awa-otoko’s blog

阿波の神秘的、不思議、面白い場所を記紀や地域伝承と絡めて紹介します

井内谷から祖谷へ(もう一つの平家落人と安徳天皇伝説)

f:id:awa-otoko:20160804001232j:image

寿永四年二月二十一日讃岐八(屋)島の合戦にやぶれた門脇中納言次男 平国盛公は安徳天皇を守護した奉いながら三好郡の井内谷から祖谷山へ入山した。

国盛公、讃岐八(屋)島より落ち、志度にやどる、義経志度を犯す、国盛兵を引具して讃岐白鳥に引き移る、其れより水主庄に渡り、同所に月を経、同年同所を立ち、阿陽(阿波)大山を越え、金丸稲持庄井川を経て井内谷地福寺まで落ち来り、地福寺に暫く逗留し、極月下旬同所を辞し、大晦日祖谷大枝名へ入山…

井川町辻から井内谷川に沿った道を五㌖ほど遡れば、「馬岡新田神社」が鎮座しています。祭神は安徳天皇、平国盛、新田義治、埴安姫命でございます。

こちら「馬岡新田神社」こと「馬岡大明神」ですが、「馬岡大明神」とは安徳天皇であるという伝承が残されております。

 

f:id:awa-otoko:20160804001410j:image

f:id:awa-otoko:20160804001455j:image

f:id:awa-otoko:20160804001513j:image(三好郡 馬岡新田神社)

馬岡新田神社

この神社は、延喜21年(921年)選進された延喜式の中に載せられたいわゆる式内社で「波尓移麻比祢神社」と称した。現在同神社に秘蔵されている室町神社の和鏡には側面に「波尓移麻比祢神社御神鏡」と釘彫りされ、室町時代という古い時代から波尓移麻比祢神社と呼ばれていたことがわかる。その後、祖谷へ落ちて来られた安徳天皇を合祠し(元暦年間)更に天正年間に新田義治を合祠し「波尓移麻神社馬岡新田大明神」と改称した。明治27年「馬岡新田神社」と改称し現在に至っている。武大神社と、八幡神社とあわせ三社の森と呼ばれている。 三社の森の中の馬岡新田神社の二本の杉は、周りが6mもある、銘木である。(社頭掲示板より)

 馬岡新田神社については、江戸時代の歴史書「阿波志」や「阿波史」も認めており、また後述の遺品などにより間違いないであろう。当時の社名は「波爾移麻比称(はにやまひめ)神社」と呼ばれ、農業神の波爾移麻比称命(埴安姫命・はにやすひめのみこと)を祭ったものである。
現在、馬岡新田神社に遺されている神官の先祖千日太夫の大永二年(一五二二)の記録に波爾移麻比称神社とある。また、神社の宝として伝えられる竜頭(りゅうず)に正治二年(一二〇〇)五月吉辰大工藤原高綱とあり、木鳥の背に「埴山姫神社」と彫られている。
また、明治四年に神社の庭から出土した室町時代の銅鏡の側面に「波爾移麻比称神社御神鏡」と釘彫りされている。これ等を総合して考えるとき馬岡新田神社は、千年以上も昔の百科事典『延喜式』に掲載され、以来ずっと信仰されて来た由緒ある神社ということがわかる。(徳島県神社庁公式HPより)

馬岡新田神社と波爾移麻比称神社については色々語りたい部分はあるのですが、今回は安徳天皇のテーマで進めるので別の機会に。。。

さて、馬岡新田神社の近くに地福寺という古い寺があり、地福寺では平国盛公をはじめとする落ちのびて来た平家落人達の傷の手当、討死した平家一門の供養を行った寺として古来より伝えられています。

f:id:awa-otoko:20160804001611j:image

f:id:awa-otoko:20160804001621j:image(三好郡 地福寺)

証拠となる平家一門の位牌は現存していませんが、国盛公の父である教盛の位牌は残されているそうです。樅とも栂ともいわれる木で作られて、黒漆を塗り、朱で中納言教盛公位と書き記された教盛の位牌は、ご本尊大日如来坐像の左側に置かれて祭祀されているとのことです。

当時、地福寺の僧や住民から厚くもてなしを受けた国盛公一行は傷を癒し、先祖と一門の追悼供養を済ませたところで祖谷山入山を決意します。

井内谷を去るにあたり、安徳天皇は当地の人に自分の玉馬を下賜されたといいます。下賜された馬は、井内谷の住民にらよって大事に扱われていたようですが、間もなくして死亡してしまいます。

死亡した玉馬は手厚く葬られ、「中の宮(埴山姫神社:現在の馬岡新田神社)」に合祀された。このときより「中の宮」は「波尓移麻比祢神社馬岡大明神」と呼ぶようになった。と伝えられています。

