大麻神社

f:id:awa-otoko:20161201222351j:image(讃岐の飯神社)

讃岐忌部の祖である手置帆負命彦狭知命を入田村から阿波井神社へと関係付けたのはいささか強引でしたが、船盡比賣神がまさか阿波井神社の隠れた祭神であったのは驚きであることでしょう。

ここから新しい発見や他国との繋がりがみ出せるかもしれませんね。

ということで、新しい材料は用意したので後の調査は任せました。(誰に⁈ 笑)

それでは。(`_´)ゞビシっ。

 

オマケ。

阿波国 一ノ宮である大麻比古神社はもともと「大麻比古神社」という社名ではなかったようです。

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「一宮大麻産神社」。ちょと面白いと思いませんか?