awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫(うつし)から…

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「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」でございます。

天石門別八倉比賣神社は天石門別豊玉比賣神社とか書いて投稿していましたが、たまには趣向を変えて別の伝承をご紹介しようかなと思いまして。

 

念のために先に書いておきますが、「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」は「天石門別八倉比賣大神御本記」と同じ内容ですので悪しからず。

あと、ウィークデーということで翻訳して直ちに入力する気力は全くありませんでしたが、そんなタイミングであら不思議。ぐーたらさんが御本記を翻訳していました。こんな良い翻訳を借りない手はありません。ちゃっかり拝借させて頂きました。それでは参りましょうw

 

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古(いにしえ)天地(あめつち)の初めの時、高天原に成りませる神の名は天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)と申す。
次に国ができてから間もなく、浮き脂のようにただよえる時に生まれた神を、その形が抽葦(あしかい)の牙(もえいずる)ごとき(様の)神で、國常立尊(くにのとこたちのみこと)という。

その後にも、神が生まれられた。伊邪那岐神(いざなぎのかみ)次に妹(いも)伊邪那美神(いざなみのかみ)。この二柱(ふたはしら)の神は国、海原と山川、諸々の神を産まれた後、伊邪那岐神が左の目を洗った時に生まれた神の名を日孁大神(ひるめのおおかみ)という。

 

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これが八倉乃日孁大神(やくらのひめおおかみ)である。
最初(いやはじめ)高天原で戦に備えた後、天石門別の神に勅(みことのり)を発して今より後、汝ら我に代わって戦に備えよ。また、これは羽々矢(ははや)である、この御弓を葦原中國(あしはらのなかつくに)に持ち降りて、よき地に奉り蔵(おさ)めよと言われた。
永く爾莫用(なつかいそね)と賜りき。(高天原に還ってこの国に長く留まってはならない)われ(八倉乃日孁大神)もまた天より降りてきて、天の羽々矢(あめのははや)と天麻迦胡弓(あめのまかこゆみ)を納めるのによき所だと言われた。そのため二柱の神、高天原よりこの弓矢を持ち降りたまわれた。その時、二柱の神は天の中空に立って、この矢が落ちたところに蔵(おさ)めなさいと言って矢を放ち、落ちたところを矢達の丘という。(今は矢陀羅尾という)そのため、二柱の神、この地に矢が落ちた事を覚えておくために、広く知らしめたので、その地を矢乃野(やのの)という。
その矢を持ち帰って永く奉って、納めた所を矢乃御倉(やのみくら)という。その弓を奉りて納めた地を弓乃御倉(ゆみのみくら)という(今は「ゆの丸」という)。
そしてその後、二柱の神この地に留って(松熊二前の神はこれである)御矢倉と御弓を守られた。

 

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その後、比賣大神(ひめおおかみ)は天の八重雲を押し分け、伊津乃路(いつのち)を別けて天より降りられた。最初は杉の小川の清き流れを覧になって、この川の水は深いが大変早いと申された。その所を早渕の村という。ときに、大地主神(土宮のこと)と木股神(御井神のこと)が参り、この河の魚を漁って献上した。大神の言われるには鰭(はた)の狭物と言うべき食物であるので、その河を鮎喰川という。
時に大地主(おおつちぬし)と木股神に言われた。わたしはどこに住むべきであろうか。あなたがたよい所に案内しなさい。大地主神が答えて、ここより西の方、朝日がまっすぐに刺す山、夕日の日が照る気延の嶺があります。先導しますので、その地に行っていただけるようお願いいたします。

時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦(多くの小竹をいう)、八十玉籖(玉串のこと)などいろいろ御幣る(たてまつる)。

 

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これより西の方の杉の小山の麓にたどりついたとき、石門別神が迎えられて礼を尽くされた。大神の言うには、あなたたちは私が言ったようにして、私を待っていましたか。
(その問いには)ここは前の神宣(みことのり)のように、御矢を納めたところであると答えた。そのため(自分の申し付けていたようにしていたため)大神は非常にほめたたえてこの地に一晩泊まってから(このため矢倉の郷という、また屋度利の社という)山坂を登って、杉の小山を通り気延の山に到る。
時に広浜の神が現れて時節(ときふし)の御衣を献上した。その地を御衣足(みぞたり、または御衣谷)という。
すぐに気延の嶺の下津磐根(しもついわね)に宮柱と太敷を立て、高天原にいた様子を装い、天上のように祀り鎮座する。(天石門押し開くため、天石門別という。八倉の郷に居る姫御神であるために八倉比売という)
この夜、八百萬(やおよろず)の神々は集って宴(うたげ)を行う。その神々の集った所を喜多志嶺(きたしみね)という。その宴(うたげ)に使ったいろいろな物を納めた所を加久志の谷(かくしのたに)という。

 

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大神が(歌を)詠むには、
「雲の居る八倉の郷の喜延山 下津岩根に宮井そめとも…」
この後、大泉神が申し上げて、天の真名井の水を玉の碗に汲み移させて、朝夕の食事を炊く水とする。また小泉の神、田口の御田を献上して、御饌乃御田(みけのみた)とする。
しかし後、二千百五年を経て小治田の御世、元年龝(あき)八月に、大神は毛原美曽持(けはらみそもち)に託して言うには、わたしの宮のある場所は、はるかに高く急峻である。このために神主や祝部、巫(みこ)など、多くの若い人でも参詣するのに疲れてしまうだろう。杉の小山は高くもなく、低くもなく、遠くもなく、近くもない正によい所である。かの嶺に遷(うつ)りましょう。