元暦2年(1185)の屋島合戦に敗れて當地に落来た安徳天皇の御分霊を馬岡大明神と称して、波爾移麻比祢神社に合祀した上、南北朝期に當地八ツ石城に拠つたといふ新田義治公を奉祀し、新田神社として波爾移麻比祢神社に合祀するに到り、それより波爾移麻比祢神社馬岡新田大明神と称するに到つたという。「井内谷村誌より」

 

f:id:awa-otoko:20160804001850j:image

どうも玉馬のくだりだけで名付けられたのではなさそうな「馬岡大明神」です。

 

安徳天皇井内谷の氏神として「馬岡大明神」として奉祀され、国盛公とその子孫が支配した祖谷 阿佐名の後裔は、全て井内谷 地福寺の檀家となっています。


また、奥祖谷の阿佐名、前祖谷の小祖谷名、いずれの氏神も「馬岡神社」であり、長い長い年月を経てなお、安徳天皇の祭祀は「馬岡大明神」として継続されているのであります

さて、祖谷にご入山あそばされた安徳天皇は、霊峰石立山(剣山)に「御剣」を奉納され、源氏の滅亡と天下平定を祈願しました。奉納された御剣は剣山円福寺安徳天皇の尊像と共にお祀りされ、多くの信者の崇敬のまとになっていました。

 

f:id:awa-otoko:20160804001933j:image

f:id:awa-otoko:20160804001943j:image(日本最古の物とされる平家の軍旗:レプリカ)

f:id:awa-otoko:20160804002429j:image(平家落人後裔が所有していた備前長船 二振り)


しかし、後の時代に噂を聞きつけた賊が円福寺にしのびこみ、寺宝であった鎧や太刀などを盗ということがありました。以来、剣山円福寺の別院でもある地福寺にお移し申し上げられて細心の注意を払ってお守り申しているとのことです。
と、いう訳で、安徳天皇の御剣(草薙剣?)は静かに三好郡井内谷の地福寺に安置されている。ということであります。(御剣は未公開)

 

このように三好郡井内谷より祖谷山へ移動した平家落人と安徳天皇の伝説は現在も語り続けられております。以前にも紹介したように、神山町東宮山から木屋平へ移動した平家落人と安徳天皇伝説も残されています。

この二つの伝承から平国盛以下、平家落人は阿讃山脈を越えてから名西郡麻植郡、三好郡の広範囲に拡散して剣山を目指していたことが推測できます。そして情報の撹乱も行いながら移動したために、数カ所に渡って安徳天皇の伝説が残されていると考えます。(移動経路、目的地に到着した際の行動が用意周到なことから先遣隊を設け、また安徳天皇の替え玉も用意しての移動も推測できます。)

 



f:id:awa-otoko:20160804002739j:image

f:id:awa-otoko:20160804002801j:image

f:id:awa-otoko:20160804055755j:image(東祖谷民族資料館)

 

最終的には剣山に到達して御剣の奉納と祈願は達成し、祖谷に安住の地を手に入れること叶いました。しかし安徳天皇が祖谷で崩御されたことが大きく予定を狂わせました。安徳天皇を擁護し、京に戻ることが不可能になったからです。
平国盛の後裔や一族の者は苗字を変えながらさらに南下、土佐方面に移動して土着します。それによって安徳天皇・平家落人伝説も伝承されることになったのでありました。

今回の内容はネタ的には派手さはないものの、後々の投稿から繋がって大きな意味が出てくるものだと考えています。いつになるかはわかりませんがそれまでお楽しみにしておいてくださいね。

隠された羽津明神と飯裹大明神の秘密

 f:id:awa-otoko:20160730183323j:image

三好町昼間の天椅立神社は歴史が古く昼間全体の氏神であります。阿波志によれば、もともとは羽津明神という名で呼ばれた延喜式内社と記録されております。

 

f:id:awa-otoko:20160730183653j:image

f:id:awa-otoko:20160730183720j:image
貞治三年(1368)、雲辺寺の鰐口の銘には阿波国田井荘、羽津宮… 」とあり、南北朝時代には羽津宮と呼ばれていたこともわかります。

f:id:awa-otoko:20160730183740j:image(立法寺の基礎石)

さらに慶長十一年(1606)の棟札には僧、禰宜十人、政所外百二名の名を連ねて「庄内安穏」と記録されていたようです。宮内と呼ばれる地域差全体が境内とされ現在地南100㍍の水田の中に大きな二つの鳥居の沓石が並んでいたとも伝承されています。

f:id:awa-otoko:20160730183636j:image(昔から地域的に吉野川氾濫に悩まされていたようで、大水が出た際は周囲が海のようになっていたようです。つまり大水が引いた後は豊かな土壌が約束されたということです。)

以上のことから田井の荘 羽津宮は如何に隆盛を誇っていたか判断できるでしょう。

羽津明神は明治期に当社神主、近藤忠直により式内社であると提唱され、明治三年に正式に天椅立神社として定められ現在に至るのであります。


さて、羽津明神こと天椅立神社の由緒、創建は不明。祭神は伊奘諾尊と伊弉冉尊の二柱。御祭神が伊弉冉尊伊弉冉尊。国生みの神ですね。とても格式高い神様で結構なことなんですが、私はいつの時代かわかりませんが、祭神がすり替われっていると考えるのです。その理由は(知っている人も多いと思いますが)こちら。

対岸の井川町に伊弉冉尊を祀る神社があり、同日に祭りが行われる。井川町鎮座の神社が姉神なので、神輿とだんじりを早くだす習慣が戦前まで存在していた。

f:id:awa-otoko:20160730185221j:image

はい。井川町鎮座の神社とは、飯裹(いつつみ)神社のことでございます。飯裹神社の由緒を確認下さいませ。

f:id:awa-otoko:20160730185237j:image

井川の野津後の山上に飯裹神社は鎮座する。
神社の由緒によれば、享禄四年(1531)正月、高島というところに桑の大樹があり、毎晩灯明をあげたように光って見えた。土地の人が不思議に思って尋ねていくと、握り飯五個を包んだものが大樹の下にあった。これが光っているのかと持ち帰り、現在の神社の場所に祀って「飯包大明神」と呼ばれるようになったと伝えられる。

f:id:awa-otoko:20160730185315j:image

f:id:awa-otoko:20160730185327j:image

そもそも飯裹とは、【包み飯・裹み飯】から引用されたもの。

【包み飯・裹み飯】

強飯こわめしを木の葉などに包んだもの。古代、儀式などの際、下級の参加者に給した。

 社名からも判断できるように飯・稲が見え隠れしているように感じます。しかもというキーワードも隠されております。そして極めつけは祭神。

 飯裹神社の祭神は、稲倉魂神保食神」、「埴山姫命、「大己貴命」、「少彦名命」。(ぜんぜん伊弉冉尊じゃねェ〜〜(笑))

もろに大宜都比売命なんですねぇ。

 

そして飯裹神社にも天椅立神社と関連する伝承が残されています。

昼間村のひょうたん島に毎年虫がついて困っていた。そんな時占い師がきていうには、もともと天椅立神社の祭神と飯裹神社の祭神埴山姫命とは仲睦まじい神である。それを昼間の神様と野津後の神様を日を違えて祭るので神様が怒っている。以後、日を同じにして御幸の時間も同じにした方が良いと告げた。村人はこれに従い、その後は飯裹神社の神輿がでれば、天椅立神社の神輿も遅れてはいけないと出すようにした。それ以来昼間あたりの虫害はなくなったそうである。

天椅立神社の伝承と飯裹神社の伝承を照合してみれば多少ですが相違がみられます。

天椅立神社は男神、飯裹神社の祭神は埴山姫とされています。飯裹大明神は羽津明神の姉神ではなかったかのか?でもそうであれば天椅立神社本来の羽津明神とは何者なのか???

積羽八重事代主神「積羽(つみは)」が逆転して「羽津(はつ)」に。

またぐーたらさんの後追いになりますが、「天津羽羽神」の「(天)津羽(つは)(羽)」が逆転して「羽津(はつ」転訛したのだと考えます。天津羽羽神とは大宜都比売命と同神とされている神。

という訳でここからさらに私の想定に入ります。

古来より三好郡を治めていた小笠原源氏。小笠原氏が神山 神領の粟国造家を(滅ぼしたか穏やかに介入したかは不明であるが)神官家に入ったことは既出であります。

当然ながら、これを機会に神山と三好郡との行き来は盛んになって祭祀も移動されたはずなのです。

この時に大宜都比売命と積羽八重事代主神の祭祀を小笠原氏と粟飯原氏(千葉氏)が三好郡に分祀したとしたら???

その他にも神領から伊予三島への行幸の際に古来より小笠原氏が協力していた可能性も考えられ… (神山と三好(伊予三島)の行き来の際に、ちょうど中間に位置する麻植郡忌部が嫌悪感を示し、一宮大明神氏子と仲違いしたことも考えられたり… )

また、これらの一族、祭祀の移動裏付けるように粟飯原氏が三好郡加茂村に移動し、横田氏に改名して祖神を祭祀したのが「横田神社」という記録もございます。

 と、いう訳で、

天椅立神社こと羽津明神とは「積羽八重事代主神」。

飯裹大明神こと埴山姫命とは「大宜都比売命」。

阿波が粟たる所以であるこの伝承、

味鉏高日子根命は阿波女神ノ御夫にて粟国造粟直凡等之父神也。名東・名西・板野・阿波・勝浦・那賀・海部等七郡本来の人種は皆、此神の氏子なれば何れの人も詣来りて此神石を拝すべし。