大神は前に天より持ってきた瑞の赤珠(みつのあかたま)の印璽(しるし)を、杉の小山の嶺に深く埋めて、天の赭(あかつち)で覆い納めた。その赭(あかつち)は諸々の邪鬼、妖怪および諸々の病を厭(まじのう)に奇(くしひ)に妙なる験(しるし)と教え諭し賜ひき。赭(あかつち)の印璽と言って秘し崇めたてまつったのはこれである。

 

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その印璽(みしるし)を埋めた所を印璽の嶺という(また御石ノ峯とも言う)。
時に神主、祝部らは、大神のおっしゃるように(宮を)遷したてまつる。されとも霊験が無ければ諸々の人々は(大神の事を)信じないでしょう、どういたしましょうかと申し上げた。その時大神はそうであろうとおっしゃられた。そしておっしゃるには、わたしの前の谷の水が山の頂きに遡るのでそそぎ流して御田を作り、宮を造って食料を得なさい。一夜にして谷の水は逆流し、山の頭(いただき)に至る。田(の稲は)実り、その穂は八束に実って良い稲であった(その谷を左迦志麿谷(さかしまだに)と言う。その田を志留志田(しるしだ)と言う)
神主、祝部や多くの若者がその神宣の明らかである事を敬って杉の小山に宮柱太を知り立て高天原の千木(ちぎ)高知りて、天の御蔭、日の御蔭と永く隠しまして國家の大基(おおもと)を守護なされるという。
宮を移されたのが九月十三日、このためにこの日を以って御霊の現れし日として奉るのである。

 

はい。ただぐーたらさんが苦労して翻訳した内容をコピペしただけではただのパクリ野郎になってしまいます。よって少し情報を付け足してみました。

 

矢野村は神代の昔に天照大御神須佐之男命の暴悪を防ごうと背に千の箭(や)入れた靭(うつぼ)と五百の箭を入れた靭を用意し、自らも武装して須佐之男命を待ち構えた場所である。

須佐之男命は天照大御神の意思に驚き、争いの意思が無いこと示した。天照大御神はそれを受け入れたが須佐之男命の暴悪な行動は治まることは無く、さらに激しさを増した。これを嘆いた天照大御神は天窟に入ったために常闇の昼夜がない世界となってしまった。

八百万の神はこれに憂いて天八湍河原に集まり思慮した。思兼神の思慮により神楽を奏上し、天鈿女神の歌と舞に大御神が磐戸の扉を少し開いた。その際に天手力男神が大御神の手を引き出し奉わり、世界は元に戻ったという。その騒動から須佐之男命は改心した。

その後、大御神は五百箭の矢を天鈿女神、天手力男神の二神に授け葦原中国に降り、その矢を美地に蔵せと命令する。天鈿女神と天手力男は共にその地の里に矢を納めて居住した。それ故に矢倉郷、矢野という地名となった。

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天石門別八倉比賣神社は延喜式名帳に名神大社大月次新嘗とあり、太神二神に矢を納めし処なれば宮居を造り、天石門を押開け天降りった場所故に天石門別と云う。

また、矢倉郷に坐す姫神故に八倉比賣と云う。矢野神山とは喜納邊山に太神が始めて鎮座したので神山と呼ぶ。そのことから矢野神山は多くの歌人に歌われている。

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小治田の御宇には太神の神託があって杉尾山に遷座した。それ故に杉尾大明神と呼ばれる。矢を持って降った天鈿女神と天手力男神の二神は松熊二座の神として鎮座しているが、これ古くは社名を「先来待(まつくま)」と云う。

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太神は天降り、山の麓に留まり坐す。それ故に「屋止利宮(やとりみや)」、今は箭執社と云う。

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このような天照大御神を始めとする神々が降臨した地、矢野村において正月初めて當村の地に入る者、特に馬に乗ることを叶わずとあり、馬の立髪を斬竹に挟んで立て置いて遥拝してから通ることが通例とされた。遥拝をすませば馬に乗り通ることが許され、このしきたりを守らない者は落馬、馬が卒倒すると伝えられていた。

また、八百万の神達が憂いて集まった天八湍河原とは鮎喰川原と推測でき、天石門別八倉比賣神社一の鳥居は鮎喰川の堤下に存在していたが今は原となっている。

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その他には上古、神供の地には必ず五十串塚(いくしづか)があった。五十の祓串を立てて神を祀り神供の調献を行なっていた。これは「時に名を伊魔離神という神が現れて、この野の五百個の野薦、八十玉籖などいろいろ御幣る。」とあるように伊魔離神社当地が五十串塚として挙げることができる。 

 

はい。ここからが今回の真骨頂。「矢野神山 天石門別八倉比賣神社記 寫」の内容を私が考える神に置き変えて考えてみました。ここからはawa-otokoの想像となります。閲覧にご注意ください。(笑)

矢野村は神代の昔に大宜都比売命卑弥呼)が天日鷲命(男王)の暴悪を防ごうと背に千の箭(や)入れた靭(うつぼ)と五百の箭を入れた靭を用意し、自らも武装して天日鷲命(男王)を待ち構えた場所である。
天日鷲命(男王)は大宜都比売命卑弥呼)の意思に驚き、争いの意思が無いこと示した。大宜都比売命卑弥呼)はそれを受け入れたが天日鷲命(男王)の暴悪な行動は治まることは無く、さらに激しさを増した。これを嘆いた大宜都比売命卑弥呼)は気を病んでそのまま喪に服してしまった。国々の秩序が崩壊し、全ての者が安心して生活を営むことができない世界となってしまった。
大宜都比売命の八伴神達はこれに憂いて天八湍河原に集まり思慮した。八伴神の思慮により神楽を奏上し、巫女として能力が高い天石門別豊玉比賣命(壹与)の歌と舞で大宜都比売命卑弥呼)の葬儀を執り行なった。葬儀を無事に執り行なった後、天手力男神高皇産霊神)が大宜都比売命卑弥呼)の代わりに天石門別豊玉比賣命(壹与)を女王として擁立することを宣言、大宜都比売命卑弥呼)の神威を兼ね備えた天石門別豊玉比賣命(壹与)が国を治めると国々の秩序の乱れは改善された。