こちらに麻植郡が含まれず美馬(三好)郡が含まれていないのは羽津明神と飯裹大明神の秘密が解かれていなかったからかもしれませんね。 

あ、最後に。

飯裹大明神が羽津明神の姉とされたのは飯裹大明神から分祀された可能性があること。

羽津明神、飯裹大明神に夫婦として積羽八重事代主神大宜都比売命が二柱として祭祀されていた可能性も大です。言わずもがな二柱が伊奘諾尊・伊弉冉尊に置き換えられたことも書いておきますね。

 

最後の最後。。。

f:id:awa-otoko:20160730202900j:image

飯裹大明神、倭大國魂神社の神紋と同じだぜ。これで全部繋がるのではないかい?!

真説⁈ 膳・椀 貸し穴の伝説

f:id:awa-otoko:20160728214149j:image

近世以前の日本では、家に家族に必要な数以上の食器を持たなかったため、婚礼など人数が集まる催しの際に余所から膳や椀を借りるという状況はしばしば発生した。

貸してくれる相手は童子や河童、龍、お地蔵様や例のように正体不明であったり様々である。貸してくれる場所は淵や滝、岩や山陰の洞穴、隠れ里に直接取りに行く場合もあり、やはり様々である。比較すると水に因む場所が多く、水神少童譚や水神信仰との関連が考えられる伝説も多い。物語には既に膳椀を貸してもらえる関係ができている場合や、椀が川の上流から流れてくるなどして異界や隠れ里を発見する場合もある。

この伝説には、不心得者が返さなかったとされる椀や、反故にした証文などが残っている家や地域がある。それらの品々の中には木地師との関係を伺わせるものがあり、木地師との交易の際に聞いた口上が伝説になったという見方がある。また、膳椀を村の共有財産としている地域では、借りたものを盗むな、壊すなという戒めを含んだ説話であるという見方もある。(Wikipediaより)

全国的に分布する「膳・椀 貸し穴伝説」。当然ながら阿波にも同様の伝説が残されており、板野郡 岡上神社の塚穴、三好郡 秀森の塚穴なども伝説が残されています。

客事があるときに村人が膳と椀を借りにいき、「明日◯十人前お願いします。」と頼んでおくと間違いなくそれだけの膳と椀を用意してあった。用が済めば「ありがとうございました。」といって返せばよいのでことあるごとに利用した。しかし、不心得者がいて借りたものを返さなかったので、それ以来貸してくれなかった。というのが決まった顛末なのであります。

f:id:awa-otoko:20160728215755j:image

f:id:awa-otoko:20160728215830j:image

そのような「膳・椀 貸し穴伝説」。私が初めて耳にした時はこんなフィクション、何から創作したんだと特に気にもとめずにスルーを決めこんでいましたが、とある関連からいろいろ調べてみると、とても興味深い内容が出できたのでした。

 

f:id:awa-otoko:20160728220240j:image

昔、第五十五代文徳天皇の第一皇子である惟喬親王の遺民たちは天皇器地祖神神社の神人氏子として、東は駒のひずめの通うほど、西は櫓・櫂のたつほどに日本国中諸役御免の綸旨を笠に、天皇器地祖神神社の菊花御紋章入りの絵符提灯を振りかざし、諸国の森、官司の別なく、思うままに樹木を切り取り、膳や椀を造っていました。これらの人々を木地師木地屋)と呼び、古墳内を利用し、隠里として使用していたのであります。だからこそ膳や椀を貸すこともできた。つまり石室は木地師の工房、住居として機能していたのです。

 

f:id:awa-otoko:20160728220702j:image 

木地師とは9世紀に近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)で隠棲していた小野宮惟喬親王が、周辺の杣人に木工技術を伝授したところから始まり、日本各地に伝わったと言う伝説がある。 蛭谷、君ヶ畑近辺の社寺に残っていた『氏子狩帳』などの資料から木地師の調査、研究が進んだ。

木地師は惟喬親王の家来、太政大臣小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り山の7合目より上の木材を自由に伐採できる権利を保証するとされる「朱雀天皇の綸旨」の写しを所持し、山中を移動して生活する集団だった。実際にはこの綸旨は偽文書と見られているが、こうした偽文書をもつ職業集団は珍しくなかった。綸旨の写しは特に特権を保証するわけでもないが、前例に従って世人や時の支配者に扱われることで時とともに実効性を持ち、木地師が定住する場合にも有利に働いた。

木地師は木地物素材が豊富に取れる場所を転々としながら木地挽きをし、里の人や漆掻き、塗師と交易をして生計を立てていた。中には移動生活をやめ集落を作り焼畑耕作と木地挽きで生計を立てる人々もいた。そうした集落は移動する木地師達の拠点ともなった。 幕末には木地師は東北から宮崎までの範囲に7000戸ほどいたと言われ、 明治中期までは美濃を中心に全国各地で木地師達が良質な材木を求めて20〜30年単位で山中を移住していたという。(Wikipediaより)

木地師は古墳などの塚穴の他に木材が豊富にある奥深い山中でも生活をしておりました。阿波では木地師の活動が盛んであった六郎山。すなわち轆轤山などが有名。「阿波志」に「轆轤山、坂本村にあり。上に経塚あり里民これに雨乞す。また通夜石あり、俗に伝ふ釈空海弘法大師)跌座の所。この地霜降らず、蛭人をすはず」とあります。

f:id:awa-otoko:20160728221518j:image

定住せず山野市町に漂泊する人々。歩き筋とも呼ばれる彼らは、木地師の他にも行者、山伏、聖、毛坊主、御師、巫女、比丘尼、遊女、猿回し、傀儡子、人形回し、万歳、タタラ師、マタギ、サンカ、博労、杜氏などがおり、それぞれ特異な生業者技術をもって遍歴しながら体得した知識や情報を閉鎖性の強かった定住者社会にもたらした文明の伝播者だったのは云うまでもありません。
今回、阿波における木地師と神との繋がり(のヒント)を見いだすことができましたが、現実資料が少ないのでまとまった証拠を入手してからご紹介したいと思います。(ヒント:木地師のルーツにかかわる小野氏。新田一族は小野氏と関連あり。)


とりあえずプロローグとして「膳・椀 貸し穴の伝説」の正体を暴いてみました。今後、この続きがあるかどうかは気分次第でございます。まだまだ優先して書きたいことは山ほどあるしね。何から書くかは乞うご期待。

それでは今回はこのへんで。。、、、

東宮山に頓宮したのは誰だ?

はい。いつものテーマには少し飽きてきたので今回は違うテーマで進めてみたいと思います。

個人的にとても気になっていた美馬郡麻植郡名西郡の移動の要所であった東宮山ですが、やっと登頂してきました。事前に古跡の位置も調べての現地調査だったので、伝承と現地の相違点、多少ですがわかった(ような気がする)ので、書いてみたいと思います。

 

f:id:awa-otoko:20160724221045j:image

 

東宮城跡は名西郡神山町上分と美馬市木屋平の境にそびえる高さ1090㍍の東宮山にあります。東宮山はまわりの山と比べると際立って高く、谷は深く、四方を一望可能な自然の砦となる山なのです。

 

 

 

東宮城は元暦、文治の間(1184〜1189)、源氏との戦いに敗れた平家の残党が安徳天皇を擁して逃れ、一時滞在した「頓宮地(とんぐうち)」であり、「東宮(とうぐう)」の名は「頓宮(とんぐう)」より起ったと伝わります。 

f:id:awa-otoko:20160724221119j:image

現在、東宮山頂上の少し下に東宮神社、春宮神社の二社が鎮座し、頂上にはその二社の奥之院が神山上分側、木屋平側に存在しています。

 

f:id:awa-otoko:20160724221154j:image東宮御所神社拝殿:名西郡神山祭祀)

 

f:id:awa-otoko:20160724221221j:image(春宮神社拝殿:旧麻植郡木屋平祭祀)

 

f:id:awa-otoko:20160724221516j:image (東宮山頂上 奥之院二社)

 

f:id:awa-otoko:20160724221555j:image東宮御所神社奥之院)

 

f:id:awa-otoko:20160724221620j:image(春宮神社奥之院)

 

宝暦四年(1754)に神山と木屋平両村に流血事件が発生した以来、別々に祭祀が行なわているとのこと。昔は春の例大祭が盛大に催され、各氏子、他の地域からも参拝があり賑わいをみせていましたが、現在はその面影もなく山の奥の寂れた神社となってしまっています。とても残念なことです。

f:id:awa-otoko:20160724222510j:image(200㍍続く馬場:宮の久保跡。かつての春の例大祭では屋台などが所狭しと並んで賑わいをみせていたと記録に残る。)

 

さて、伝説では安徳天皇一行は麻植郡美郷村別枝山の穴路坂より尾根伝いに東宮山に入り頓宮所を造営。さらに木屋平へ降りて剣山方面へと移動されたとされます。

東宮山には安徳天皇にまつわる古跡が伝承されております。その数は多く、具体的な位置までもが伝えられています。

個人的には平家の落人が逃避中に規模が大きい建物の数々、また、平家の残党として知られているのを前提し、美馬郡麻植郡名西郡の移動の要所付近で生活を営むことができたのはとても不自然であると感じました。