その騒動から天日鷲命(男王)は粟国(あわ邪馬壹国)に関東に移動を余儀なくされ、関東の地に第二の粟国(安房国)を造りあげた。
その後、五百箭の矢を持った天石門別豊玉比賣命(壹与)、天手力男神高皇産霊神)の二神が葦原中国に降り、その矢を美地に蔵した。天石門別豊玉比賣命(壹与)と天手力男高皇産霊神)は共にその地の里に矢を納めて居住した。それ故に矢倉郷、矢野という地名となった。
天石門別八倉比賣神社は延喜式名帳に名神大社大月次新嘗とある。太神二神に矢を納めし処なれば宮居を造り、天石門を押開け天降りった場所故に天石門別と云う。
また、矢倉郷に坐した姫神であった大宜都比売命卑弥呼)を偲び八倉比賣と云う。矢野神山とは喜納邊山に太神(大宜都比売命:卑弥呼)が始めて鎮座したので神山と呼ぶ。そのことから矢野神山は多くの歌人に歌われている。
小治田の御宇には太神(大宜都比売命:卑弥呼)の神託があって杉尾山に遷座した。それ故に杉尾大明神と呼ばれる。矢を持って降った豊玉比賣命(壹与)と天手力男神高皇産霊神)の二神は松熊二座の神として鎮座しているが、これ古くは社名を「先来待(まつくま)」と云う。
二神は天降り、山の麓に留まり坐す。それ故に「屋止利宮(やとりみや)」、今は箭執社と云う。

 

総括

矢野神山は喜納邊山に太神(大宜都比売命:卑弥呼)が始めて鎮座したので神山と呼ぶ。

天降った天石門別豊玉比賣命(壹与)と天手力男高皇産霊神)が鎮座した地故に矢野杉尾大明神は「天石門別豊玉比賣神社」である。

粟国から追放された天日鷲命は関東に拠点を求め、第二の粟国を開拓した。それが安房国である。

 

あくまで妄想を伝承に落とし込んだお話です。

この内容に積羽事代主神大麻比古神(猿田彦大神)などを盛り込めばさらに辻褄が合わない話になってしまうのです… いつもより強引に落とし込んでみましたが如何でしょうか。ちょっと斜めから考えて考察の幅を広げてみようかと試みましたが無理があるかもしれないですね。

あ、あくまで妄想ですのでクレームとかは無しでお願いしまーすw(笑)それでは。

有持氏ガ移遷シタ皇子権現トハ大宜都比売命ノ裔神ノコト也。

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f:id:awa-otoko:20160923193941j:image上一宮大粟神社

大宜都比売命が八随神と伊勢丹生から御馬石に降臨したことは以前にご紹介致しました。

神代に御馬に乗り給いて、八前の伴神を引率して本国に移らせ玉ひ、大麻比古、天日鷲命と共に一国経営の始めに粟を蒔き玉ひし神勲を以て御名を大阿波女神、八倉比賣命、田口大明神と申し、亦大宜都比売命と尊称奉る。
大麻比古大明神、種穂大権現 粟耕作なされ、田口大明神へ捧げ給い、国家安全を祈らせ給う。日本粟最初の山なる故、大粟と号す。是、阿波国の始まり承り伝う。
八前の伴神とは、大久保の牛頭天王、大埜地の腰ノ宮、上角の都々姫の神、中津の天王ノ宮、野間の妙見宮、白桃の妙見宮、谷の天平および北名の某社という。

 その八随神は大粟山に鎮座する大宜都比売命を護るように上山村神領の地に祠や宮を造営して往古より祭祀されてきたのでありますが…

さて、その八伴神の社において天皇ノ宮・牛頭天王と呼ばれている社が含まれております。この天皇ノ宮と牛頭天王の名所は誤りであると云い、本来は「モト皇子」だったと記録されています。もともと「皇子」と呼ばれていたものが、時代の流れとともに伝承が風化して天皇さんや牛頭天王に変わってしまったのです。
同じように「モト皇子」と呼ばれていた宮が□名(←わざとに伏字にしてあります。)に存在したしそうです。その「モト皇子」とは「皇子権現」。鎮座地付近は「皇子原」という地名まで付けらていたそうです。

しかも!!(ここからが特ダネだよ。)

この「皇子原」には阿波民部城址が存在したという記録があります。

阿波民部とはご存知、田口成良。またの名を粟田成良、重能・成能。田口一族は宮主・国造家と称して南北朝時代の初期まで大粟山庄で大宜都比売命を祭祀していた祭官家、即ち粟飯原家と源流を同じとする武家祭官家なのでございます。

今□名ニテハ皇子権現ト申シ其邊リヲ皇子原ト云ニテ知ル可シ。此社ハ阿波民部城跡ニ在リ亦同郡上浦村ニモ皇子権現ト云社在テ有持氏ノ先祖也ト云由也。按ニ有持氏ハ阿波民部ノ子孫也。谷名ナル皇子権現ハ先祖民部ガ信仰セン神故ニ彼村ニ移シテ先祖ノ神ト云欤。