伝承の内容は安徳天皇達が陣営の場所として設けた場所より退去した後、その施設を利用した何者かの事と混同していると思うのです。

とりあえず伝承のもとが安徳天皇なのか他者なのかは置いといて、現在に伝承されている古跡を下記に挙げてみました。

 

・鞍掛石
東宮神社拝殿前の巨石で安徳天皇一行が逃れてきた時に、鞍を置いた遺跡。

・王屋敷
現在は「大屋敷」。二ヶ所存在し、ひとつは東宮神社拝殿より約1㎞東の地、もうひとつは府殿の釜ヶ谷の西北の高原にある。平家落人の屋敷があった場所。

・王泉
現在は「大泉」。東宮神社拝殿より西へ200㍍。東宮城が存在した時に御供えの水を汲んだ場所。

・鍛冶屋敷
府殿の釜ヶ谷の西北100㍍。王屋敷の隣。東宮城があった時にに武器を調達した場所。

・西門
東宮神社より西南180㍍。門跡であるが今は大きな石のみ。

・七屋敷
西門跡へ行く途中にある。東宮衛府の武士の屋敷跡。

首級塚
東宮神社の西550㍍地点にある。平家が落ちてきた際に、持っていた首級を埋めた場所。また、東宮城にいた平家が源氏の兵に襲われたとき、戦死した者の首級を埋めた場所とも。

・槍の久保
首級塚より西100㍍。かつて源氏軍来襲の時に槍袋をつくり防戦した場所。

・観音湯
東宮神社拝殿より西へ330㍍。東宮城があったとき、平家の武士の中のひとりが道場を構えて、戦没者の冥福を祈った場所。かつてこの場所より仏像が出土。下分の西光寺にて供養している。

・末利(まり)の久保
東宮城があったとき女官が鞠をして遊んだ、また平家の軍兵が退屈しのぎに蹴鞠の技を競った場所。「鞠」が「末利」になったと伝えられている。

・宮の久保
安徳天皇東宮山にいたときの大宮御所の遺跡。東宮神社拝殿より東に200㍍の場所。

 

首級塚などは平家落人伝承であろうと推測も可能なのですが、それなりの屋敷を造営してゆったりと居住する余裕も無かったはず。

私は東宮山の古跡の中は、土御門上皇御所経営と移動経路が含まれていると考えるのです。阿波での土御門上皇の移動経路は安徳天皇とリンクしているところが多々ある。(阿讃山脈付近から麻植郡山越えルートに限定して)

また、土御門上皇は土成町の御所から県南日和佐薬王寺に移動した伝承が残されています。しかし阿波の南方へ行く途中経路の伝承は一切耳にしたこともなく、文書として残されたものを確認したこともございません。

 

それでは早速、東宮神社・春宮神社から土御門上皇伝説に落とし込んでいきます。

 f:id:awa-otoko:20160724222218j:image

 

土御門天皇は、承久の乱敗北により、土佐、そして阿波に配流された。当時、土御門天皇は弟の順徳天皇に譲位して上皇となっていたが、実権は父の後鳥羽上皇が握っており、挙兵には関与していなかった。そのため、鎌倉幕府土御門上皇を処罰の対象と考えていなかったが、父帝が配流となったのに自分のみ京に留まるのは偲びないとして、自ら配流となり、承久3年(1221)10月、土佐に流された。貞応2年(1223)5月27日、幕府の配慮により、京に近い阿波に移された。阿波には9年間滞在。寛喜3年(1231)10月11日、阿波で崩御し、火葬された(阿波神社由緒)。遺骨は京へ奉遷され、西山金原法華堂に葬られた。嵯峨二尊院にも供養塔がある。 明治になり水無瀬神宮に合祀された。

阿波神社徳島県鳴門市。
土御門天皇火葬塚 池谷伝承地:徳島県鳴門市。皇室治定。丸山。
土御門天皇火葬塚 里浦伝承地:徳島県鳴門市。尼塚と呼ばれている。
・新野・御所神社:徳島県阿南市新野町。行宮があった。
・松木神社:徳島県板野郡板野町下庄栖養。栖養行在所(松木殿)跡にある。
南陽離宮跡:徳島県板野郡藍住町
・春宮神社:徳島県美馬市東宮山山頂。東宮山は行在所ともいう。上皇とともに皇子の後嵯峨天皇も祀る。
若宮神社徳島県阿波市吉野町柿原植松
・吉田行在所跡:徳島県阿波市土成町御所。御所神社があった(吉田椎ヶ丸の吹越神社に合祀、改名)。吉田御所屋敷
・阿波・御所神社:徳島県阿波市土成町吉田。元は吹越神社と言い、吉田行在所跡にあった御所神社を合祀して改名した。
・奥御所神社:徳島県阿波市土成町宮川内。上皇の終焉の地とされる。切腹したという御腹石がある。Wikipediaより)

 

●上記土御門上皇の古跡において謎解明のヒントになり得そうな部分

板野郡の土御門上皇の古跡の近くには一番札所霊山寺霊山寺奥ノ院 種蒔大師、大麻比古神社、宇志比古神社がある。しかも阿波神社以前に鎮座していた丸山神社は大麻比古神社へ移遷されている。また、土御門天皇火葬塚 池谷伝承地の被葬者は断定できていない。

土成町の上皇古跡についても、御所という地名はもともと安徳天皇と平家一党が仮御所を設営していた陣営である故の伝承もあり、安徳天皇土御門上皇の情報が交差している状態である。上皇終焉の地と伝承される腹切石で切腹したのは何ら関係のない者である。

 

という訳で先に進みますね。

まず神山側祭祀の東宮神社鳥居扁額には「東宮御所神社」とあります。

 f:id:awa-otoko:20160724221907j:image

f:id:awa-otoko:20160724221919j:image

東宮御所は皇太子の御在所を意味し、春宮神社の春宮も若宮の意味として同じで皇太子を意味します。

東宮/春宮とは
皇太子の居所,転じて皇太子の別称。五行説で東は春にあたるところから,春宮とも記す。東宮職員令によると,東宮すなわち皇太子の輔導にあたる傅・学士と,皇太子の家政機関たる春宮坊とを区別している。六国史等に見える実例もおおむねこの区別に従っており,皇太子その人をさす場合は東宮と書かれることが多い。《官職要解》によると,東宮は御座所を,春宮は官司をさし,もとは皇太子の別称ではなかったが,これを混用して皇太子を東宮,春宮と書いて〈とうぐう〉と読み,また春宮を訓で〈はるのみや〉と読んだものという。

 

木屋平祭祀 春宮神社の祭神は土御門天皇

土御門上皇後鳥羽上皇の皇子であり、後鳥羽上皇天皇の位を土御門に譲った後も強い院政を敷いたために土御門天皇は何時までも東宮(皇太子)のようだと評されていたということ。天皇としてではなく上皇としての名前の方がポピュラーである土御門上皇を祀る神社が東宮神社、春宮神社と称されるのはこれが理由であると考えます。

後鳥羽上皇鎌倉幕府打倒を計画した際に土御門天皇は反対。これにより後鳥羽上皇の怒りを買って土御門は天皇を退位させられ順徳天皇に譲位。
その後鎌倉幕府承久の乱を鎮圧。後鳥羽上皇隠岐順徳天皇を土佐に流配した。一件に関係が薄いと判断された土御門上皇に処分は無かったものの、自らの意思で阿波へ移動。そして阿波で崩御された。


土御門上皇が阿波に行かされる理由は特に見当たらず、土御門自身が阿波に赴く理由を持っていたのではないかと思うのです。阿波での土御門上皇所縁の地はいまいちピンときません。強いて言うならば、、、空海が開いていった阿波の古跡を辿っていたような部分が見受けられます。東宮山の南側には川井峠、西には天行山があり、空海が開いた天行窟は焼山寺本来の奥ノ院という)
東宮山が巡幸地であったならば、ほぼ間違いなく剣山が最終目的地であったことは確実。まず初めに土佐へ流れてから阿波に入国していたことになっていますが、剣山巡礼を終えてから土佐へ移動した可能性も… (剣山拝礼は歴史上有名な人物が多々行なっていますが表には出ていません。)

そして土御門上皇の最期、崩御についても明確になっておらず、もしかすると出家して、土成 薬王子大権現の御神体を日和佐に移動したのではないのか…

 

結論を書くと、安徳天皇については木屋平森遠から祖谷周辺で落ち着いたと考えます。一時的には東宮山を経由した可能性は限りなく高く、隠遁したことも考えられますが、それなりの屋敷を建て居住しできるような余裕はなく、安息の地にはならなかったと考えます。(途中の麻植郡名西郡を通過しようした一部の平家落人は、ことごとく追手に成敗されており、塚や板碑等が残されています。)

考証できる資料がないので断言はできませんが、安徳天皇率いる平家落人の移動経路、そして空海、他の歴史上人物(行基役行者など)からの情報をもとに阿波を拝礼行脚した土御門上皇の旧跡が含まれた伝承地、それが東宮山の伝説として今に残されているのかもしれませんね。

冒頭にも書いたように、美馬郡麻植郡名西郡の移動の要所である東宮山。阿波の歴史上重要な地点であることは間違いありません。道は悪いですが、RV車なら頂上付近行くことが可能なので気になる方は行ってみては如何でしょうか?