この大粟山庄に存在した□名鎮座「皇子権現」は、田口氏の末裔である有持氏が鴨島町上浦に移遷しているのであります。

ふふ、勿論行ってきましたよ。

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f:id:awa-otoko:20160923192624j:image(有持神社)

付近に上浦町には王子神社、皇子神社が鎮座していないことから、たぶんこの社でしょう。
有持神社の撮影は個人敷地内に鎮座していましたので遠慮して遠巻きから。枚数も少ないです。(迷惑になりますから。)という訳で、詳しくは引用にあるように有持氏も粟飯原家と同じように粟国造一族ということですね。やっと有持氏と大宜都比売命との繋がりを引っ張ることができました。

そして… 上に記した内容から、(勘のいい方は気付いたかもしれませんが、)

大宜都比売命の神域に存在する皇子権現は大宜都比売命の後裔が神として祭祀されている。と考えられることができるのです。

 

ちょっと今回は特ダネを出し過ぎたかもしれないですが、頻繁にアクセスしてアップを楽しみにしてくれている(珍しい奇特な)方が増えているようですのでネタ三割増でサービスしておきます。(笑)

因みに伏字の「モト皇子」の宮地 即ち阿波民部の城跡は特定できていますが、ズカズカと踏み入れる場所ではないので然るべき時、然るべき人に限定公開する予定です。どうぞよろしくお願い致します。

天手力男神の系譜: 異名同神・天石門別豊玉比賣は誰なのか?

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はじめに
今回の投稿は異名同神の内容が重複します。awa-otokoが一般通説と土地の口伝を併せ、都合よく解釈している内容です。文中に理解し難い箇所も多々出てくると思いますのでご注意下さいw 異名同神については調査・研究の中で複雑化、間違った方向に誘導するとても厄介な反面、手掛かりを掴めば全ての符号が当てはまるというハイリターンな側面も持ち合わせております。今回awa-otoko的にはこのカテゴリーにおいて符号が当てはまったという訳で、、、前置きはそこそこに話を進めたいと思います。

f:id:awa-otoko:20160919142457j:image(天石門別八倉比賣神社:矢野杉尾神社)

矢野村杉尾明神を八倉比賣神社と改正せられたるは如何なる考証ある欤知らされども決めて誤り也。矢野村杉尾明神は天石門別豊玉比賣神なるべし。

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上記の引用文を記録している文書には、佐那神社に坐す二座は天手力男命、栲幡千々姫命とされていたとあります。

注:引用している文書の中にある佐那神社については伊勢神宮境内社のことを指していますが、口伝から得た情報の記録である為、伊勢国を以西と解釈してawa-otokoは佐那縣の佐那神社、即ち佐那河内村天岩戸別神社を指した内容として話を進めます。 

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f:id:awa-otoko:20160919175330j:image(佐那神社: 天岩戸別神社)

ここで云う佐那神社:天岩戸神社は御創立年代不詳。
祭神は天手刀男神、天照皇大神、豊受皇大神とされ、別名を三社皇大神宮。俗に三社様、三所様と呼ばれています。

f:id:awa-otoko:20160919163132j:image(三社 第一の鳥居)
記録による佐那神社の伝承では祭神は二座。早速整合がとれないのではないか?と考える方もおられるでしょうが安心して下さい。遠い昔は二座だったという事です。

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f:id:awa-otoko:20160919163503j:image(天岩戸別神社本殿裏の奥の院は二座) 

しかし、天岩戸別神社の祭神三座の関係を語らずしてこれまでの謎は解けません。少し難解な部分が含まれますが説明したいと思います。

 一座目は簡単に済ませます。

 

天手力男神(タヂカラヲノカミ)

f:id:awa-otoko:20160919180729j:image天手力男神の塚)

f:id:awa-otoko:20160919180941j:image奥の院 祠)

天手力男神は岩戸開きの功績から御戸開之神という御称を授けられ、天手力男神は亦の名を天石門別神とされる同神。そして皇産靈大神の末裔であり高皇産靈尊の末裔とされている神です。そうです。「手力男神は佐那縣に坐す…」有名なフレーズですね。

 結論。一座目の神は手力男神

 

二座目です。二座・三座は少々解釈が難解になります。ついてきて下さいね。(笑)

天照皇大神(アマテラスコウタイシン)

f:id:awa-otoko:20160919181024j:image(天岩戸別神社 拝殿内部)

天照皇大神こちらは栲幡千々姫命を指します。さらに栲幡千々姫命は大宜都比売命(大粟姫命・大阿波女神)と比定でき、天手力男神の御女。即ち娘にあたります。

栲幡千々姫命は大宜都比売命、大粟姫命、大阿波女神と祭神神名が合致せず、深く考えるところがあると思います。ここが挫けるきっかけになるところなんです。下記に情報を引用したのでみてみましょう。

栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)は、日本神話に登場する女神である。『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)と表記される。
古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている。『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹、第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)、第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命というと記されている。天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命瓊瓊杵尊を産んだ。(Wikipediaより)

さて、伝説によれば栲幡千々姫命は高皇産靈の子とされ、また天忍穂耳尊の妃になり瓊瓊杵命を産んだとされて伝承されています。これは付会の説です。神代紀に栲幡千々姫命は高皇産靈の子と記されていることから、これ以降の解釈・認識がおかしくなっているのです。

誤記による記録が通説になっている一例

稚日女尊、栲幡千々姫命ノ亦名ナレバ神代紀正 神功皇后紀ニ稚日女尊ノ字ヲ用イラレタルハ不相當也。此ハ神代紀ノ正書ニ又見 天照大神方織神衣居斎服殿云云ト同様ナル御傳ヘノ有ルヨリ稚日女ト申ハ大御神ノ別御名ニモヤト思ハレル。

山城国葛野郡に鎮座する天津石門別稚姫神社は、天石門別八倉比賣神の別名であり、神代紀にある斎機殿にて神の御服を織る稚日女尊は栲幡千々姫命の別名とされています。

文書によっては遠祖の巨大な神を中心に記載する傾向があるため、末裔の神については父母子など続柄を間違えられる記録をされることあります。

特に女神については娘なのか后なのか曖昧な記載が多く、挙句の果てには母と子が同じ神として合体されて認識された例もございます。

従って、栲幡姫命也は高皇産靈の末裔であることを指し、天手力男命の御女(娘)であることを、后と間違えて記載されたために起きた伝承なのです。

結論二: 手力男神の娘、大宜都比売命が天照皇大神として祭祀されています。(ただし他の二座より後に勧請されたと予想)

はいはい。このまま駆け足で説明しますよ。それでは三座目の神である豊受皇大神とは誰のことをなのでしょうか???

豊受皇大神(トヨウケコウタイシン)

f:id:awa-otoko:20160919180839j:image奥の院 祠)

稚日女尊

神名の「稚日女」は若く瑞々しい日の女神という意味である。天照大神の別名が大日女(おおひるめ。大日孁とも)であり、稚日女は天照大神自身のこととも、幼名であるとも言われ(生田神社では幼名と説明している)、妹神や御子神であるとも言われる。丹生都比賣神社(和歌山県伊都郡かつらぎ町)では、祭神で、水神・水銀鉱床の神である丹生都比賣大神(にうつひめ)の別名が稚日女尊であり、天照大神の妹神であるとしている。 (Wikipediaより)

玉依姫
記紀風土記などに見える女性の名で、固有名詞ではない。従って、豊玉姫の妹(海神の娘)や、賀茂別雷神の母などとして数多く登場する。神霊を宿す女性・巫女。

日本書紀第七の一書に、「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子として玉依姫命が見える。ここでいう児萬幡姫は栲幡千千姫命の別名で、天火明命瓊瓊杵尊の母である。
日本神話で、海の神の娘。ウガヤフキアエズノミコト(鸕鷀草葺不合尊)の妃となり、四子を産んだ。末子は神武天皇(カンヤマトイワレビコノミコト、神日本磐余彦尊)。
賀茂伝説で、タケツヌミノミコト(建角身命)の娘。丹塗矢(本性は火雷神)と結婚し、ワケイカズチノカミ(別雷神)を産んだ。
綿津見大神(海神)の子で、豊玉姫の妹である。天孫降臨の段および鸕鶿草葺不合尊の段に登場する。トヨタマビメがホオリとの間にもうけた子であるウガヤフキアエズ(すなわちタマヨリビメの甥)を養育し、後にその妻となって、五瀬命(いつせ)、稲飯命(いなひ)、御毛沼命(みけぬ)、若御毛沼命(わかみけぬ)を産んだ。末子の若御毛沼命が、神倭伊波礼琵古命(かむやまといはれびこ、後の神武天皇)となる。

古事記』および『日本書紀』の第三の一書では、トヨタマビメは元の姿に戻って子を産んでいる所をホオリに見られたのを恥じて海の国に戻ったが、御子を育てるために、歌を添えて妹のタマヨリビメを遣わした、とある。『日本書紀』本文では、出産のために海辺に向かう姉に付き添い、後にウガヤフキアエズの妻となった、とだけある。

第一の一書では、トヨタマビメが海の国へ帰る時に、御子を育てるために妹を留め置いた、とある。第四の一書では、一旦トヨタマビメは御子とともに海に帰ったが、天孫の御子を海の中に置くことはできず、タマヨリビメとともに陸に送り出した、とある。

「タマヨリ」という神名は「神霊の依り代」を意味し、タマヨリビメは神霊の依り代となる女、すなわち巫女を指す。タマヨリビメ(タマヨリヒメ)という名の神(または人間の女性)は様々な神話・古典に登場し、それぞれ別の女神・女性を指している。例えば、『山城国風土記』(逸文)の賀茂神社縁起(賀茂伝説)には、賀茂建角身命の子で、川上から流れてきた丹塗矢によって神の子(賀茂別雷命)を懐妊した玉依比売(タマヨリヒメ)がいる。

他に、大物主の妻の活玉依毘売(イクタマヨリビメ)がいる。日本書紀崇神紀には、活玉依媛(イクタマヨリビメ)とあり、天皇(中略)而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。
天皇、大田々根子に問ひて曰はく「汝は其れ誰が子ぞ。」こたへて曰さく「父をば大物主大神と曰す、母をば活玉依媛と曰す。陶津耳(すゑつみみ)の女なり。」亦云はく「奇日方天日方武茅渟祇(くしひかたあまつひかたたけちぬつみ)の女なり。』と記されるとおり、活玉依媛の親を陶津耳またの名を奇日方天日方武茅渟祇としている。

全国にタマヨリビメという名の神を祀る神社が鎮座し、その多くはその地域の神の妻(神霊の依り代)となった巫女を神格化したと考えられる(一般には、神話に登場するウガヤフキアエズの妻のタマヨリビメとされることが多い)。賀茂御祖神社下鴨神社)に祀られる玉依姫は『山城国風土記』に登場する玉依姫である。(Wikipediaより)

 

天忍穂耳尊の后になったのは玉依姫命
その玉依姫命は栲幡姫命の御女。娘です。

栲幡姫命と玉依姫は同神ではないことは天照皇大神の項で語った通りです。

 と、いう事は…

玉依姫も手力男命の系譜を受け継ぐ資格を所有。またその立場を明確に知らしめる為に「天石門別」の御称を継承した姫 。それ故、「天石門別豊玉比賣神社」なのです。
祭神 天石門別豊玉比賣命。またの御名を玉依姫、壹与(トヨ)、稚日女尊。豊受皇大神とも。