2年後には美郷の倉羅々峠、東宮山、川井峠を結ぶ舗装路が完成するとのことで、今から待ち遠しい限りです。

木屋平 森遠の成願寺で!?

f:id:awa-otoko:20160719202645j:image

梅雨がやっと明けましたね。これからもっと気温が上がって暑くなりそうなので、今回はちょっと涼しくなるお話を含めながら進めたいと思います。

成願寺の庵主、南与利蔵の話によると、成願寺の無縁仏のある草地には、沢山の五輪塔の頭部がある。二〜三十個はあるという話だが、それは五輪塔の空、風輪にあたる重さ五〜六粁のものである。昔、五輪塔の宝塔部分だけをすえて墓とする、略式の方法ではなかったかという説もある。それでは、どんな事件でここに沢山の墓があるのだろう。森遠城は百米上方にある。山岳武士として活躍した南北の朝時代に、三ッ木の三木重村らと共に出征して、他郷の地で戦死した木屋平家の勇士達の首塚なのか?。
あるいは蜂須賀入国の砌。これに反抗した木屋平上野介の家来達の墓だろうか?。南北朝の末期の、森遠合戦で討ち死にした木屋平家の勇士達なのか?。今はこれらを裏付けるすべもない。(木屋平の昔話より)

さて、引用した内容を知らずにわたくし、awa-otokoは成願寺裏の草むらに失礼してしまったのです。

 f:id:awa-otoko:20160719203346j:image

目に留まった「休石」の文字。とても気になるではありませんか。(苦笑)

 

ぞわぞわ…

 

ん、ちょっとヤバい雰囲気やなぁ… さっさと草むらから出よ…

f:id:awa-otoko:20160719203441j:image

休石と思わしき岩を撮影し、そそくさと草むらから出ました。(あとから調べてみたら「休石」、その土地の所有者の名前だったかもしれない。(笑))

そんな草むらは昔、無縁仏を祀った五輪塔がゴロゴロとあったとか。たった今知りました。(うわぁ…)

寺社仏閣巡りをしていますと、多々そんなことはあるので特に気にすることなく成願寺の結界(鳥居)をくぐって境内に入ります。

その時またもや、、、

 

ぞわぞわ…

 

境内の空気は冷たく、どことなく重たい感覚に感じましたが、特に禍々しい気配ではなかったことから特に気にすることもなく成願寺の真裏を調べていました。

f:id:awa-otoko:20160719204057j:image

f:id:awa-otoko:20160719204123j:image

 

「○△□… (ごにょごにょ)」

 

「ん!?(私)」

 

「○△□…(ごにょごにょ)」

 

「え!?(私)」

 

「○△□○△□……(なんたらかんたら) 」

 

低い男性の声ではっきりとお経を唱える声が聞こえたのです。(何と唱えたかは文字で再現できず。)驚いて正面に廻って本堂の内部を確認しましたが、中には誰も居る訳ではなく無人

あとから現地の知人に話をすると、成願寺は常に関係者が祭祀をしていてお経を唱えているとのこと。しかし、前の扉が開いていなかったことを伝えると知人も「え!?」っと驚き、「うわぁ…」と言うとそれ以上何も語らず。(余計に怖いわ… )

 

 f:id:awa-otoko:20160719211927j:image

成願寺の裏で静かに眠っていた何者からの気分を害してしまったのでしょうか。明らかにお経を唱えている声だったので、私がズカズカと境内に踏み込み塚をくまなく調査していたので目障りだったのかもしれません。

聞こえたのがお経というのが気になったので、真摯な気持ちで私の失礼を詫びてから、速やかに成願寺を後にしました。


という訳で(どんな?笑)、ちょっと涼しくなる体験をしながら確認した結果がこちら。

f:id:awa-otoko:20160719204242j:image

f:id:awa-otoko:20160719204255j:image

大小様々なお墓、塚石の中にひときわ刻まれた文字が目立つお墓。

 「瓊 早雲家祖先霊祭御墓」

こちら早雲、岩雲、村雲、飛雲、花雲。忌部五雲として伝えられる神官家のひとつ、早雲家の墓であろう古いお墓です。

 

f:id:awa-otoko:20160719204953j:image

そして墓の正面には「お剣さん」と呼ばれる立派な立石。忌部の祭祀跡には必ず存在する立石、「お剣さん」は忌部祭祀の発祥地と考えられる剣山の遥拝所であったと伝えられています。

耳元でお経を唱えられながら先々、忌部神官家である早雲家のルーツは木屋平と証明できる証拠(になるかもしれないもの)を見つけてしまいました。

もともと木屋平は旧麻植郡であったことから、中世国衙として活動が盛んであった美郷の種野山、山川の種穂山方面へ、忌部祭祀と共に移動していったのかもしれません。 

 

今回の説、あくまで個人的な想定ですので取り扱いにご注意すると共に、やみくもに神聖な場所や静かに霊が眠る場所に立ち入らないように気をつけましょう。

最後に。

絶対にひやかし気分で現地に行かないように!!これを見ている良い子のみんな、約束だぞ!!