豊受皇大神って大宜都比売命じゃないの?と思う方も居るかもしれませんが、awa-otoko的に色々と調査をしていると豊受皇大神、倉稲魂などは大宜都比売命とその御子や御女を集合体としたものが豊受皇大神と認識されている部分があることが分かってきました。上記の説明にある通り遥か昔の話なので娘が后になっていたり、母と子が同じ神として誤認されていた事例は多々あります。

 

豊玉比賣命とは手力男神の子である大宜都比売命の娘たる神。壹与(トヨ)を当て字にした「豊」、玉依姫命の「玉」、そして手力男神の系譜を受け継いだ姫としての御名「天石門別」。全てを併せた諱(いみな)が「天石門別豊玉比賣命」なのです。
因みに壹与を補佐した高皇産霊とは天手力男のこと。また海神(綿津見)の大神の側面も持ち合わせています。
大日孁神(卑弥呼)の後を継いだ稚日女神(壹与)は、天石門別八倉比賣(大宜都比売命)の後を継いだ天石門別豊玉比賣(玉依姫命)の母と子の間柄になるのです。

 

天石門別神社 三座の話に戻しましょう。


結論総括。

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佐那縣に鎮座まします天岩戸別神社は本来、天手力男神(亦の名: 天石門別神、高皇産霊)と豊玉比賣(亦の名: 玉依姫稚日女尊、壹与、豊受皇大神)の二座で祭祀された神社である。のちに大宜都比売命(亦の名: 大粟姫、大阿波女神、栲幡千々姫命、卑弥呼)が天照皇大神として追加された。

 

往時、天手力男命玉依姫命を補佐した勢力(末裔)は韓背足尼、長国造氏族となり、栲幡姫命こと天照大御神こと卑弥呼こと大宜都比売命崩御したあとに粟国を繁栄に導いたと考えられます。


佐那河内村より西が天石門別八倉比賣神社の領域、東が天石門別豊玉比賣神社の領域と考えられ、名西郡名東郡に分けた本意はそこにあると考えています。

従って天岩戸別神社は北上し、鬼籠野 椙尾明神に移り、さらには国府が置かれた矢野 杉尾神社へと移動していったと考えます。

だから、元矢野 杉尾神社である現在の天石門別八倉比賣神社は、「天石門別豊玉比賣神社」なのです。

 

f:id:awa-otoko:20160919175940j:image(長国造の裔が神官を務める佐那河内 大宮神社の碑)

これで阿波に伝わる天岩戸別神社が「天石門別豊玉比賣神社の元社」であるという隠されたものが多少は理解できたのではないでしょうか。

因みに今回の説から考えたら天照大御神の弟、須佐之男命は忌部神 天日鷲命になります。天村雲神社が麻植郡に鎮座しているのは…
語りだすとまだまだ広がり過ぎるので今回はこの辺りで締めさせていただきます。機会あればまた語りたいと思います。

阿部氏が大宜都比売命に仕えた理由(わけ)

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名西郡神領氏神由来傳羕之覚
當社上一宮巻大明神御神号大粟姫命亦大宜都比売命トモ申奉リ其ムカシ伊勢国丹生ト云フ処ヨリ當村丹生ノ内山へ御出アラセラレケル其則私古ノ先祖木挽職ニテ右山へ罷出候折不斗御月ニトマリ給ケルニヤ
大粟姫命曰ケルハ其方給物処持㪈サスヤト被仰幸ヒ米持参仕候ニ付清浄ニ御飯炊キ杣事ニテ奉献候折御感付俴思ワサレニヨリ右山ヲ枌ノ尾曰ト今ニ地名申来候大粟姫命曰ケルハ我當村ノ氏神ト相成候間向後我飯焚ト相成候様先祖へ被仰付御直筆頂戴仕ル 其節御馬ニ召レ候币折節天火ニテ頻ニ御馬近クノ山焼ケ来リ候ニ付御召馬ヲ石トナシ給ヒケル今ニ其石馬ノ姿ニ相顕レ此処ヲ御馬石ト申テ只今舊跡ニ御座候
アル時雨降来るリ候ニ付岩洞ニテ暫ク御腰ヲ懸ケ御雨凌キ被遊ケル此処ヲ降腰ト申テ今ニ小社御座候
コレヨリ大野地名川縁ニ御腰ヲ懸ケ給ヒケル此処ヲ越ノ宮ト申テ今ニ小社御座候
上角名ニテ御装束ヲ被遊御改貳丁許山上ニ御鎮座在ス此処ヲ大粟山ト相号シ則數地ノ水流ヲ装束谷ト申傳ヘケル
然ル処其刻御社ノ前通行ノ人々馬竹駕或ハ雨天之砌笠杯着シテ土俗行通ヒ㪈事決而不相成大ニ迷惑仕候ニ付貳丁許右御社ヲ下ケ御座候折何ノ障モ無之相成申候尚又寶暦年中ニ相至リ只今ノ社地へ奉移候云云
私先祖之傳記アラカシメ書顕御達申上候以上
天保十亥年九月
神領神職 阿部但馬


上記は大宜都比売命に仕えた先祖の経緯を阿部但馬が書きあらわしたもの。今回はちょっとふざけてawa-otokoがawa-otoko訳に変えてご紹介致します。(イヤな予感…笑)

 

f:id:awa-otoko:20160918001507j:image(御月と考えられる場所)


以西(いせ)からやって来た大宜都比売命は御月という場所で木挽をしていた阿部氏先祖と遭遇しました。大宜都比売命は挨拶もそこそこに、「何か食べるものとか持ってない?」と尋ねてみました。そうすると以外なことに阿部氏先祖は、持参していた米を使用し、丁寧な調理をして大宜都比売命に食べさせてくれたのです。
阿部氏祖先は本来、木挽職の他に農業(米作)に長けた者であったいう暗示が含まれているように感じます。大宜都比売命の臣下に入ってからは祭官の能力を遺憾なく発揮しているように記録からは見て取れます。


食事を準備して貰った大宜都比売命は、阿部氏祖先のことを「コイツは使える!!」と思い、阿部氏祖先も「転職先ゲット!!」と双方の思惑が交錯し(たかどうかはわかりませんが)、大宜都比売命は阿部氏の居住地範囲の氏神になることを約束します。また、阿部氏の先祖は大宜都比売命の専属調理師に従事することになったのでした。その時の約束や辞令は直筆で書いて契約したそうです。
大宜都比売命は阿部氏祖先から異文化の伝授と情報交換を、阿部氏祖先は大宜都比売命の巫女能力による集落、また氏族に対して精神的支えになることを要求したのではないでしょうか?

f:id:awa-otoko:20160918001746j:image(御馬石と祠)

 


さて、晴れて村の氏神になった大宜都比売命は張り切って御月の山を馬に乗って巡回していました。しかし、その時に近くの山で山焼きしていたことを知らされていなかった大宜都比売命と馬は運悪く火に囲まれてしまいます。狼狽えた大宜都比売命は馬に乗って逃げず、何を思ったのか愛馬を石に変えてしまいます。それが後に幸いし、石に変えられた馬は「御馬石」と呼ばれてパワースポットとして認定されました。
御馬石周辺の山々では山上農法として山焼き:焼畑農業を運用していたこと暗示しています。御馬石周辺は山肌の急斜面であり、小規模な窪が各所に存在するのみ。丹生ヶ山という名称があるにあたり、山焼きの実行は農業の他に目的があったのかもしれません。


f:id:awa-otoko:20160918001934j:image(天王社)

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火の手から避難した大宜都比売命は、馬を見捨た後ろめたい記憶を早く忘れたかったので御馬石より場所を離れて散策していました。
散策の途中に雨が降ってきました。雨をしのぐために窟を見つけて腰を下ろしましたが、その場所が後に降腰(ふるこーし)と呼ばれるようになりました。今の天王神社がある場所です。

 

f:id:awa-otoko:20160918002056j:image(腰ノ宮)

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雨が止んだので降腰から川縁に沿って降りてきました。川べりを歩いて疲れたので、また腰を下ろしました。その場所が現在の腰ノ宮神社の場所です。
"腰を下ろした"と伝わる場所は、大宜都比売命大宜都比売命臣下が"拠点: "を置いた場所と考えられます。大宜都比売命にまつわる地名が付けられている場所には随神を祭祀した社が存在していました。

f:id:awa-otoko:20160918002219j:image(装束谷)

 

巡回が終わった大宜都比売命は衣装を着替え、山の上で神事を執り行なおうと考えました。着替えた場所には装束谷という名前が付き、神事と大宜都比売命自身が生活する山は大粟山という名前になりました。


f:id:awa-otoko:20160918002259j:image(大粟山)
f:id:awa-otoko:20160918002333j:image(天辺ヶ丸)

 

大宜都比売命の趣味であるガーデニングで粟を試したら上手く繁殖したので民にもおすすめして育て方も教えてあげました。粟を繁殖させる方法の伝授と神事が素晴らしかったことから、大宜都比売命は大粟姫命とも呼ばれ、さらに崇められるようになりました。
神事は大粟山山頂の天辺ヶ丸で執り行ない、終われば装束谷にわざわざ移動していました。大宜都比売命の巫女能力はずば抜けており、様々な神託を降ろしてクニを繁栄に導いたと思われます。また、集落の人口が増加する過程において粟の育成を推奨、民の食料事情に貢献したと想定します。

f:id:awa-otoko:20160918002410j:image(古祀場)

 

時代は大きく流れ、大宜都比売命はさらに威厳が高い神となっていました。何故か大粟山の前では馬に乗ったり、雨の日に笠を被ったら失礼にあたるということが勝手に決められました。当然付近の住民からクレームが出始めます。
昔は高い場所ほど神の威厳が高く拡散すると考えられていたので、神の威厳を少し低くするために大粟山の山頂から麓に社を下ろしました。それが明治期の大宜都比売命の社の場所です。
中世以降は大宜都比売命の神威を表向きにして一宮祭官家が統率を図り、民衆が迷惑を被ったと考えられます。一宮祭官家は神領村の神宮寺に隠居し、一宮家が滅びると再び阿部氏が祭官家を継承することになって現在に至るのであります。

と、いうところで阿部氏祖先が大宜都姫命に仕えた理由は…
阿部(阿閇)氏が大宜都比売命の臣下に属すにあたり、阿波国内はもとより日本列島津々浦々、また朝鮮半島にまで行動の範囲を拡げております。
個人的な調査結果から推測するに、大宜都比売神の巫女能力を阿部氏は継承したと考えられ、様々な神の名をもとに信仰を拡げております。 
そうです。阿波女社祖系です。即ち阿部氏は阿波女氏。(だと思っている。個人的には。)
海人族と融合して阿波国より瀬戸内海、近畿圏、北陸日本海まで活動を拡げられたメリット。
当時、大宜都比売命という神は神々の中でも別格の勢力であったと推測できます。異文化を有し、絶対の存在感を持っていたはずなのです。そのようなバックボーンは氏族からは喉から手が出る程に有していたはず。
そして何より阿部氏は武力より神の能力を選択して氏族の能力を高めていった。それを得ることができた阿部氏はとても運に恵まれた氏族であり、先見の明があると言えますよね。


と、いう訳で次回テーマは!?
矢野村杉尾明神を八倉比賣神社と改正せられたるは如何なる考証ある欤知らされども決めて誤り也。杉尾明神は天石門別豊玉比賣神なるべし。です。乞うご期待。(変更するかもしれませんが。笑)

弓折の椙尾明神

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阿波・土佐・淡路の守護職として白鳥村鳥坂に居城した佐々木経高は承久三年(1232)後鳥羽天皇の詔を奉じて兵を起こしたが敗れて自殺した。

鎌倉幕府は佐々木氏に代わり小笠原長清を阿波守に任じ、長清は阿波へ入ると、まず佐々木氏の居城であった名西郡の鳥坂城を攻めた。ほとんど兵のいない鳥坂城は簡単に墜ちて炎上した。留守を守っていた経高の二男 佐々木高兼は家臣 平岡六郎利清が長男 佐々木高重の子、秀経を抱きながら一族郎等山中へ敗走することになる。
小笠原氏は高兼の生存を許さなかったために追走は厳さを極め、ついに鬼籠野村の山中で高兼は身柄を確保されるに至った。高兼は一族と家臣達が百姓となり、この地に住む事を条件に自ら弓を折ってから腹を切って自害したという。佐々木高兼が自刃した地が神山町鬼籠野の弓折である。

鬼籠野 弓折の地名の由来でした。
弓折は後に蜂須賀氏が阿波入国した際に、武家が治める地において弓折の名を忌み名とし、阿波国(一宮城からみて)初めての坂ということで「一ノ坂」と改名させ、現在の地名も「一ノ坂」です。また佐々木高兼の功により生きながらえた一族は佐々木姓を継承し、武家の血を絶やすことなく現在も尚この地で生活を営んでいます。

以前に鬼籠野神社のテーマの中で鬼籠野村 椙尾神社について一部触れました。土地感がなかったawa-otokoは鬼籠野神社周辺に椙尾神社が鎮座するものとばかり考いたのですが…

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調べてみれば弓折の地は西竜王山の真裏、深い山中の谷あいにある集落でありました。ちょうど神山と佐那河内と境に位置する場所にあたり、昔は山越えで鮎喰川方面に抜け移動していたと推測します。また、山越えして弓折に降りれば船戸川が流れており、古来物資の輸送は船で行っていたとも考えます。 

さてさて、件の弓折鎮座の椙尾神社ですが…
たぶん、現地の方に場所を聞かないと行き着くことは叶わないでしょう。弓折の中の弓折、中心部(一ノ坂)に車を駐車し、椙尾大明神の参拝に向かいます。


椙尾神社はスダチの木々に囲まれ、二秀峰の山麓に鎮座することから社殿が道路から見えません。参道もスダチの木々に隠されていることで、細い路地を辿って行かなけれなりません。

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神社本殿を確認してかなり驚きました。社殿は山を背にして石積みで高い位置に造られた要塞に見えます。

椙尾大明神と彫られた手水鉢、当社筆頭氏子であろう佐々木氏が連名で刻まれ、常夜灯には一ノ坂名講中とあります。

f:id:awa-otoko:20160910235719j:image(手水鉢)

f:id:awa-otoko:20160910235735j:image篤志寄付者)

f:id:awa-otoko:20160910235751j:image(常夜灯)

この椙尾神社が矢野村 椙尾神社(現 天石門別八倉比賣神社)の分祀であると考えられる理由は二つ。


鳥坂に居を構えていた佐々木氏は息長田別皇子が神領より勧請した大宜都比売命の社の存在が身近に存在したことから氏神として祭祀していた。当主が討死、次期当主も自刃、農民となっても佐々木家の再興を祈願するため矢野 椙尾大明神を弓折に勧請した。

 

古代から佐那河内村で祭祀されていた天石門別豊玉比賣神社を勧請した社(祠)が元々、鬼籠野 弓折に存在しており、同じ流れを汲む(と思われる)矢野 椙尾明神と同じ祭神として祭祀した。

 

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あくまで個人の想定範囲内での内容でございますので参考程度で考えて頂ければと思います。(佐々木一族の中から弓折の椙尾大明神の由緒が記載された古文書が発見れれば面白なると思います。)

 

何故、それほどまでに「弓折の椙尾明神」をピックアップするのか…

当社、弓折 椙尾明神は大宜都比売命こと大日孁命である天石門別八倉比賣命と、その次期後継者である豊玉比賣命(壹与)こと、壹与孁神である天石門別豊玉比賣命とを判別する大きな鍵を握っていると思われるからです。(今後の調査に期待ですネ。)

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余談ですが、椙尾神社は椙尾明神。祟り神の一面も持ち合わせているように感じます。佐々木一族を壊滅させた小笠原一族(が祭祀した一宮大明神)を牽制するかの如く、椙尾明神として祭祀し、佐々木一族は興隆の機会を伺っていたのかもしれません。だって場所的に考えると一宮大明神として祭祀しても問題はなかったのですから…

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神殿扁額には「椙尾大明神」が記載されていますが、境内には「椙尾明神」と刻まれた石物が目に付きます。境内に並ぶ五つの祠が佐々木一族の祠… とすれば、明神(祟り神)こそ、この五つの祠で祭祀されている方々なのかもしれませんね。

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考え過ぎ、、、ですかねぇ。。。